225.葵、再び

 今日ほど気が気でない一日、というものは過去に経験したことがなかった。


 新学期。2年に入って最初の授業。

 昨日まで始業式の後も授業があって面倒くさいとかウダウダ言っていたが、そんなもの全て吹き飛んでしまった一日の始まりだった。

 その混乱は数時間経過した今も収まっちゃいない。


 始業式もつつがなく終わり、午前最後の授業時間。前方では担任が新学期ならではの諸事項について説明している。

 紙を片手に語られる解説を右から左に流しつつ、チラリと目を横に向ければ真剣に話を聞いている若葉の横顔が目に入った。

 まっすぐ先生の話をキチンと聞いているようで時折メモを書き込んでいる。そんな最中ふと俺の視線に気がついたのか唐突に彼女が横を向いて俺と視線をパチっと合わせると、はにかんだ笑顔を浮かべながら小さく手を振ってくる。


「っ……!」


 そんな輝かしい笑顔についつい目を逸らしてしまった。

 なんだろう。普段から見てる顔だというのに今日はなんだか一層眩しく見える。


「――――そろそろ鐘が鳴りますね。今解説した委員を午後決めますので、お昼の内に考えておいて下さい」


 ―――どうやらこの一時間ずっとボーッとしていたみたいだ。

 そんな先生の締めの言葉と同じタイミングでスピーカーからチャイムの音が鳴る。

 体感5分、実働約10倍の間隔で授業が終わり、生徒たちから一斉にざわめきを伴って解放感が放たれる。


 席を立った生徒たちから口々に『お腹すいた~』などと聞こえてくる。時刻を見ればこれから昼休み。今日は随分と時間の流れが早く感じる。

 体感2時間目の終わりではあるが昼休みというのであればご飯を食べねばなるまい。そう考えて手早く財布を準備し隣の少女を呼ぼうとする。


「なぁ、わか――――」

「若葉ちゃん!どう!?私達と一緒にお昼食べない!?」


 彼女へ声をかけようとした瞬間、タッチの差でやってきたのは名も知らぬクラスメイトだった。


 またか。

 と、上げかけた手をそっと降ろし心の内側で嘆息する。


 朝の挨拶からこっち、若葉に事情を説明してもらおうとしても絶対こうやって誰かしらやってきていた。

 更にさすがはアイドル。さすがはコミュ力お化けと言うべきだろうか。一瞬にして取り囲まれた若葉は嫌な顔一つ見せずクラスメイトの声に一つ一つ対応している。


 突然学校にやってきた事情、聞きたかったんだけどな。

 休み時間に無理ならお昼に聞こうと思ったけど無理そうだ。

 まぁ学校終わってからとかいくらでもタイミングはあるしな、と納得させる。今日のところは諦めて、さっさとお昼を食べにでも――――


「――――ねぇ貴方、ちょっといい?」

「ん?」


 クラスメイトに取り囲まれる隣の席。その様子を横目に一人席を立とうとすると、ふと俺を呼ぶ声に気がついた。

 顔を上げれば俺の横、若葉の反対側の少女がまっすぐこちらを見て話しかけている。

 見ない顔…………いや、転入生か。若葉が衝撃的すぎてすっかり飛んでいたけど、そういえば転入生は二人だっけ。


 肩甲骨ほどの黒い髪に青い瞳。目の下の泣きぼくろとほんの少し鋭い目つき。そして利発さを感じさせる声。なんだか見覚えも聞き覚えもあるような気がしないでもないが…………全く思い出せない。


「これからお昼でしょう?一緒にどう?」

「……俺とか?」

「この状態で貴方以外にいると思う?それとも私とは嫌?」

「えっと……」


 何事かと思えばお昼の誘いだった。

 彼女もまた転校生。もしかしたら勝手がわからないかも知れない。

 言うなれば人助けってところか。しかし俺一人だと都合が悪くもある。嫌とかそういうのではなくって初対面と二人でお昼とか絶対話が続かない。

 そんな確信がある俺は、助けを求めて麻由加さんへ救いの視線を――――


「お昼だねっ!行こ行こっ麻由加さん!」

「え!?あっ、はい!今行きます!」


 麻由加さんの方へ目を向ければ、丁度松本さんに引っ張られて教室を出るところだった。

 出る瞬間こちらと目が合って申し訳無さそうに頭を下げられる。……無理ってことね。了解。


「どう?都合悪い?」

「……いいや、大丈夫だ。食堂になるけどいい?」

「えぇ。むしろそのほうが助かるわ。お願い」


 了解。食堂ね。

 孤立無援。気まずさが自身の中で増大していくが、頼られた以上遂行しなければ数々の依頼をこなしてきたセリアの名が廃るというものだ。

 これも一種のクエストだと心の内で受注音を鳴らして快諾する。




「……ふぅ。やっぱり変な感じね」

「何かあった?」


 名もわからぬ転入生を連れて出てきた廊下。

 数歩進んで人通りが少なくなってきたところで、ふと彼女が息を吐く姿にチラリとだけ後ろを見る。


 窓から吹き込む風に髪を抑えて受け止める姿。

 その美しささえも感じる姿は何かを思い出しそうで…………。


「いえ、見知った顔が学校に居るってことよ。ずっと見てるのにロクに反応してくれないし」

「…………あぁ」


 見知った顔。

 転入初日からそんな人がいるのかと一瞬驚きもしたが若葉のことか。

 確かにメディアなどで露出も多いからそういう言い方もあるかも知れない。それに気が気でなかった俺と同様に、彼女もまた授業中ずっと若葉を見ていたらしい。

 さすが若葉。一緒に転入した子の目さえも奪うとは。


「そういうもんじゃないのか?っていうか授業中は授業に集中しなよ」

「生徒も教員も、みんな若葉ちゃんに気を取られて浮足立った雰囲気。そんな中で集中しろってのは無理あるわ。そのずっと見てた誰かさんも、私じゃない誰かを気にしてたしね……!!」


 後ろから聞こえてくる怒気を含んだ声。

 何やらその言い回しには腹立つものがあるご様子。

 生徒たちの雰囲気は仕方ない。元とはいえ人気アイドルが目の前に現れたんだもんな。気持ちは重々承知する。俺も初めて会った去年の秋はそんな感じだった。

 その"私じゃない誰か"っていうのは、もしかして手を振って返された俺のことを指しているのだろうか。それが原因で怒っていると……?


「……もしかして俺に怒ってるのか?」

「あら、よく気づいたわね」

「いやいやいや。理不尽すぎるだろ」

「理不尽?正当な怒りよこれは」


 理不尽の塊!!

 昼に俺を誘ったのもこれが理由か!!

 若葉が俺に手を振っただけでここまで怒りを向けられるなんて!!

 もしかして彼女、雪以上の強火ファンか…………!?


「正当性の欠片もないだろう……。そういうのは若葉本人に言ってくれ。優しいからきっと構ってくれるぞ」

「はっ?若葉に?なんで関係ないあの子が出てくるのよ?」

「いやだって、授業中若葉をずっと見てたんだろ?」

「若葉を……ずっと……? …………」


 俺の言葉を小さく復唱した彼女は何やら考え込む様子で目を伏せる。

 唇に手を当てほんの少し立ち止まる。もうこのまま逃げてしまおうかしら。でも逃げたところで席隣だしなぁ。

 そんなことを考えようとした瞬間、彼女の伏せられた目はキッと俺に向けられ手首をガシッと掴まれる。


「ちょっと来なさい」

「えっ!?ちょっ……!?」


 手首を握って逃げられないようにしながら突き進む廊下。

 中央をズンズン進む姿は生徒が少なくて幸いした。まるで押しのけそうな雰囲気だったから。

 そんな彼女がたどり着いたのは廊下の突き当り。生徒は誰もおらず、ただただ遠くから喧騒のみが聞こえてくる。


「ねぇ、貴方。一つ質問するわ。答えられる?」

「質問?何を――――!?」


 バァン!!

 そんな手のひらを強く叩きつける音が耳元で鳴り響いた。

 壁際に追いやられた俺は背中をピッタリ貼り付ける形で彼女と向かい合う。

 一方彼女はその長く細い腕を俺の耳ギリギリで叩きつけ、顔を正面すぐ近くまで持っていく。


「――――私の名前を、よ」


 彼女が行った行動は、いわゆる壁ドンだ。

 普通男女逆であるところを彼女は何の躊躇いもなくやってみせた。


 名前?そんなもの朝方先生が言ってた言葉を思い出せば――――何だっけ?

 そういえば若葉の衝撃が強すぎて完全に聞き逃していた。

 俺が当時を思い出している間も綺麗な青い瞳が俺をまっすぐ見つめる。しかしその視線に耐えられず俺はスッと視線を逸らした。


「ごめん。名前……聞き逃してた」

「聞き逃してた?じゃあその前は?知ってるわよね?私のこと」

「その前…………?」


 知ってる?彼女のことを?

 その言い方は以前から顔見知りかのようだ。

 しかし俺は身内を除いてこんな綺麗な瞳をした子は…………わからない。


「ごめん……」

「…………やっぱり覚えてなかったのね。せっかくひとつ屋根の下で一晩過ごしたというのに」

「…………えっ?」


 目と鼻の先で寂しそうにポツリと呟く彼女の言葉に、俺は一つの過去に思い至った。

 俺がひとつ屋根の下で女の子と過ごした経験なんて僅かしかない。若葉たちを除いてあるのはたった一週間前のこと。

 雪に拉致されて向かった祖父母の家。そこで出会った一人の女性。あの時はサングラスで全容が知れなかったが、もしかして彼女は――――


「も、もしかして………あお――――」

「―――あ~~!!葵ちゃん!!!」

「っ――――!?」


 まさか彼女は……。

 そんな思いながら名を呼ぼうとした瞬間、言葉を被せるような叫びにも似た声が俺達の間を割り込んだ。

 バッと二人して振り返ればそこに立っていたのはこの学校の制服に身を包んだ見慣れない姿の少女、若葉。俺は目を丸くして若葉に話しかける。


「わか……ば……?」

「どこに消えたかと思えば葵ちゃん!陽紀君を連れ去らないでよね!!」

「なんで若葉がここに……?」

「一緒にお昼って思ったら陽紀君がいなかったから!匂いをたどってきたよ!!」


 匂いを!?

 俺そんな変な匂いしてるかな……?


 ズンズンと近づいてくる若葉に壁ドンを解いて向かい合う葵さん。

 転入生同士の二人が俺の眼の前で相対する。


「あら若葉。別にこの人をどうしようが貴女には関係ないんじゃない?」

「葵ちゃんは知らないかもだけど関係大アリだよ!だって――――」


 ゾッと―――。

 何やら背中にえもいえぬ恐怖が走った。


 一歩、一歩と相対していた若葉がこちらに近づいてくる。

 それと同時に俺の脳裏で一つの警鐘が鳴り出した。

 そこから先は絶対に言わせてはならないと。言ったらとんでもなく面倒なことが起こってしまうと。


「ちょっと若葉!まっ――――」

「だって――――私は陽紀君の"婚約者"だもんっ!!」

「婚約……者……?」

「うん!!」


 俺の横まで到達した若葉が腕を抱いて発した一言。絶対零度の一撃。


 時が止まる。

 世界が一瞬で凍りついてしまったかのように。

 それは意味を、情報が処理できないということ。まさに無量空処を喰らってしまったかのように俺達の間に静寂が包み込む。


「はっ……?」

「あぁ………」


 フリーズから解けるまで半年……とまではいかなかったが幾ばくかの静寂の後、葵さん、俺と順に声にならない反応をする。


「えっへん!!」


 一方まるで誇るように鼻を高くする若葉。

 それは彼女によって投げ込まれた一つの爆弾であった。

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