205.ハルキウム

「ぇ……きて……おねがい……」

「っ…………」


 ゆらゆらと、まるで暖かな海の中に漂うような浮遊感。そしてここから抜け出したくないと思うような心地よさと脱力感。

 それは水面から差す光を嫌うように深く深く沈んでいく。まるで自分が深海魚になったかのように暗い場所を心地よいと実感し、天高くから見える光から逃げていく。


「ねぇ、はる――。おき―――」

「んん…………」


 しかし光はどこまでも俺を追ってくる。

 深く逃げても逃げても輝きは強くなっていき、ついには逃げる俺の背中に触れる。

 一気に引き上げられていく俺の身体。網に引っかかった魚のように。光の差す水面へとぐんぐんとジェットコースターのような速度で一気に――――


「陽紀くんっ!おきてっ!!」

「はっ―――!!」


 何者かに引っ張られて一気に浮上した意識。その飛び込んだ先に見えたのは若葉の顔だった。


「陽紀くん…………」


 仰向けになる俺を覗き込むようにこちらを伺う彼女の様相。それは今にも泣きそうな様子。一体なぜそんな顔をしているのだろう。そんな疑問が浮かぶよりも早く、涙目の彼女は俺が目を覚ますと認識するや否やバッと胸に飛び込んできた。


「わ、若葉!?」

「うわぁぁぁん!はるきくん~~!!いっちゃやだぁ~~!!」

「はっ!?えっ!?」


 突如として胸に飛び込んで泣きわめく若葉。当然のことながら心当たりなんて一切ない。あまりにも理解が追いつかない言動と表情に、俺の思考は混乱の渦へと巻き込まれていく。


「わ、若葉、落ち着いて……一体何があったの……?」

「ぐすん……。だって……陽紀が遠くに…………うぅ…………」

「俺が遠くに?一体何の話………」

「―――若葉さんは混乱してるみたいだから、あたしが説明するよ」


 言っていることが支離滅裂で全く説明になっていない胸元の若葉。

 昨日夜更かししたことも相まって寝起きで回っていない頭を必死に動かそうともがいていると、そんな俺に救いの手が差し伸べられた。


 泣きじゃくっている若葉から顔を上げれば入り口の扉を背にヤレヤレと肩を竦めている雪が。

 そんな妹がこちらに近づいて若葉の背中をさすると同時にこちらにバスケットボール大の何かを突きつけてきた。


「これは……リュック?」

「おにぃって今春休み中で毎日暇でしょ?」

「いや?新たな脅威から世界を救うためのレベリングで毎日忙しいんだが?」

「ヒ・マ・で・しょ?」

「…………うす」


 妹から「暇でしょ?」と聞かれた時点でロクな予感がしないのは確定的に明らか。

 のらりくらり逃げようと思ったが、背中から悪鬼が見えてあえなく首を縦に振る。


 にしてもこれは……俺のリュックか?

 中身は服とか歯磨きとかどこかに泊まりにでも行くようなものばかりだ。

 なんで俺のものを雪が勝手に詰めてるんだとか聞きたいことも出てきたが、悪鬼によってそんなこと聞ける雰囲気じゃなくなってしまった。


「そんな毎日家事もしない暇なおにぃに朗報です!!実家に帰ることとなりました!!」

「…………はい?」


 ついで感いっぱいに思いっきりディスられたものの、同時に訳のわからないことを言い出して思わず怪訝な顔を向けてしまう。

 実家に帰る?俺が?この荷物持って?


「俺が?」

「うん」

「雪と二人で?」

「うん!」

「…………。そっか。行ってらっしゃい」

「ちょっと!まってまっておにぃ!!」


 自信満々に大きくうなずいた雪だったが、"たかがそんなこと"のためにここまで大事にするのはおかしいと結論づけ俺は早々に二度寝の姿勢に移る。

 あーやだやだ。たかが家に戻るだけでこんな荷物もいらないでしょ。若葉も泣くことないでしょ。………って雪!!布団引き剥がさないで!!


「なんだよ……たかが徒歩数分の家に帰るだけだろ。荷物もスマホで十分だし泣くこともないって」

「徒歩数分の家じゃなくって電車で数時間!おじいちゃんとおばあちゃん家!」

「あ、そっち?」


 5分も歩けば着くような家にわざわざ何しに行くかと思ったが、その言葉を聞いてようやく得心がいった。


 おじいちゃんとおばあちゃん家。

 ここから電車で2~3時間はかかるであろう田舎に住んでいる二人。

 そういえば長休みになるとよく泊まりに行ってたっけ。最後に行ったのは……1年くらい前?


「そっかぁ……その時期かぁ……。今年は随分早いな」


 体感的に。色々とありすぎて。

 主に秋以降があっという間だった。若葉が来て色々あって、気づけば春だ。

 リュックの中の服はちょうど2泊分だし、予定はそれで決まりだな。


 すまんヒナタさん。今日明日は行けそうにない。


 あ、そういえばもう一つ聞かなきゃならないことがあったんだ。


「……んで、なんで若葉はこんな状態に?」

「うぅぅ…………2日もハルキウムが接種できないなんてぇ…………」

「ハルキウム?」


 なんだそりゃ?新手の化学物質か?

 すまんが科学は他を当たってくれ。ほら、ちょうどそこに受験勉強終わった雪がいるから何か知ってるかも。


「おにぃからしか出ない、新手の快楽物…………安心する物質なんだって」


 おい雪、さっき快楽物質って言おうとしてなかった?俺の身体は核物質かなにか?

 視線を下げれば未だにぐずってる若葉が俺の胸元に顔を埋めてガッチリホールドしている。この姿を何も知らない人が見たら到底大人気アイドルとは思えないだろう。


「ほら若葉、顔を上げて」

「うぅぅ……陽紀くぅん……。私もついて行っちゃ、ダメ?」


 顔を上げた彼女は涙でボロボロだ。

 頭に犬耳が生えてたら確実にシナシナになっていたことだろう。

 そんな彼女の頭をそっと撫でるとピクンと身体が震え、すぐに身体を預けてくる。


「今日は社長さんが来るんだろ?穴開けるわけにはいかないでしょ」

「でもぉ……」

「また帰ってきたらいっぱい構ってあげるからさ。今のところは――――これで勘弁して」

「あっ…………」


 そっと。

 身体を預けた時近くにあった頬にそっと自らの唇を触れさせた。

 髪をほんの少しかき分けて触れた綺麗な頬へのキス。彼女は一瞬何をされたか理解できなかったのだろう。目をパチクリさせしばらくボーッとしていたが、事態を理解すると止まっていた瞳に再び涙が溢れ出す。


「陽紀くん……う、うぅ………・」

「えぇっ!?もしかして嫌だった!?」

「ち、違うのぉ……!陽紀くんが……陽紀くんが優しくって嬉しくってぇ……!!」


 またも泣き出したときは本気でショックを受けかけたが、その涙の理由を知りそっと頭を撫で始める。

 自らの胸の中で静かに泣く若葉。こんなに好かれてるんだなぁと実感しつつ、同時に彼女が東京行ってもっと離れる時が来たら一体どうなるのだろうかと危機感を覚えた。


 そんな甘くも暖かな空間。ふと少しだけ忘れていた雪を見ると、思い切り呆れた顔で別の方向を指さしている。

 あっちは入ってきた入り口のほう?一体何………あっ、誰か人が…………


「いいなぁ……若葉さん……」

「っ―――!麻由加、さん……!?」


 雪が無言で指さした先。

 そこには扉からこちらを覗き見る麻由加さんが立っていた。唇に手を当てて何やら羨ましそうな顔で。

 羨望の対象は若葉。そして次に視線を向けるは……俺。


「陽紀さん!」

「は、はいっ!」

「朝雪さんにお聞きしました。祖父母の家に帰省すると。そればかりはお見送りするしか無いのですが、私にはなにか無いでしょうか?」

「な、なにかとは……なんでしょう……?」


 思わず震え声になりながら問い返す。

 この流れは……この流れはまずい!と頭の中で警告を発しながら。


「私にもキス……してくださらないのですか?」

「そ、それは……」

「もちろん抱きしめてなんて無茶な要望はいたしません。ただ陽紀さんから私の唇にチュッとやっていただくだけで結構ですよ?」


 無茶!!

 それ抱きしめるよりも遥かに無茶なやつ!!

 けれど若葉にやった手前頭ごなしに否定の言葉を口にすることは決して叶わず。そうしている間にも一歩一歩と俺に近づいてくる麻由加さん。

 そして横にたどり着いた彼女はニッコリと微笑みしゃがみながらこちらに顔を近づけた。


「はい、陽紀さん。私にもやってもらえなければ……若葉さん以上に泣いてしまうかもしれません」


 え、それはそれで見たいかも――じゃなくて!

 それはマズイ。色々と。俺の今後の人生の弱みとかそういう意味で。

 しかし正面には目を瞑って今か今かと待っている麻由加さんが。

 これはアクションを起こさなければ決して進むことはないだろう。…………仕方ない。ここは心を決めるしか!!


「――――チュッ」

「……あら」

「…………。はい、若葉と同じようにやったよ。今はこれで許して?」


 心を決めた俺は彼女に従うよう、その唇へ……ではなく頬へそっと唇を触れさせた。

 これで同じだ。許してもらえなければあとは逃げるしかあるまい。そんな思いで次の動向を伺っていると麻由加さんは満足したようにゆっくりとうなずく。


「わかりました。"今は"これで満足します。一泊二日のご旅行楽しみにしていてください。

「ほっ………」


 なんとか助かったようだ。

 スッと立ち上がった彼女はそのまま部屋の外へ。

 ――――出る直前に、「そうでした」と思い出したかのようにこちらへと振り向く。


「そう言えば話は那由多と灯火さんもご存知ですので、お二人にもキスを忘れないでくださいね?」

「え゛っ……」

「ふふっ。早く起きないと二人とも突入してきちゃいますよ」


 まるで愉快犯かのようにクスクスと笑って部屋から出て行ってしまう麻由加さん。

 よくよく耳をすませれば確かに向こうの部屋から二人の声が聞こえてくる。あと2回もか………。そんな思いを抱きながら、俺は雪の「爆発しろ」という言葉を聞き流すのであった。

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