198.冬雨

「んぁ…………」


 揺れるようなまどろみの中からゆっくり意識を浮上させていく。

 冬の寒さから優しく守ってくれるような布団のぬくもり。まるで金魚すくいの"ぽい"のように優しくすくい上げられるように、フワリとゆっくり瞼をあけた。


「ここは…………」


 目が覚めて真っ先に視界に収まったのは見覚えのない天井。ちらりと辺りに視線を移動させるとクローゼットに机、愛用のPCなどに覚えのあるものが続々と目に入った。

 ここは自室。この冬より住むこととなった新しい家の一室だ。見覚えのないのはまだ住んで時が経ってないからだろう。薄暗い部屋の中、今は何時かと思って手探りでスマホを探し当てる。


「っ……!?3時!?」


 一目見たときにはギョッとした。

 朝早く目が覚めたわけではない。3時といっても午前と午後が違う。今は午後3時、15時だったからだ。

 この身は学生。15時に目が覚めたとあっちゃ遅刻どころの騒ぎじゃない。大慌てで布団を蹴っ飛ばそうと脚に力を込めた瞬間、寝る直前のことを思い出して直前で踏みとどまる。


「いや、今日は土曜か………」


 そうだ。思い出した。

 今日は土曜日だ。さっきは寝ぼけて寝過ごしたと勘違いしてしまったが、寝る直前のことが徐々に記憶の海から掬い上げられる。

 土曜日の朝。学校は休み。俺は朝からPCを起動してゲームをしていた。でもなんだかんだ一人でやっていると退屈になってくる。お昼ごはんを食べて眠気もそこそこあったから昼寝しようとベッドに飛び込んだんだった。


「びっくりしたぁ」


 危うく寝ぼけたまま飛び起きてそのまま土曜日の学校に突撃することになるところだった。

 しかしそう勘違いしてしまうほどには薄暗い。カーテンを閉めたのももちろんあるが、それにしては寝る前と比べて明らかに光の照りようが違うのだ。

 何故かと思いつつ何気なくカーテンをシャッと開くとその原因を一目で理解する。


「雨、か」


 カーテンを開いた先。そこはザァザァと天から降りつける雫でいっぱいになっていた。

 寝る前は太陽があんなに明るく町を照らしていたのに、気づけばドンヨリとした雲が覆ってる。厚い雲でおおわれたら暗く感じるだろう。

 自問自答に自己解決し、そのまま布団を蹴っ飛ばして冷たいフローリングに足裏を乗せていく。


 本当はずっとベッドで寝ていたい。一生このままでいたいという欲求でいっぱいなのだが、そうなったら今夜寝られなくなる。そうなると日曜も夜更かしして月曜の学校で死ぬのが目に見えている。だから心を鬼にして、これ以上の睡眠は自制する。


「う~、寒っ」


 流石は冬だ。シンプルに寒い。

 エアコンもつけていない部屋は昼といえど薄着じゃ震えるくらい寒かった。自室から隣のリビングに移っても変わらず寒い。誰もいないのか静寂に包まれている。

 そう言えば雪はセツナ――那由多と一緒に遊びに行くって言ってたな。つまり今は俺一人か。そんなのいつものことだが、冬の寒さも相まってなんだか物寂しく感じてしまう。


 しかしそんなことでいちいち感傷に浸っている暇などない。俺は迷うこと無く暖房器具を起動してやかんに溜めた水をIHに置く。

 ガラッと棚を開けて取り出すのはカップスープの粉。こういう寒い日は温かい飲み物が一番だ。ちょうどお昼時だしパンに浸せば更に美味しくなるだろう。水を熱しながらスマホを起動し、女性陣からの通知を確認しつつSNSを…………


 ピンポーン――――


「…………?」


 慣れた手付きでスマホを操作していると、唐突にそんな音が聞こえてきた。

 何の音かなんて考えるまでもない、インターホンだ。誰かが来たらしい。

 雪……は勝手に入ってくるから選択肢から除外するとして、若葉……は麻由加さんとカフェって通知が来てたから違う。なら単純に宅急便か。

 俺は特に頼んだ覚えがないから、また雪が変なもの買ったのだろう。再び鳴らされるインターホンの音に「はーい!」と返事をして玄関まで小走りで向かっていく。


「はいはい、どちらさ……まぁっ!?」

「……………」


 扉の向こうに小さな体躯の少女だった。

 小学生と見まごうほどの背丈、腰まで届くほどの長い長い金色の髪を持った、誰の目をも引く美少女。

 間違えることなどない。彼女は俺の幼馴染であり共に強大な敵を打倒した仲間のファルケ――灯火だ。


 そんな彼女の突然の訪問。

 この家に来て少女たちの訪問は毎日のように行われた。だからそれ自体に驚くことはない。驚くべきは彼女の様子だ。その髪は、服は、身体は無事なところが一つもないほど水に濡れていて、輝く髪も力をなくしているように重力に従い垂れている。


「灯……火……?」

「………陽紀さん……助けて……」


 小さな口から出てくるSOSの言葉。それは明らかに只事ではない様子。

 肩を落とし顔も俯いて力をなくして訪問した灯火。俺はそんな彼女の手を引いて、自らの家へと招き入れた。




 □




 シャァァァァ…………


 遠くから水の跳ねる音が聞こえてくる。

 それは雨の音か。それもあるだろうが正確には違う。隣の浴室から聞こえるシャワーの音だ。


 コトコトと沸騰したヤカンを眺めつつ彼女について思案する。

 一体何があったのだろう。びしょ濡れになってまで助けを求め、只事ではないのは間違いないだろう。なにかよっぽど怖い目にあったのかもしれない。


 俺のところに来たのもなにか理由があったのかもしれないが、何をすればいいかわからない。

 こういう時雪が居てくれたら何かしら小言を吐きつつも的確に動いてくれるのだが居ないのだからしかたない。ならばせめて、温かいものでも飲ませてあげよう。そう思いつつ十分煮沸したIHを止めたところでガチャリと扉が開く音がした。


「陽紀さん……シャワー、ありがと……」

「おかえり。ちゃんと温まることでき――――」


 シャワーを浴び終えた彼女にかける言葉。

 しかしその言葉は最後まで紡がれることはなかった。


 お湯を温めるIHを止めて振り返ったリビングの出入り口。そこに灯火が立っていたからだ。

 ただ立っているのは異常ではない。問題はその格好。彼女は俺のとみられる制服のシャツを着用していたのだ。

 身長にして20から30センチは差がある俺たち。彼女の着用しているそれは一枚で袖は手をスッポリと覆い隠し、太ももまで届く裾は下がいらないほど。

 その奥、下着を着用しているかどうかは今の俺をして定められず。


「なっ……なんて格好を!? 雪の服……渡したろっ!?」

「ん、この格好の方が陽紀さん、好きだと思って……。いや?」

「それは…………」


 否定は…………できなかった。

 きっと洗濯機から掘り起こしてきたのだろう。腕を持ち上げると長さが足りず垂れ下がる袖。小さな体躯でしか実現しえないその格好。そして俺の服を着ているという事実。それが何よりも俺の心を乱していた。

 濡れた身体を完全に拭ききってないためか、薄いシャツから所々肌色が強調されている気がして思わず目を逸らすも、ポスンとした衝撃とともに眼下に金色の髪が映る。


「………いや?」

「そんなこと、ない……」


 フワリといい香りがするのはお風呂上がりだからだろうか。

 小さな身体に暖かな感覚。そして胸の内にスッポリと収まる彼女は立ち尽くす俺へと身体を預けてくる。

 戸惑いながらも不安げな声に返答すると「よかった……」と安堵の吐息が吐かれた。


「一体何であんな――――」

「……………?」


 安堵の声とともに俺もホッとして視線を彼女に向けるも、見下ろす形となって一つの真実に気づいてしまった。


 それは上2つのボタンを取ったシャツの奥。

 彼女の身長は小さくはあるものの、とある部分は大人顔負けなほど大きなものを持っている。そこは今も自己主張を激しめに俺の服を持ち上げていて、下を隠す裾の部分が際どくなってしまっている。

 それが俺に抱きついているせいで胸元に押し付けられ、若干ではあるものの形を歪ませていた。そして開かれたボタン、押し付けられる感覚が間違いなく"付けていない"ことを証明していた。


「――――コホン。なんでびしょ濡れでウチへ……?」


 しかし鉄の意思を持つ俺は何とか言葉を一瞬失うだけに止め、天を見上げながら本題を切り出した。


 びしょ濡れの身体。寂しげな様子。

 なにかつらい目に遭ったに違いない。それが癒せるかは分からないが、口にして吐き出すことによって少しでも気が楽になってくれると良いのだが…………。


「――――から」

「えっ?」

「……陽紀さんに会いたくなった、から」


 そう思って待った彼女の言葉。視線を下げると同時に合った琥珀のような瞳を向け、出てきたのは「俺に会いたかった」との言葉のみだった。


「えっと……他には?」

「…………?」

「ほら、なにか遭ったとか、そういうのは……?」

「……? なにも?ただ陽紀さんに会いたくなって」


 …………んん?

 そこはわかる。しかしそこから更に深掘りした先。

 つらくなったから会いたくなったとか、そういう理由を予想していた俺だったが"何もない"という言葉に思わず目が点になる。


 ただそれだけ……?だったらさっきの様子は……?


「えっと、じゃあ、さっきびしょ濡れだったのは?」

「ここに来る途中突然降り出して。天気予報じゃ降らないって言ってたのに……」

「すごく寂しそうに、してたのは?」

「だって濡れて寒かったから……」

「…………」


 『何故そんなことを聞くのだろう?』

 そんな疑問を顔に浮かべながらも答えてくれる彼女はそれ以外本当に理由が無いといった様子だった。

 確かにさっきカーテンを開けた時は思いっきり雨が降っていた。しかし今チラリと外を見ると雨どころか夕焼けの日差しが部屋に降り注いでいる。

 きっと季節外れの夕立だったのだろう。そして寒かったから。冬だから当然だ。


 つまり…………さっきまで懸念していたのは見当外れな勘違いということに――――


「―――なんだ。よかった……」

「何を考えてたかわからないけど、陽紀さんが笑顔になってくれて私も嬉しい」

「俺、そんな変な顔してたか?」

「変というより、怖い顔?何かあったのかなって心配してた。でも平気そうでよかった………」

「わっ……!?ちょっ!!」


 そんなに怖い顔していただろうか。自覚していなかった表情にシワを寄せつつフッと力を抜いて笑ってみせると、彼女も同じように優しげな微笑を浮かべてギュッと俺に抱きついてくる。

 さっきまでは俺の胸に手をおいて抱きつく形だったが、今は背中に手を回して思い切り抱きしめる形に。そのせいで彼女の着ている服がはちきれんほど歪ませ、柔らかな感触がダイレクトに伝わってくる。


「……いや?」

「いやってわけじゃ……」

「ん、じゃあもっとギュッとする」

「ちょっ……!?」


 寂しそうに向けられる琥珀の瞳。それに圧されて言葉を濁すと待ってましたと言わんばかりに更に腕の力を強くする。

 薄いシャツ一枚だけで身を包んだ灯火。惜しげもなく抱きつく彼女の肩に手を置くべきか彷徨っていると、もう一度その瞳が俺へと向けられる。


「……襲わないの?」

「おそっ!?するわけないだろっ!」

「そう……?私はいつでもいいんだけどな……。せっかく彼シャツにも挑戦したのに……」


 くっ……!故意犯め!!雪の服を着なかったのもそれが理由か!!

 そうしている間にも向けられる、今か今かと待ちわびる灯火の瞳。

 更に顎を上げ、ぷるんとした唇を誘導するように持ち上げる。


 完全にキス待ち姿勢だ。

 何も出来ずにフリーズしていると、チラリと片目を開けた彼女はその大勢のまま口を開く。


「ねぇ、私の下、下着付けてると思う?」

「それは……」

「確かめていいよ。陽紀さんなら、なにしても………」


 なにしても……。

 今の俺にはそれが何よりも甘美に聞こえた。

 何しても良い。そうだ。確かめるだけ。確かめるだけだ。彼女もいいって言ってるし咎められることはない。

 他に誰も居ないんだ。だったら見るくらいなら……。


「じゃあ、失礼して……」

「ん……」


 小さな肩に手を添えると、ピクン小さく震えた。

 しかし拒絶ではない。肯定だと受け取って視線を下げるために膝を折っていく――――


『今日は楽しかったね~! それじゃ、またお夕飯でね~!』


「「!!!」」


 その視線が彼女の高さにまで到達した瞬間、玄関の先から聞こえてくる声に俺たちは同時に目を見開いた。


 あの声は雪。きっと遊びから帰ってきたのだろう。

 第三者の出現によってようやく取り戻した理性は折られていく膝をグッとせきとめる。


「灯火、悪いがそれは出来ない」


 危なかった。危うく戻れないところまで突き進むとこだった。

 明確な意思を持って首を横に振ると灯火もわかってくれたのか眼の前で肯定するように首を動かす。


「……残念。でも、陽紀さん一つだけいい?」

「うん?」

「隙だらけ………だよっ――――」

「えっ――――」


 潔く諦めてくれた灯火。


 ――と、思っていたが彼女はそれだけで終わらなかった。

 背中に回していた腕が、突如として頭に移動する。彼女の視線の高さまで膝を折っていたせいだろう。

 互いの距離は僅か数センチ。その僅かな距離を埋めるために腕に力を込めて引き寄せた彼女は自らの唇を突き出して俺を受け入れた。


 金色が目の前に広がる。

 彼女のもつ長い髪だ。まだ完全には乾ききっていない髪と、柔らかな唇の感触。

 完全に不意をついた行動に、俺の思考はまっさらになった。何をされたかと理解する頃には全て終わっていて力を抜いた彼女は自ら俺と距離を取る。


「襲ってくれなかったのは残念だけど、いつか私が襲っちゃうかもね?」


 そう言ってウインクしつつ投げキッスをした彼女は背を向け玄関に向かっていく。


「おかえり、雪ちゃん」

「あっ、灯火さん!ただい……って彼シャツーーーー!?!?」


 玄関の方から雪の絶叫が聞こえてくる。

 同い年の、小学生ほど小さな体躯とは思えない色香。そして一心に向けられる愛情にやられた俺は、雪の責めも心どこかにボーッと聞き流すのであった。

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