188.一人の時間


「ひどい目に遭った……」


 夜中。日も落ちて随分経ちむしろ夜明けのほうが近いであろう夜更けの時間。

 俺は一人リビングで息を吐きながら珈琲を飲む。


 もうすっかり遅い時間。いつの間にか年越し直前になってしまったようだ。

 疲れた身体に温かい珈琲が染み渡る。



 あれから、彼女たちが迫ってきてからの時間はまさに壮絶の一言だった。

 キスなんて軽いこと。彼女らの手は四方八方から伸びてきて俺をベッドへと引きずり込み服を狙いに来ていた。

 具体的には憚られるが、その様はまさにライオン。肉食獣。それほどまでに激しい戦闘だった。

 なんとか貞操は死守できた。結果的にそれ以外は色々手遅れかもしれないけれど、終わりよければ全て良しともいうだろう。


 夜も随分更けた大晦日の夜。

 まだ年越しの0時まで僅かながらに時間があるものの、俺が珈琲を啜る音以外は誰も彼も音を出さずシンとしていた。

 それもそのはず。ほんの1秒前かと思えるようなドタバタな時間。俺が貞操を守るための聖戦。その舞台となったこの部屋には俺を除いて誰一人としていないからだ。


 知らない人がいたら確実に下の階からクレームが来たであろう聖戦。それをなんとか乗り越え満身創痍で倒れていると、若葉ら女性陣はみな急遽何かを思い出したかのように部屋から出ていってしまった。

 まるで蜘蛛の子を散らすような、そして何かに追われているような。倒れつつも戸惑う俺に何も言うことなく部屋から出ていってしまう彼女らに取り残される。

 まるで世界で一人きりになったかような感覚だった。起き上がると宴がウソかのように静かになった部屋。もう1時間もしない内に年越しということも相まって、まるで時に取り残されたような気がした。


 けれどだからといって俺は慌てたりなんかしない。

 起き上がって辺りを把握した後に行うのは、キッチンに向かっていつもの豆を取り出すことだった。

 ジャラジャラと黒い豆を10グラムと少し。それを家から持ってきたミルを使って粉々にしていきお湯を注いでいつもの飲み物が完成する。

 何十何百と作ってきたいつもの珈琲。さっきまで沢山の人が集まっていたテーブルに一人座りカップを傾けると苦味と暖かさが染み渡る。

 まるで泡沫の夢。若葉も居なければ雪も居ない。一人きりの大晦日。なんとなしに暗くした部屋の中で一人、大きく開かれた窓を見て息を吐く。


「雪か……」


 窓から見えるは白い雪。

 季節は冬。しかしあまり降雪しないこの地域にとって珍しい雪はクリスマス以来のものだった。

 きっと外は凍えるほどに寒いのだろう。そして神社には今にも初詣を求めて多くの人が入り乱れていることだろう。

 こんな寒い中初詣なんて凄いものだ。俺はエアコンの効いたこの部屋でさえ窓から伝わる冷気に身を震わせるというのに。



 ――――しかしまぁ、一人の時間とは久しぶりなものだ。

 この部屋に引っ越してきてから一週間程度。向こうの家では一人の時間はそこそこにあったがこちらに来てからは全くといっていいほど皆無であった。

 朝夜は当然ながら雪が居て部屋が別れているといってもその薄さからあってないようなもの。そして日中は上階か下階から誰かしらやってくるから俺が一人きりになれるのはトイレと風呂くらいだった。

 つまり実質一週間ぶりの一人の時間。まるでタバコをふかすように熱々の珈琲から漏れ出る湯気を吐きながら一人物思いに耽る。


「静かだな」


 一人寂しくその言葉を吐くがもちろん返ってくる返事など存在しない。

 やはり俺はいつの間にか一人の時間を寂しいと思うようになってしまったみたいだ。

 一人の時間最高。休日とPCさえあれば一日どころか一生過ごしていられるとのたまっていたもののいざ蓋を開ければ寂しいと思う始末。

 絶対必須だと決めつけて持ってきたPCもめっきり起動することが少なくなってしまった。忙しかったというのもあるが、やはりみんなと過ごしていたらあっという間に時間が過ぎていったことが大きいだろう。


 彼女らは一体どうして部屋を出ていってしまったのだろう。

 いつの間にか消え去ってしまったみんな。もしかして俺が拒絶し続けたことに愛想を尽いてしまったのだろうか。

 そう考えると一抹の後悔さえも生まれてくる。あの時どうすれば正解だったのだろう。そんな後悔が珈琲の苦味と混ざっていきガツンと胸の奥底に打ち付けた。

 

「はぁ……」


 自然とため息がこぼれ落ちる。

 一人の世界。ちょっと昔なら当たり前の世界なのに。やはり俺は知らないうちに随分と弱くなってしまったみたいだ。


 肩を落とし、刻々と迫る年明けまでの時間を一人で過ごす。まさに無限にため息が出てきそうな無限地獄。けれどそんなさなか、ふと背中にかかるふわりとした感触と甘い香り、そして優しい暖かさが俺を包み込んだ。


「―――ごめんなさい陽紀くん。おまたせしましたか?」

「麻由加……さん?」


 突然すぐ真後ろから聞こえる優しい声。後ろから抱きしめるように包み込む感覚。そして視界の端から僅かに見える茶色い髪の持ち主は間違えることない。麻由加さんだった。

 首から抱きしめるように腕を回し、ギュッと抱きしめてくるその感覚と肩から覗かせる笑顔にさっきまで感じていた寂しさはどこへ去ったのか安心感が満たされていく。

 一体みんなしてどこへ行っていたというのか。その疑問は語りかけずとも伝わったようで優しい口調で話してくれる。


「少し"準備"をしておりまして。サプライズのために陽紀くんの体力を空っぽにしておく必要があったのです」

「サプライズ?準備って――――」

「あっ!まだ見ちゃダメです!!」


 いまいち読み込めない彼女の言葉。そのうち気になった言葉をピックアップしながら振り向こうとするも、それを望まない彼女は更に抱きしめる力を強めて俺の振り向きを阻止させた。

 鼻孔をくすぐる甘い香りが更に強くなる。同時に振り向いてほしくないほど都合の悪いものが発生しているか、はたまたまさかの全裸パターンなんてことも考えられたが、シャリンとした僅かに聞こえる鈴の音によって、そんな愚かな考えは打ち砕かれる。


 何故振り向いたらいけないかはわからない。けれど、よく見ると抱きしめている腕がさっきと違う。袖の部分が普段彼女らが着ているものとは大きく違うことに気が付いた。

 電気を消したせいで上手くは見えないが食事時に見たものより鮮やかな花が施されており、その上袖が短く口が広い。

 そして耳元で聞こえる鈴の音。更にさっき行っていた"準備"と"サプライズ"の言葉。これはもしかすると…………


「……もしかして麻由加さん、着物?」

「!! ……バレちゃい、ましたか」


 それはもはや認めたも同義の言葉だった。

 俺の指摘にピクリと身体を震わせた彼女は諦めたように抱きしめて振り向かないようにしていた俺を解放する。

 しかしまだ全裸の可能性がある!そんな淡い期待………ゴホン、恐れを抱きながらゆっくり振り向くと、普段とは様相の違う艶やかな彼女がそこにいた。


 大人びた彼女らしく、落ち着いた雰囲気を醸し出す淡いピンク色。

 紅色やオレンジといった鮮やかな花や雲取りが描かれた訪問着。その美しい茶色の髪は後ろで結われ、かんざしからはシャリンと鈴が鳴る。

 少し恥ずかしそうに頬を掻くその姿はまさに和装美人。まるで天からのお迎えのような姿をしていた。


「本当はみなさんが揃ってから一斉にと言われましたが、バレちゃったら仕方ありません。………どうでしょうか?似合って、ますか?」

「………きれいだ」


 薄明かりに照らされた天女。

 まさにそう評するに相応しい彼女に告げるのは飾りっ気ない言葉だった。

 ただただ見惚れて語彙力なんてない。心から出た言葉にホッと息を吐いた彼女は笑顔を魅せてくれる。


「ふふっ、ありがとうございます。陽紀くんに何も言わず寂しい思いをさせちゃいましたから。お詫びにキスでもしましょうか?」

「寂しいなんて、全然…………わっ!」


 ウソ。本当は突然みんな消えて寂しかった。

 この暗い部屋がその証拠だ。まさに自分の心情を隠すように暗くなった部屋。外から入る光が僅かばかりに部屋を照らすのみ。

 そんな中での強がりの言葉。フイっと誤魔化すように目を逸した瞬間、彼女は突然俺の上に乗ってきた。

 押し倒したとかそういうものではない。椅子へ座っている俺の膝の上に腰を下ろしたのだ。思わず腰を抱きしめるようにして支える俺と、首に手を回して微笑む麻由加さん。その距離数センチ程度。突然乗ってきた彼女ははにかみながらも俺をまっすぐと見つめてくる。


「ウソです。本当は私がキスしたいだけなんです。駄目でしょうか……?」

「ダメなわけ……。もちろん、俺もしたいよ」

「……ありがとうございます」


 腰から身体に抱きしめる力を少し強めると、呼応するようにギュッと彼女も力を込める。

 二人して笑い、目を合わせるだけで心が通った気がした。それ以上何を言うわけでもなくただただ目を合わせ続ける。

 そしてどちらからともなく目をつむると、次第にその距離は詰めていき互いに唇を交わした。暖かく、優しい心の交流。それを心だけでは飽き足らず身体でもと通わせる互いのキス。

 まるで2人が1人になったかのような錯覚にも陥った。心が通い、一つになる。それだけで冷たくなっていた心が溶けて温かいものに満たされていくような気がした。


「陽紀くん、大好きです」

「俺もだよ……麻由加さん」


 息が続かなくなっても呼吸をすると同時に愛を囁き合う。

 もはや一生このままでも良いと思えるような幸せな時間。しかし始まりがあれば終わりがある。それは全てに等しく与えられるもので、、一生とも思えるキスの終わりは当事者ではなく第三者の手によって導かれた。


「あ~!2人してイチャイチャしてる~!麻由加ちゃんの裏切り者~!!」


 彼女こそ音なく現れた第三者。

 その声だけで誰か分かる。若葉だ。

 彼女の呼び声とともに部屋はパッと明るくなり世界に光が戻っていく。俺の視線の先にある扉。そこに立っていたのは若葉だけではなく灯火、そして那由多も。全員浴衣姿で勢ぞろいだ。


「みんなが揃ってからお披露目って言ったのに~!も~!」

「あっ、若葉さん……!これはですね……その……」


 流石にバツが悪かったのか若葉に詰め寄られてしどろもどろになる麻由加さん。

 一方でそんなワンコに構わず一直線に来た2人はそれぞれ俺の腕をつかんで立ち上がらせる。


「灯火……?那由多……?」

「陽紀さん、どう?みんな社長と咲良さんに見繕ってもらったの。可愛いでしょう?」

「誰が一番可愛いと思う? もちろんあたしよね?」

「一番って言われても………」


 それって世界で一番困る質問なんですが。

 あちらを立てればこちらが立たず。今回はそれが4人だ。つまり"あちらを立てれば3人に襲われる"ということになりかねない。

 それに灯火!あからさまに腕に柔らかいものが当たってるんだけど!?


「うん、当ててる」


 心読まないで!!

 それから那由多も対抗しようとしないで!!


 それは寂しい年越し前から一転、これでもかというほどの明るさに満ち溢れた俺の部屋。

 今年の年越しは、何よりも明るい年越しだったという―――――。

 

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