184.引っ越しのご挨拶
引っ越しというものはどれだけ小規模なものであれ面倒なものだ。
たとえ単身だとしても住まいを変えるのだから多かれ少なかれ大きな荷物というものは発生する。ベッドに冷蔵庫、洗濯機にテーブル……おっと、命ほどに大切なPCも忘れちゃいけない。
家具家電の殆どは貰い物ですでに運ばれているのだがそれでもレイアウト変更などは自分でしなければならない。
先日荷造りを終えたとおもったらもう荷ほどき。部屋の中をドタバタとあっち行ったりこっち行ったりして右往左往。もしかしたら荷造り以上に忙しいかもしれない。
そういう意味では雪が来てくれて良かったかもしれない。猫の手でも借りたい状況。人一人増えるだけでも効率がぜんぜん違う。
さすがは妹というべきか、何だかんだ部屋に着いてからはちゃんと言う事聞いてくれるしむしろ察して動いてくれる。こうなればきっと日没までには全ての荷ほどきが完了できることだろう。最悪荷物に囲まれて寝ることすら考えたが綺麗に整頓された部屋で眠るルートも見えてきた。
粛々と動きだして日が傾き始めた頃、必死に作業している俺たちのもとにピンポーンと、ここに来て初めて聞く音が響き渡る。
なんだろ、もうちょっとでこっちは終わりそうだから手を離したくないんだけどな。
「雪、何か出前でも頼んだか?」
「そんな割高なのあたしが頼むわけないじゃん。おにぃが一人だからってエッチなの頼んだんじゃないの?」
「んなわけあるか」
たわけ。俺がそんなリスクを孕むようなことをするわけないじゃないか。
どうせ一人暮らしを始めたからといって部屋に誰も来ないというのは100%無い。断言する。だからそういう物的なものは持ってるだけでリスクなのだ。ちゃんとパスワード付きのデジタルでなければ。
しかし俺たちでないなら誰が来たというのか。
若葉はおそらくないだろう。彼女はこの部屋に入ることなく用事があると行って何処かへ行ってしまった。雪が『鍵は開けてるから好きに入っていい』と言ってしまったからインターホンを押すようなことはしないだろう。
ならば誰かと。早くも変な勧誘が鼻を効かせて来たのかとさえ勘ぐってしまう。
「雪、頼んだ」
「え~。おにぃの家なんでしょ。おにぃが出てよ」
「雪も住むって言っただろ。丁度手が空いてるんだし」
「ぶー。いいけど今日の夜はおにぃ持ちね………って、あ~!おにぃのそれあたしのパンツじゃん!!何勝手に開けてるの!?」
………あぁホントだ。
俺が丁度手にしていたのはライムグリーンで綿素材の小さな布。どうやら目が回るほどの忙しさの中適当に片付けていたから、雪のキャリーケースを誤って開けてしまっていたようだ。
しかし俺は憤慨する雪を適当にあしらって応対に向かわせる。誰が妹の下着にいちいち気にするかっての。
扉は閉められたがなんとか断片的にでも話し声はここまで届きそうだ。雪の着替えをポイポイと片付けながら俺も耳を澄ます。
『どちら様ですか~?勧誘ならお断り――――アレっ!?どうされましたかこんなところまで!?』
おや?不承不承といった様子で向かった雪だが聞こえてくる声は明るいものだった。
なんだか顔見知りと出会ったような……それでいて思っていなかった人物に出会ったような。
『引っ越し挨拶!?すみませんまだ荷ほどきすら終わってなくって若葉さんの部屋にはもうちょっと後………え、違う?挨拶に来たんですか!?』
断片でしか聞こえないせいで内容を把握できないのだが、なにやら予想していなかった声色だ。
こういう時って大抵、バタバタと雪がこっちに走ってきて…………ほら来た。
「おにぃ!出番だよ!!」
「俺?誰が来たんだ?」
「それはぁ……わかんない!近所に引っ越してきたからその挨拶だって!」
わかんないのにアレだけフランクに話してたの!?
でもご近所さんか……。同じタイミングで引っ越してきたのね。それはそれでなんというかイヤだなぁ。
ご近所トラブルって結構大変なんでしょ。数センチ敷地に入っただけでクレーム入って刀傷沙汰になるとかネットで見た。若葉くらい気心知れてたら気にすること無いんだが赤の他人はちょっと気後れするんだよなぁ……。
しかしここで一人嫌がっていても話は進まない。非常に腰が重い作業だがなんとか持ち上げて玄関へと向かっていく。
「おまたせしてすみません。自分が(多分)家主の芦刈と言いま―――――」
「ご丁寧にありがとうございます。私、本日下の階に越して来ました"名取"と申します。荷ほどき中の妹ともども、どうかよろしくお願い申し上げます」
「――――!? 麻由加……さん!?」
まさしく理想的な挨拶。
斜め45度までお辞儀しつつ蕎麦をこちらに手渡してくる女性は見紛うことなく麻由加さんだった。
赤縁眼鏡の奥から覗かせる目はなんともまぁ素晴らしい笑顔。驚く俺を見て更に輝きを増した彼女は堰を切ったように俺へと抱きついてくる。
「陽紀くん……会いたかったです……!」
「な、なんで!?なんで麻由加さんがここに!?引っ越しって!?」
ギュッと手を回してくる彼女に対し一方俺は混乱状態。
麻由加さんにはもちろん住所は伝えていた。もしかしたら手伝いにきてくれるかもと。
しかし若葉の言っていた"ご近所さん"という言葉が先行していたせいで目をパチクリさせてしまう。
つまり……どういうことだ?
引っ越しの挨拶って引っ越した方が貰うんだっけ?いやそれはおかしい。やはりどう考えても引っ越した側が送るものだ。俺が貰ったのは定番の蕎麦。そしてさっきのセリフ。これはつまり………
「はいっ。実は私達も下の階で暮らすことになったのです。 ふふっ、驚きましたか?」
「お……驚いたよ……ホントに……」
胸元から顔を上げて笑ってみせるは間違いなく彼女。
まさか彼女もこの建物に引っ越したとは……しかもさっきの言葉、"妹ともども”って……
「もしかして、那由多も?」
「はい。ふたり暮らしです。大変だったんですよ?お話を頂いてから両親を説得するのは」
もはや"そうでしょうね"と単純な感想しか出てこない。
3階建てとなるこの建物を見た時点で俺も夢見なかったわけじゃない。若葉が住んで俺も住んで。後は麻由加さんらと灯火が来れば完璧だなと思ったことさえある。
でもまさかそれを実行に移す人がいるだなんて思わないじゃん!?誰だそんな事したのは!?借り主である咲良さん以外ありえないけど!!
幻想は幻想!そう片付けてたのにまったくもう!完璧な仕事すぎるだろ!!
こちらを見上げながら笑顔を浮かべる麻由加さん。しかし次第に、段々とその表情に影が落ちていく。
「……もしかしてご迷惑、でしたか?」
それは何も反応を示さない俺の様子を伺う発言。
しまった。あまりに驚きすぎて色々とフリーズしすぎていた。そんな彼女を心配させないよう目を覚ました俺は大きく首を振って彼女を抱きしめ返す。
「全然!すっごく嬉しい! でもよく……許してくれたね?」
「はい。父が随分と反対しておりましたが私達が陽紀くんのことをどれだけ好きか懇切丁寧に語ったら許して頂けました。途中咲良さんにも口添え頂きましたし」
咲良さんいつの間に。塩を送る羽目になるだが考えがあってのことだろうか。
しかし二人して俺のことをって……それ恐怖しか感じないんだけど?
「あ、そういえば父から言伝を預かっておりました。『今度是非二人きりで会おう』とのことです」
ヒュッと――――
背中に一筋の冷たいものが走る。
それってつまりそういうことだよね……。会いに行ったが最後、命の保証は無い的な……。
「わ……わかった。いつか……いつかね」
「はい。私もその日を楽しみにしてますね」
俺は楽しみじゃないなぁ……むしろ一生来ないでいてほしいなぁ……。
そんな上手くできているかもわからない硬い笑みを浮かべていると、彼女は再び『あっ』と何かを思い出したかのように口を開く。
なんだ!?また誰かからの伝言とかじゃないよな!?
「そういえばもう一つ、大切な事を忘れてました」
「何かな……?今度はもっと手心を加えてくれると有り難いんだけど……」
「ふふっ、大丈夫です。今度の忘れものはお引っ越し祝いですから」
「引っ越し祝い?それって――――」
引っ越し祝いとはなんだろう。今手にしている蕎麦じゃあないのか。
そんな悠長なことを考えながら視線を蕎麦へと移した瞬間、俺の視界は一気に何かに遮られた。
チュッ――――。
そんな甘い音が脳内で響き渡る。
甘く清艷な疲れた頭さえも覚醒させる音。柔らかな感触が口へと当たり一気に冬の寒さを吹き飛ばし、暖かなものが心を中心に満たされていく。
ほんの数秒の、触れる程度のキス。しかしいつまで経っても慣れることなどないそれは、実はイタズラ好きな麻由加さんによって引き起こされ、スッと離れた彼女のペロリと出す舌さえも艶やかに見せる。
「お引越し祝いとお引越しのご挨拶です。これからも末永くよろしくお願いしますね」
「あ、あぁ……」
なんと語彙力のないことか。
あれだけしたにも関わらず未だに慣れることなどない俺ははにかむ笑顔に応えるだけで精一杯だった。
グロスを塗ったかのようにプルンとした唇。漂ってくる甘い香り。また再び味わおうと蜜に群がる虫のようにフラフラと再び彼女へとキスをしようと近づけていると、ふと廊下にザッと何者かが歩く音が聞こえてくる。
「あ~!麻由加ちゃんに先越された~!」
「だから言ったじゃない。モタモタしてると先手取られるって」
「これから取り返せばいいんです!ね、若葉さん!」
それは突然現れる3人の少女たち。
若葉に那由多に灯火と、これまで何度も会い愛を伝えられた少女たちだった。
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