164.裏切りのマルクス


「陽紀君っ!寂しくなったらすぐに連絡してねっ!お風呂入っててもご飯食べててもすぐに向かうからねっ!」

「わかったわかった。せめてお風呂はゆっくり入ってくれ。湯冷めして風邪ひくぞ」


 ジムでのワチャワチャを越え我が愛する自宅へと舞い戻った金曜日の夜。

 さっきまで夕焼けに照らされていた街並みもすっかり薄暗くなり、あと1時間もすれば真っ暗な世界に早変わりしようかと言う頃。

 無事家に帰り着いた俺たちは自らの家へと帰ろうとする若葉を見送りに玄関へ出てきていた。


 咲良さんより新たな家へ移り住むよう言われた若葉。

 先週まで彼女の家といえばここだったが今はそうではない。更に歩いた先にある家が今の寝床なのだ。

 今回ばかりは帰り道ということもあり荷物を持って貰ってウチに入ったはいいけれどそのまま朝まで居ることは許されない。そうすれ違いで何処か行ってしまった社長さんに釘を刺されている。


 そんな無情にも一人別の家で朝を迎えることとなった若葉。しかし一方で灯火にはこの家での滞在許可が出されていた。

 一ヶ月若葉はここで暮らしたのだからせめてもの、ということらしい。この家の家主は父さん……今のところ母さんとなっている。母さんが言うのだから俺に選択肢なんて存在しないのはまだいい。

 でも若葉からの視線がね。刺さるような恨めしいような視線が……今日明日だけだし我慢してくれ。


「風邪引いたっていいもん!なんだったらタオル巻いた状態で来ちゃうんだから!」

「やめてくれ。俺が殺される」


 それは特に辞めてくれ。よく朝俺が死体で見つかっていいというのか。


 主に犯行は咲良さんに。

 大事な娘をタオル一枚で外歩かせた挙げ句風邪引かせるなんて万死どころじゃ済まなくなってしまう。

 あの人なら許してくれる選択肢もありそうだが、それはそれで「責任取ってくださいね」って粛々と言われそうで非常に怖い。そんな目に見えた地雷を踏み抜くバカはそうはいないだろう。


「大丈夫ですよ若葉さん」


 帰宅途中の目撃事件。あの後すぐに合流したため幸いにも大事には至らなかった俺たち。けれど若葉はあれからずっと暴走気味だ。

 いつかこの家の最終日を命じられた朝みたく大いに取り乱し俺への執着を強めた彼女を諌めたのは隣に立つ灯火だった。

 彼女と同じアイドルで金色の髪を持つ今日のお客様、この家に着いたと同時に目覚めた彼女は優しい笑みで玄関に立つ若葉と見つめ合う。


「灯火ちゃん……」

「陽紀さんのことはお任せください。寂しくならないようにお夕飯も一緒に作りますし、若葉さんが嗅いでいたシャツもキチンと綺麗に洗って見せますから。………もちろん私も堪能した後に」

「む~~~!!やっぱりダメだよ陽紀君!灯火ちゃんもウチへ連れて帰るっ!!」

「ふふっ。社長はここに居るようにって言ってましたよ。だから陽紀さんのことは万事お任せください……ね?」

「~~~~~!!」


 あぁ………お家帰りたい。ここが家だったわ。

 俺の肩に両手を添えて妖艶な笑みを浮かべる灯火に怒りを抑えきれない若葉。一触即発の雰囲気だ。

 こんな自分でもヒシヒシと感じる2人の火花。「やめてっ!俺の為に争わないで!」って怖いもの見たさに言ってみたくもなったが絶対火に油だ。目に見える地雷は避けていかなければ命がない。


「陽紀君!明日朝イチで来るから!大人の階段を一緒に登るのは私なんだからね!」

「まだ夜じゃないのに生々しすぎるから。若葉も暖かくして寝ろよ」

「うんっ!身を清めて早くに向かうね!!」


 そうじゃないんだがなぁ……。

 名残惜しさ全開という感じだがそれでも夜が近づいていることも会って新しい家へと帰っていく若葉。

 以前あちらの家にお邪魔した雪の話だとまだ片付けが終わっていないらしい。以前の若葉のことだ。荷ほどき片付けが終わるのも1ヶ月で済むといいが。


 そんな事を考えながら背中を向け走っていく若葉が消え扉が閉まる。と、同時に今か今かと待ちわびていた冬の冷たい風が一挙に家へと押し寄せてきて俺の身体を大きく震わせた。


「っ……!寒いな。早く戻らないと風邪引いちゃう」


 若葉が去ってから数秒。俺も身体を震わせるのをきっかけに踵を返す。

 ウチは床暖房なんて高価で万能なものなんてない。冬の寒い季節でも暖かいのはそれぞれの部屋とリビングだけだ。

 つまり廊下はいつまで経っても天然冷蔵庫のまま。ずっとここで立っていたらさっき若葉に「気をつけろ」と言ったこっちが風邪引いてしまう。さっさと暖かい部屋に戻らないと。


「あ、待って陽紀さん」

「?」


 しかし何故リビングに入ろうとする俺を灯火が呼び止めた。

 なんだ?忘れ物か?天井を指差して何を示しているのだろう。


「リビングに行く前にちょっと自室まで一緒に行ってくれないかな?」

「自室って俺の部屋だよな?何かあったか?」

「ちょっとね。それでベッドに寝ててほしいの?」

「それって…………まさかっ!?」

「っ!!逃さないよっ!!」


 自室のベッドに寝ろ。そんな事を二人きりになって突然言うなんて俺の頭に浮かぶ答えは1つしか無かった。

 即座に貞操の危機を感じ取った俺は急いでリビングに入ろうとする。けれど悲しいかな今日はジムで走りまくって体力なんて空っぽだ。アイドルとして運動している彼女に当然叶うはずもなく、俺は彼女に引きずられて部屋に連れ去られるのであった。



 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



「んっ……!んっ……!どう?気持ちいい?」

「あぁ。気持ちいいよ……。あっ!そこ!もっとお願い!」

「うん。陽紀君はここがいいんだね。じゃあもっと……こうっ!」

「っ…………!!」


 グッと彼女の技工によるその手によって、俺は思わず吐息を漏らしてしまう。

 それは気持ちよさからくる吐息。ベッドの上で彼女のテクニックにやられた俺は有無も言わさずその気持ちよさに身を委ねている。

 灯火の手から繰り出される手法は思わず喘ぎ声が漏れ出てしまうほど。彼女の技工はそれほどまでに優秀であり、俺も生まれてきて初めての快感と言ってていいほどの心地よさに襲われていた。


「陽紀さんって道具とか使ってしてないの?すっごく硬いけど」

「そんなのする機会なんて全然……。おぉ!そこ!」

「ここもかぁ。陽紀さんは弱点イッパイだねぇ」


 そう言って妖艶な笑みを浮かべる灯火。少し目の奥が光り楽しさまでも含んでいるよう。

 俺はただ彼女に身を任せ心地よさを堪能する。もうこの気持ちよさからは抜け出せない。そう思えるほどだ。

 彼女は更に手を動かして指に力を込める。優しくも強すぎない。心地よい絶妙な圧力で俺の身体を気持ちよく―――――


「ここがイイのなら……ここはっ!?」

「んっ!そこも凄い……!かなり効くっ!!」

「やっぱり。も~、陽紀さんってば全然ストレッチなんてしてこなかったんだね。体中バキバキだよ」


 グッ、グッ、グッとうつ伏せになる俺の背中に押される指先のテクニックに俺は再び息を吐く。

 文句を言いながらもしっかり俺の身体をほぐしてくれる灯火………そう、俺は彼女にストレッチとマッサージを受けていた。


「しょうがないだろ。元々運動する機会もないし知識もないんだから」

「運動しなくたってストレッチは大事だよ。それにジムで一切身体伸ばしてないのも見てたんだから。ほぐさないと明日筋肉痛がもっとひどくなっちゃうよ」

「グッ……」


 その主張に俺は言葉を失いぐうの音もでなくなる。

 あの後部屋に連れ去られてから何をされるかと倒れる俺に馬乗りになった灯火。震える俺に掛けられた言葉は「うつ伏せになって」と「身体ほぐすから」の2つだった。

 まさかいきなり襲われるかと思った俺の脳内。脳内が一番ピンクなのは一体誰なのかと猛省したくなった。


 そんなこんなで受ける彼女のマッサージはなんとも心地よさで夢の世界へひとっ飛びできるほどだった。普段からアイドルとして運動をしてこのような知識も持っているのだろう。明日の筋肉痛が怖い俺はただただ彼女の言うことに素直に従っている。


「それから若葉さんから受け取ったバック。中身取り出して洗濯するものを選別しておいてね。後で纏めてやっちゃうから」

「えっ?いや、さすがにそういうのは灯火に任せる気は……」

「いいの。数日とは言え居候の身なんだから。アイドル一時辞めてから家事は一通り出来るようになったし好きでもあるから」


 なんと……なんと若葉との違いようか。

 この積極性と頼もしさ。マッサージも上手で家事も出来るなんてもう俺の出る幕ないじゃないか。

 心強すぎて思わず俺も涙が溢れてしまう。ううっ……!


「助かるよ。なら洗濯物はお願いしようかな」

「任せて! それじゃあ続いて仰向けになって服を脱いでもらえる?」

「あぁわかった…………なんで?」


 背中が終わったらしく続いて仰向けにと促されたところで思わず俺は問い返す。

 なんで仰向けに?いやそれ自体は全く問題ないのだが何で服を脱ぐ必要があるんだ?


「えっ?だって若葉さんに先越される前に早いとこ大人の階段登っておかないと………」

「っ――――!!」


 しまった!猛獣はここにもいたかっ!!

 まさに神速。俺も考えるよりも早く動いた身体は即座にベッドを飛び降り出口へと向かう……も、彼女の言葉によって俺は脚を止めた。


「じょ、冗談!冗談だよ陽紀さん!そんな事私が考えるなんて!!」

「考えるなんて…………?」

「ない……かも? いや1割くらいは?ううん2割?でも…………」

「っ!!」

「ちょっと陽紀君!?冗談!冗談だからね!?」


 全く冗談に聞こえないこの身の危機。


 灯火よ。お前もか。


 そんなカエサルさながらの言葉を残しつつ、有無を言わさず部屋を出た俺は急いで1階に降りてリビングに。そして「バタバタうるさい」と雪に蹴られるのであった。

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