160.・・・に貴賤なし
ヒンヤリと、冷たい感覚が火照った身体に清涼感を与えていく。
額に触れられる冷たいものがまるで全体の熱を吸い取るように誘導し、気化熱とともに去っていく。
身体の熱を冷やすには血を巡る箇所が良い。それは首や脇など動脈が通っている箇所が適切だと。そんな事をいつか保険の授業で習った気もするが額の冷たさでも十分身体が冷えていく気がした。それは冷えなどの科学的な論拠だけではないだろう。
まるでいつか風邪で倒れた時看病してくれたときのような安心感。
額の清涼感はさることながら後頭部にかかる以前若葉の家で眠った時に使用した高級枕をも超す柔らかさと、リズムよく肩に触れゆく叩き方の全てが暗闇にいる俺への安心を与えてくれていた。
まるでここが天国……死後の世界かと錯覚してしまうかのような。あぁ、死んだらこんな感じになるのだろうか。視界こそ不明瞭だがそれ以上に包まれる優しさが不安な気持ちを霧散させ安心感とともに闇に解けていくかのような――――
「んんっ…………」
「あっ、目が覚めましたか?」
闇と光は表裏一体。
闇に溶けていったかと思えば次に俺を待ち構えていたのは光の世界だった。
小さく唸り声を上げながらも閉じられていた瞳を開けて光を取り入れれば、目が慣れて眼の前の光景を認識する前に優しい声が降り注いできた。
事態も把握できていない動いていなかった脳を起動させながらゆっくりその光景を目に納めると、長い茶色の髪を垂らしながらこちらに微笑む麻由加さんが迎えてくれた。
「麻由加……さん?」
「はい。大丈夫ですか? どこか痛いとか怪我している場所はありませんか?」
「大丈夫……。それよりここは……」
少し不安げにする彼女から自らの身に意識を移すも怠さだけが体中を包む以外に何ら異常は見られない。
この感覚は……そうだ。前雪と一緒に夜のコンビニへ行った帰りに全力ダッシュした時のような感じ。あれをもっと酷くした感じだ。
痛みはないが今すぐに動かすのは難しいだろう。ならばと立ち上がるのは諦めて現状の把握に意識をもっていく。
「覚えてませんか? 陽紀くんはランニングマシンで頑張りすぎて目を回しちゃったんですよ」
「あー……なんか、思い出してきた」
横になったまま辺りを見渡せばそこは色々な機器が並ぶジムエリア。どうやら俺は隅にあるストレッチマットが引かれたエリアに運ばれたらしい。時計を見れば倒れてから10分ほど経過したようにみえる。
それにしても目を回したか……。随分と俺も向こう見ずな事をしたものだ。集中するにしてもあそこまで全力で走ることもなかっただろうに。随分と俺も動揺していたみたいだ。
動揺といえば、今彼女が着ている服装はあの時見た際どいものではなくキチンとジャージを羽織った露出度控えめスタイルだ。
ホッとしたけど髪を垂らして見下ろす形。そして後頭部に当たる柔らかな感触。これは…………
「もしかして俺、膝枕されてる?」
「はい。あんまり自身ないのですが、不快ではありませんか?」
「全然。むしろどんな高級な枕より気持ちがいいよ」
「そうですか。 よかったです。私もホッとしました」
慣れというのは嬉しくもあり悲しいかな。わざわざ膝枕では動揺しない俺になってしまった。
これはおそらく若葉が散々抱きついてきたり腕にあれを押し付けてきたりした修行の成果ともいえるだろう。
でもさっきの灯火と麻由加さんはダメだ。アレは耐性貫通攻撃だ。下着なんてズルじゃないか。レギュレーション違反じゃないか。
冷静に話す俺とホッと息を吐く麻由加さん。彼女の膝枕はそれだけでどの枕よりも群を抜く寝心地だった。
包み込むような柔らかな感触と安心感、ポンポンと叩いてくれるおまけ付き。
しかし眼前に鎮座する大きな2つの双丘には注意しなければなるまい。このまままっすぐ身体を起こしてしまえば突撃してしまうことになる。そうなってしまえば故意犯としてジャンプキックが飛んでくることだろう。雪から。
「ゴメン、運動してる時に迷惑かけちゃって。すぐ退くよ」
「あ、ダメです!そんないきなり起き上がれば……!」
「――――あれ?」
フラリと。
彼女にぶつからないように身体を捻りながら立ち上がろうとしたところで俺の視界は大きく揺れる。
それが疲労によるものだと気付くにはそう時間がかからなかった。元々運動しないことで定評のある俺が体力が底をつき、マイナスになるまで走り込んだのだ。10分程度で回復するには時間が足りなかったのだろう。
立ち上がるために持ち上げた膝はあっけなく地へつき俺の身体も視界に連動して大きく揺れ動く。
そのまま放って置いたらまたも倒れ込んでしまうことだろう。けれど今回はそうはならずにポスンという感触とともに麻由加さんに抱きとめられる。
「ご、ゴメン」
「いえ、迷惑だなんて思っていませんのでお気になさらないでください。むしろ陽紀君とこうすることができて役得ですから」
そう言って微笑みを向けてくれる彼女はまさしく母性の塊だった。
腰辺りに手を回し優しく抱きしめられるという安心感。嬉しいと言ってくれることによる俺の罪悪感を打ち消す言葉。そのどれもが身体を脱力させるには十分すぎるものだった。
遠くで目が合った若葉は俺が起きたことによりホッとして見せるが、すぐに今の状況を理解して風船のように頬を膨らませてくる。それを横の雪に窘められていた。
そんな遠くで繰り広げられる2人の様子を見ていると、ふと視界からフッと影が落ちてきて見上げれば一人の少女がすぐ隣に立っていることに気がつく。
「起きたのね。どう?元気?」
「那由多さん……。あぁ、元気だよ」
俺に影を落とすように立っていたのは麻由加さんの妹、那由多さん。
その姿は姉妹揃って同じジャージ姿で那由多さんはその下にTシャツを着ていることを確認済みだ。
そんな彼女に問題ない事を告げるとホッとしたように表情が柔らかくなっていく。
「それはよかったわ。 お姉ちゃんはどう?正座しっぱなしで疲れてない?」
「はい。全然大丈夫……と言いたいところですが、少し代わってくれませんか?その、安心したらちょっと………」
「………あぁ、わかったわ。それじゃあ交代ね」
まるで抱っこしていた子供を受け渡すかのように、そっと俺の肩に手を添えて那由多さんが入り込んでくる。
何らかのアイコンタクトを行った2人。まさかこの状態が継続するなんて思いもよらず俺も慌てて立ち上がろうとする。
「えっ、交代なんていいって!ちょっと休んだらすぐ立てるから!」
「いいのよ。アンタは大人しく甘えられてなさい!」
麻由加さんが離れるのを受けて俺も急いで身体を持ち上げだが、即座に滑り込んできた那由多さんに肩を押さえられてしまった。
離れた麻由加さんはそのまま逃げるように駆け足でこのフロアからも出ていってしまう。もしかして、役得って言ってたけどホントは嫌だったのかな…………
「そんなに心配しなくても、お姉ちゃんはトイレに行っただけよ」
「……そうなのか?」
「えぇ。だから安心してあたしにも甘えられてなさい」
よかった。嫌われたわけではなかったようだ。
そう言ってグイッと引き寄せられるは彼女の胸元へ。
同じ方向を向いてあすなろ抱きをするように方から手を回す那由多さん。俺より座高が低いためか寄りかかる形になっているが、それでもさっきの麻由加さんに比べると――――
「―――寂しい」
「んなっ!? アンタねぇ!確かにお姉ちゃんよりスタイルはアレだけど私は妹なのよ!あと1年後見ていなさい!誰もが羨むナイスバディーになっているのよ!!今だってないわけじゃ……ほら、どう!?」
口にするつもりはなかったが思わず出てしまった言葉。それに過敏に反応した那由多さんだった。
さっきまで包まれるような柔らかさはもう既になく、若葉に負けるくらいには控えめな感覚が微かに感じ取れていた。
更に押し付けるように俺の頭をグイグイ押し付けるものだから柔らかさを感じるよりも締め付けのほうが勝ってしまっている。
「わかった!わかったから! セツナもまだ未来があるもんな!」
「そうよ! まったくもぅ……それ以上言うんだったら魔法で燃やすとこだったわよ……まったく」
それは怖いな。
いま杖を手にしていないのが唯一の救いだ。
けれどそんな悪態をつきつつも彼女は俺を抱きしめる手を緩めようとしない。セツナとしてわかっていたが何だかんだ優しいのだ。
「それにしてもあんなに全力で走り出してみんなビックリしたわよ。何なの?アンタってやっぱりおっぱいおっきい子が好きなの?」
「………………」
突然ぶち込まれる爆破魔法に俺はグッと答えて口を噤む。
ズイッと肩から顔を出す彼女の目は好奇の目。俺は合わせないように逆方向へと視線を向ける。
「どうなのよ?怒らないから言ってみてよ。 やっぱり好きなの?」
「ま、まぁ……キライじゃないな……」
なんとか絞り出すような声。
そう。嫌いじゃない。けれど誤解を招かないように言っておくが麻由加さんは決してそうだから好きになったわけではない。好きな人が偶々大きかっただけなのだ。
「へぇ~。やっぱり男の子ねぇ。 じゃあ私やアスルみたいな子は?無くはないけど普通って子はどう?」
「まぁ……キライじゃないな……」
「何よそれ~!さっきと同じじゃない~!」
絞り出すように出た言葉に憤慨する那由多さん。
彼女は1つ誤解をしている。俺にとって胸の大きさに貴賎はないのだ。
どちらもどちらなりの良さがある。だからどちらもキライじゃないというのは真理でもある。
同じ方向を向きながら。抱きしめられながらの静かな会話。
そんな2人の会話内容はそこそこ下世話なものだったが相手はセツナ。自然と男友達のような感覚で俺も話しているのであった。
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