159.捕食者
あぁ、人は何故トレーニングジムという何故存在するのかわからないものを重用するのだろう。
今どきネットを見れば自分ひとりで、家でできるトレーニング方法等いくらでも出てくる。
体感を鍛えるプランクだったり腕を鍛える腕立て伏せ、脚を鍛えるスクワットなどその種類も様々だ。
更にトレーニングだけでは飽き足らずその後のリフレッシュ方法、やってはいけないトレーニングやベストな収監や食事など、何人もの専門家が動画を介してそれぞれの知識を披露するという便利な時代となったものだ。
ジムという月に1万円弱ものお金を払って筋トレをするより家で動画を見ながらトレーニングを行ったほうが月謝も払う必要なくコスパもタイパも遥かに良いのに、何故人はわざわざ高いお金を払ってまでジムに行くのか。
――――それは人は脆弱な生き物だからだ。
肉体的にも他の動物と比べたら脆弱と言わざるを得ないが、今はそういうことではない。人は自分ひとりではどうしても甘えが出てしまう、精神が弱い生き物なのだ。
家で一人だと「いつでもできるし後でやろう」「今日はもう時間が遅いから明日やろう」など、ズルズル後へ後へ引っ張っていっていずれやらなくなってしまいがちになってしまう。
一方トレーニングジムだと高いお金を払った事実が突き動かす理由にもなるし、いざ行ったら行ったでトレーナーに活を入れられながらできることで自分をもっと追い込むことができ、効果も相当出てくるであろう。
つまり、ジムには意志薄弱な人間にとって一定の需要があるわけだ。もちろん専門の器具やプールが揃っているという理由もある。だから長年根強い人気を博しているのだろう。
しかし意思の薄弱さなら負けてはいない。俺は普段から家で運動しないしジムに行くなんて選択肢すら上がりっこない。
そんな俺の人生からは一切掠ることすらしないと思っていたフィットネスジム。
なんとか引き出しに眠っていた寝巻きとして使っていた半袖短パンのジャージを携え施設に向かうと、そこは想像と違って綺麗な空間だった。
筋骨隆々の人たちが歩き回っていたり、そこらにダンベルが転がっていたり、そもそも室内中汗臭いと思っていたがそんなことは一切無く。
白い床と壁が新雪のように綺麗なまま保たれており、ダンベルも転がっていない自然光を取り入れた明るい受付と優しいフローラルな香りが俺たちを受け入れた。
物腰柔らかそうな女性の受付さんに案内をしてもらいながら着替えて器具のある2階へ。ジムのメインであるマシンルームも片側の壁一面はガラス張りで開放感のある空間に偏見まみれだった俺は心底驚いた。
今日は設備点検という休館日。
俺たち以外に客はいるはずもなく、現状マシンルームにいる人間は俺一人。
灯火ら続く女子の面々は着替えに時間がかかるらしく、一人でポイポイ服を脱ぎ着して終わりの俺は先に入ったマシンルームでそれまでの価値観を壊されていた。
汗臭さや薄暗さなどの思い込みを180度変えてしまう施設。その驚くような清潔さに衝撃を受けながら使い方もさっぱりわからない器具を眺めていると、更衣室へと続く階段からなにやら賑やかな声が聞こえてくる。
「あんなにいっぱい集まってくれるなんてビックリしたね~!」
「そりゃそうですよ若葉さん。2人一緒にいる所なんて灯火さん脱退以降一度も実現してないんですから。 私みたいなファンはツーショットだけで卒倒ものですよ!」
「そうなのかな……?でも、あんなに喜んで貰えると嬉しいですね」
そんな和気藹々と話しているのは朝方リビングでも会った2人と妹。
雪に若葉に灯火。そして更に、続けて聞こえてくるのは――――
「でもホント、芸能人の影響力って凄いわね。今更だけどようやくアスルとファルケの正体がアイドルって実感してきたわ」
「那由多もそうなんですね。私も何度もお会いしてきましたがようやく自覚してきました」
「そんな大したことないよぉ。私たちだって普通の女の子――――あっ!陽紀君!! ゴメンね待った!?」
いち早く俺の存在に気がついて駆け寄ってくるのは若葉。
そして後ろに続くのは麻由加さんと那由多さんという、来る途中新たに加わった2人だった。
若葉から雪へ、雪から那由多さんへ、那由多さんから麻由加さんへ。女子のネットワークは恐ろしいほどの速度を誇っているらしく俺たちが準備をして最寄り駅に着く頃には彼女ら全員勢ぞろいとなっていた。
合計して6人。5対1というとんでもない男女比。男は?俺の友人ポジ的な人どこいった?
「いや、色々見て回れてちょうど良かったよ。さっきの話聞こえてたけど集まってたって?」
「そうそう! 私達が更衣室から出た時スタッフの皆さんに囲まれちゃって!サインとかいっぱい求められちゃったの!」
久しぶりのアイドルとしての活動が楽しかったのか鼻高に解説する若葉。
サイン求められてたのね。そりゃあ遅れもするってものだ。変装が完璧だからかこの街に来て今まで囲まれるって無かったからな。
そもそもバレなかったのもこんな町に居るはずがないという田舎特有の思い込みが大きいかと思う。
しかし以前の松本さんのように感づいている人も少なからず居るだろう。そして灯火の仕事の件。これからはもっと用心しないとちょっとしたことでバレて囲まれることが起こりうるかも知れない。
「なになに、どうしたの~?そんな難しそうな顔しちゃって」
「えっ?」
ふと若葉から出てくる問いに俺も思わず声が漏れる。
そんな顔してたっけな。確かにちょっと今後の立ち居振る舞いなどについて危機感持ったりしていたけれど。
「大丈夫だよ陽紀君っ!私はいつでも陽紀君一直線だから!あ、でもそんなふうに嫉妬してくれるのは嬉しいかな!だからその分ギューっとしてくれていいよ!!」
「…………」
「ギューーー!!!」
「…………んで、そのスタッフさんが上がってこないってことは勝手に使っちゃっていいのか?」
「も~~!!」
何を言っているんだこのワンコは。
あからさまに抱きしめてください!的なポーズをしている若葉をスルーすると文句の叫びが聞こえてくる。
いやね、そりゃあ目をギュッと瞑って手をまっすぐコッチに掲げるって、逆にスルーしてくれって言ってるようなもんじゃん?むしろ公共の場、下手すりゃスタッフさんという第三者が来うるこの場所でそんな事できるわけがない。
「うん。スタッフさんはこれから全員総出でプール掃除だって。機器の取り扱いはタブレットにあるからご自由にどうぞだって」
そう言って灯火から渡されるタブレットにはそれぞれの器具の取り扱いや全体的な注意事項が纏められていた。
今日は元々メンテナンスの日。そんなタイミングにお邪魔してるのだからサービス度外視というのは当然のこと。勝手に使っていいのね。じゃあ遠慮なく使わせてもらおう。
「ねぇおにぃ、あたしは適当に走ろうと思うんだけど、おにぃは何にするつもりなの?」
「そうだな……適当に疲れにくいやつでも考えてるが……」
早速運動を開始しようと上に着込んだジャージを脱ぎながら聞いてくるのは雪。走る器具なんて一択しかない。どうやらランニングマシンを使おうとしているみたいだ。
いいねぇガラス張りの窓から外の景色を見つつ走るなんて気持ちよさそう。青々とした空が広がってるし風があればなおのこと良い。
でも俺は反対だ。走るなんて普段マラソンでヒィヒィ言ってるしその後倒れるのが目に見えている。なら何が一番体力使わなくて済みそうか……筋トレはそもそも上がらないから論外として、やっぱりフィットネスバイクかな?
「バイクかな。説明見てる感じ動画サイト見ながら漕げるそうだし」
「あ、陽紀さんもバイク行くの?」
タブレット片手に雪と物色していると、背後から掛けられるのは灯火の声。その言い方だと彼女もか。
「灯火も? じゃあ一緒にやるか?」
「うん。是非。 ちょっとまってね。すぐ脱ぐから」
「? 脱ぐって何を…………っ――――!!」
なんの躊躇いもなくおもむろに脱ぎだしたのは、彼女の身を包み込む上着だった。
彼女はそれが運動するときのフォームなのかもしれない。
季節は冬。いくら暖房が効いているとはいえ雪のように運動直前まで上着で身体を温めるのは当然だろう。俺だってマラソン前は上着を羽織って始まる直前に脱ぎ捨てるから考えてみれば何ら不思議なことではない。
灯火も同じように上着を脱いで身を軽くする。その行動は合理的。けれど格好が問題だった。
彼女が上に着用していたのは白のタンクトップ。それも丈が非常に短いヘソ出しタイプだ。脇も完全に露出し胸元も大きく開いた下着とも遜色ないタンクトップ。
これが雪なら鼻で笑って嘲笑していたことだろう。けれど灯火は違う。彼女は雪よりも背が小さいが、とある部分が異常なほど発育しているのだ。
アンバランスなほど強調表示しているその胸部。上着の時点で明らかに持ち上がっていたが解き放ったその格好は文字通り今にも零れ落ちそうなほどである。
大きく開いた首元から見えるは大きな山脈。谷は深く手刀の形を作っても簡単に飲み込まれてしまうかも知れない。
明らかにサイズのバランスがおかしい。けれど確かに存在する。俺がその大きさに圧巻されていると灯火は視線に気づいたのかニヤリと口元を歪めてみせる。
「陽紀さん、どうしたの? ほら、行こ?」
「いや、ひびちゃ……灯火。 でも、その格好は……」
「その格好ってなぁに? 具体的に教えてほしいなぁ」
くっ……!これは確信犯だ!
ギュッと腕に抱きついて見上げてくる彼女は明らかに自らの持つそれを強調して見せる。
俺が目を逸しても否応がなしに腕へ柔らかさがダイレクトに伝わってきて走る前から体力を削り取っていく。
「ほら、もう1台取られちゃったよ。 早くしないと3台全部埋まっちゃうよ」
「えっ…………?」
今回ジムを使わせてもらうに当たって幾つかの器具は使えないものも存在する。
8つ近く設置されているフィットネスバイクも幾つかは電源が落ち今使えるのは3台のみ。
そして俺たちで2台。今サドルに跨ったのは―――――
「陽紀くん!一緒に走りましょっ!!」
大手を振って俺に呼びかけるのは想い人である麻由加さん。
しかし、普段と明らかに彼女も様相が違っていた。彼女も灯火と同じく露出過多だったのだ。
タンクトップ型の、胸元に縦のファスナーがついたもの。その格好はスポーツウェアというよりスポーツブラ。
彼女も灯火と同じくその胸部に相当なものを持っている。単純な大きさ比較なら一番かも知れない。
だからこそブンブンと手を振るせいで灯火以上の大きさのそれが強調され、彼女を直視することができない。
彼女もまた確信犯なのだろう。
普段大人しい性格だからか今こうして呼びかけている間も顔が燃えるような赤に染まっている。
もしかしたら二人とも共謀したとさえ勘ぐってしまう。
「陽紀さん……」
「陽紀くん!!」
「お、俺……おれは…………」
きっと、行けば俺は2人に挟まれて走ることになるだろう。
そして動画を見るにしても確実に集中できない。それくらい2人は何かしら策を講じてくるはずだ。
つまり行った時点でゲームオーバー。頭に血が昇り鼻から噴出して失血死だ。
今こうして腕を抱かれているだけでガリガリと体力が削れている。すぐに体力カラになることだろう。
それほどまでに扇情的で誘惑的な2人の姿。今の自分にとって目に毒過ぎる光景に俺は―――――
「お、俺、やっぱり走ってくる!!」
「あっ!!」
三十六計逃げるに如かず。
2人に挟まれて零れそうなそれを見続けて死ぬのは幸せかも知れないが、まだ死にたくない。
俺は窓から見える景色こそ最高だと結論付けてランニングマシンへと急いで乗って見せる。
降りたら2人の獣による
2人から逃げた俺は意識を走りに集中させるため、学校以上の地獄のマラソンが幕を上げるのであった。
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