148.化学実験


 毎日毎日面倒くさ――――もとい、日々自己研鑽に励むため高校では様々な授業が行われている。

 国数理英社。簡単に挙げただけでもこのくらいはあるが、そこから更に細分化もされるし5教科以外の授業だって存在する。

 小学校で6年、中学で3年。ここで義務教育は終わりだが大多数は更に高校で3年間勉強して大学に行く者も少なくない。

 大学まで合計して16年。大人になるまでの大半の時間を勉強に費やすといっても過言ではないだろう。


 そんな膨大な勉強の中でも好き嫌いというものは大きく別れる。

 俺なんかは体育……特にマラソンなんて滅びればいいのにとまで思っているが理科系の授業は案外キライではない。

 覚えることも多いし進めば進むほど計算に追われることになるが何故か比較的容易に頭に入ってくる。それはゲームで炎だの氷だの光だの闇だのバカスカ撃っているからという可能性も否めないが、やはり大きいのは実際に手を取り事象を体感できるかどうかが大きいのだろう。


 理科は現実で起こる現象に大きく作用している。

 物を落とせば物理に従って落ちていくし燃やせば化学に従って燃焼する。そんなの虚数だの平方根だの専門用語だらけのゲームみたいで人が寄り付かなくなる数学に比べれば人気度は大いに差が出るだろう。

 つまり化学は実験で理解も進むし点数も稼げる。更に眠気マックスになっている午後の授業を有意義に過ごすことのできる最高の授業ということだ。



 そんなこんなで午後の授業。

 今日一日を終える最後の授業は化学実験という最高の授業だった。

 具体的には状態の変化による気体分子量の測定。アセトンなるものを入れて熱し、体積などから分子量を導き出す実験。

 非常に細々とした作業だがクラス内で4~5人のチームを作り皆ワイワイと作業していた。

 なんてことのない実験授業。しかし今日最後の授業、そして一日中座りっぱなしで授業を受けてきた反動からかその声色は総じて明るく楽しげなものだった。

 もはや関係ない話題さえ聞こえてくるがなんだかんだ真面目に実験はやっているようでその手元は着々と実験を進めている。

 俺もそんな科学室を眺めながらフラスコにアルミホイルを巻いていると視界外からスッと茶色の瓶が入り込んできた。


「アセトン持ってきたよ。準備ができたら言ってね」

「ん、ありがと。 ……ところで他の2人は?」

「あはは……2人とも友達のところ行っちゃったみたい。 ほら」


 実験で使うアセトンを持ってきてくれたのは同じ実験メンバーである松本さん。彼女の存在に気がつくと同時に顔を上げればもう2人の姿が見えない。

 この実験、我がグループは4人組みであと2人居たはずと思い問いかければ彼女は遠くへと視線を送り、その先には別のグループのメンバーと談笑している2人が見つかった。

 さすがの開放感というだけはあるだろう。もうああなれば実験に使い物にならない。けれど2人でもなんら問題ない。実験自体は単純だし最悪俺一人でもどうにかなるものだ。

 去ってしまった2人を連れ戻すつもりなどさらさら無い俺は再びフラスコへ視線を落とし落としきれていなかった汚れを取っていると、松本さんがこちらをジッと見つめていることに気が付いた。


「ごめん、開始はちょっと待ってくれない?もうちょっとで終わるから」

「全然。急いでないし良いんだけど……今日は大変だったねー」

「………そうだな」


 ハァ、と息を吐いている彼女の言わんとしていることは俺でもすぐに察することができた。

 内容は今朝あったイザコザのこと。散々好奇の視線を受けて松本さんなんか質問攻めにあったもんな。そりゃ大変だっただろう。


「でも安心して!ちゃんと誤解は解いておいたから! 現に午後の授業からなんにも無いでしょ?」

「あぁ……。たしかに」


 色々と準備している影響で言葉少なめだが、それでも言われてみれば昼休み終わってから針のむしろのような視線を感じなかった。

 むしろ以前までと同じように何の感傷もない視線。未だに誤解が出回っているならばさっき離脱した2人も友人の所に行かずにコッチへ質問攻めにしてくるだろう。それが無いということが何よりも彼女の言葉を真実だと示していた。

 早いな。なかなかの発言だったから苦労するかと思ったが昼休みだけで完遂するなんて。


「いやぁ、アレが注目されるって感覚なんだね~。いっつも情報収集する側だったからまさかここまでとは思わなかったよぉ」

「身から出た錆ってやつだろ?そもそもなんであんなこと言い出したんだか……」

「いやいや、誰だってアレはビビるって。そもそもアイドルがこの町にいるなんて思わないしその上芦刈君と一緒なんだよ?冗談交じりで名前言っちゃったけど、事務所に消されるかもと思ったら布団でガクガク震えながら夜しか眠れなかったんだから」


 夜寝たら十分でしょう。

 いやしかし、そこまで怖がる必要は……あるのかも。俺も若葉と会うまで事務所とか怖いものとしか思わなかったし芸能界って魑魅魍魎って聞くもんな。知らない人から見たら恐怖でしかない。


「朝も言ったけどそんな心配すること無いぞ。灯火も気にしてなかったし」

「やっぱり呼び捨てなんだね。だったらあの時見た水瀬 若葉も本物なの?ここに来てるの?」

「どこに現れたか知らないけど、たぶん本物だと思う」

「………そっかぁ。だったらあの時勇気出してサイン貰えば良かったなぁ」


 そうだね。若葉なら話しかければ喜んでサインしてそうだ。

 むしろ暇だったらそのままお茶にでも誘われるかもしれない。


 そんな雑談を交わしながらも手元は実験を進めていく。

 アセトンを投入し、温め、体積を測る。器具こそゴテゴテしているがとても単純な作業。記入は彼女に任せどんどん作業を進めているとホウと息を吐いた彼女が前のめりになりつつ話しかけてきた。


「ねぇ、ずいぶんと手際がいいけど予習でもした?」

「予習するくらいならゲームや寝る時間を増やすかな。単にこういうの料理みたいなものでしょ」

「へぇ~」


 手元を動かしながら告げていると松本さんから感心するような声が聞こえてくる。ちょっと嬉しい。

 そう。実験は苦手ではない。むしろ得意だ。

 手順書を見て行動を予測しそれに応じた準備をする。まさしく料理、どちらかというとお菓子作りに近しいものがある。

 正確に数値を測りさえすれば失敗しないのはむしろ料理より楽かもしれない。お菓子と違って異臭を放つ時があるのが玉に瑕だが。


 そんな彼女も紙に記入する手を止めてジッと俺の動きを見つめている。

 なんだろう……そこまで中止されるとちょっとやりにくいんだが……。


「……ねぇ松本さん」

「どったの芦刈君」

「その、ガン見されるとやりにくいんだけど、何か手順間違った?」

「ん~ん。ただ料理得意なんだぁ、って思って。その料理でロワゾブルーの2人を落としたのかな~って」

「…………安直すぎない?」

「え、違うの?」


 残念ながら違います。

 確かに若葉は俺の作った料理を美味しい美味しい言いながら食べてくれるから、そういう意味では落ちているかも知れないが。


「ん~、でも餌付け以外に知り合う方法なんて……もしかして実は親戚だったり?」

「さすがに親戚はないな。でも、そんなに気になるのか?」

「うん。 だって女の子だよ。ウワサには敏感になるでしょフツー」


 そんな普通俺は知らない。

 それでも彼女の思考は止まらない。ここが噂好きで情報通の所以なのだろう。

 いくらか考えを張り巡らせたところで、彼女は何かに行き着いたように「あっ」と言葉を漏らした。

 

「でも、芦刈君って隣のクラスのあの子とも仲良くって更にロワゾブルーの2人……あれ?これってもしかして修羅――――」

「やめて。言わないでくださいお願いします」


 最後まで言い切る前に実験していた俺の手は止まり、いつの間にか彼女に頭を下げていた。


 その答えは真理の1つ。最低最悪のバッドエンドの1つ。

 今まで蜘蛛の糸一本で耐えていていつ切れるかわからない、これまで俺が目を逸してきたいつか起こること。

 俺の反応はまさしく答えを言っているようなものだろう。そこまで過敏な反応をされるとは思っていなかった松本さんも目をパチクリしたあとニヤリと口元が大きく歪む。


「はは~ん。なるほどそういうことね。 うん、分かったよ芦刈君」

「わかったって……なにが…………?」

「私は水瀬 若葉に一票入れるから、当たったら何か奢ってね!」


 当たったらって何が!?いややめて、聞きたくない!!

 そのニヤけた顔!絶対誰とくっつくかとかそういうロクでもないこと考えてるでしょ!!


「それと、落ち着いたら紹介してね?サイン貰いたい!!」

「………考えとく」


 それは実験のさなかのちょっとした談笑。

 何だかんだ面白がる松本さんだけど、あまり深く聞かずちゃんと引き際を理解してるし面白がっていても余計なお節介は焼かない。そんな姿に僅かに……ほんの僅かにだが評価の上がる昼下がりであった。

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