146.ワンコ宣言


 人は何故、やりたくないものをやらなければならないのだろう。


 動物とは元来自由な生き物だ。

 面倒な時は道すがら見た猫のように日向ぼっこして寝たら良いし、逆にやる気に満ち溢れていたら同じく道すがら見た犬のように飼い主を引っ張って散歩に出かければ良い。

 確かに野生動物……サバンナとかでは毎日熾烈な食べ物確保の争いが行われているがそれはそれ、これはこれ。

 必要に迫られたらやらなければならないが無駄なことまで無理にやることも無いだろうと思う。

 人は嫌なこと・面倒なことをやってお金を稼ぐ。そんな事を言っていたのは誰だったか。

 もちろん重々承知している。しかしそれでも棚上げして言いたいことは1つだけ。



 ―――毎日学校行って勉強するのは本当にしんどい。


 なんで人はやりたくない勉強をしなければならないのだろうか。

 いい大学行ってお金を稼ぐため。見識を広めるため。

 様々な論調もあることだが、それでも……それでも朝早くやすぎないだろうか。

 毎日太陽が顔を出すと同時に起きて隠れるくらいに帰宅する。江戸時代ならまっとうな生活とも言えるだろう。けれどもうちょっとこう……毎日の余暇が欲しい。

 できることなら1時間位授業を遅らせて欲しい。もちろん、そんな事はできないししないのだが。


 そんなこんなで呪詛を吐き、月曜日特有の憂鬱と眠気のダブルパンチを噛み締めながら今日も今日とて学校へとたどり着く。

 しかし、毎日毎日そんな眠気を堪えながら学校に来る俺もなかなか真面目だと思う。確かに遅刻することもあるがそれもあくまで理由があってこそだ。……まぁ、単にサボればあとが面倒になるから避けているだけなのだが。


 そんなどこに出すわけでもない朝早くからの学校へ対する怨嗟と言い訳を並べていると、あっという間に普段授業を受けている教室へとたどり着いた。俺は何の感情をも抱くことなくただ黙って廊下や扉付近で談笑しているクラスメイトたちの脇を縫いつつ自分の席へを向かっていく。


「あ、芦刈君!おはよう!」

「……?」


 なんてことのない日常の動作。扉をくぐり、教壇を昇って降りて席へと向かう。

 しかし今日ばかりはそのゴールの直前で珍しい声が聞こえてきた。少し緊張の色も混じった少し聞き慣れてきた声。しかし珍しくもあるその声に俺は思わず足を止める。


「………お、おはよう!」

「あぁ、おはよう」


 そう言って挨拶をしてきたのは隣の席に座っている少女、松本さんだった。

 偶に話したりもするがそれほど仲が良いというわけでもない女の子。暇な時に交流するだけで特別朝の挨拶をする関係でもないのだが、今日は珍しく……いや、初めてかもしれない。彼女から"おはよう"の4文字が聞こえてきた。

 朝ボケボケしている俺の頭に入ってくるクリアな声。珍しい声に思わず一瞬止まってしまったが、なんてことのないと結論付けて返事をしつつ席へ着く。


 ちょっと驚いたが大したことない。ただの挨拶だ。

 そういう時もあるだろう。いい夢を見ただとか宝くじに当たっただとか。そんな良いことがあって機嫌が良いから俺にまで挨拶をしてくれたとかそういったところだろう。そうでなくともなんらおかしいことではない。俺があまり人と会話しないだけでそこらでは挨拶が飛び交っている。

 今日は偶々そうだったということで、俺はさっさとスマホで自分の世界に――――


「あの……芦刈君!」

「うん…………?」


 しかし、その目論見は上から降り注ぐ声により阻まれた。

 声の主はさっきまで隣に座っていた少女、松本さん。彼女が机を挟んだ俺の前に立ち塞がり、こちらを緊張した面持ちで見つめていた。

 思わず顔をしかめてしまったが何か用事でもあったのだろうか。心の中で悪いと思いつつ立っている彼女を見上げているも、その次に続く言葉が出て来ない。


「えと、どうしたんだ?」

「芦刈君……ううん、違った。…………芦刈様!!」

「――――はぁ?」


 たまにしか話さない知人から飛び出す、とんでもない言葉。

 "様"などと冗談やビジネス系ドラマでしか聞かないその呼び名に俺も思わず素っ頓狂な声が出てしまった。


 まるで先日の灯火と初めて対面した雪のような叫び声。思わず出てしまった大声に辺りのクラスメイト達も何事かとシンと静まり返りつつこちらに視線が集まっていく。

 視線を浴びつつも……いや、視線を浴びてるからか知らないが進まない俺たちの会話。次第にクラスメイト達は興味を失ったのかスッと向けられる顔が少なくなり、みな一様に直前まで行っていた会話に戻っていく。まるで何事も無かったかのように。


「な、なんだよ突然そんな呼び方して……。ビックリしたじゃないか。言い間違えか?」

「ううん……いえ。陽紀様!先日はお邪魔をしてしまい誠に申し訳ございませんでした!!どうぞ私のことは犬と呼んでください!!」

「――――――」


 絶句。

 もはやその言葉以外に表現のしようがなかった。


 そしてクラスメイトたちも、顔が広い彼女から飛び出す言葉にザワッ……と一様に騒然とする。

 次第に、俺より早く言葉を飲み込むクラスメイトたち。不確定な情報というのはそれぞれがそれぞれで各々補完していくものだ。彼女の口から飛び出した驚きの言葉の意味を想像で補おうと周りは口々に「あの2人ってどういう関係……?」だの「そういえばマラソンの時仲良さそうにしてるの見た!」だの「でもアッチは隣のクラスの令嬢といい感じだったって……。まさか―――」だの、ウワサがウワサを呼び続々と俺への好感度が下がっていく音が聞こえる。


 そんな中ようやくハッと気が付いた俺はというと…………


「―――いや、犬はもう間に合ってます……じゃなくって!ちょっとこっち来て!!」

「ひゃっ……!」


 案外俺の危機管理センサーは遅くとも正常に働いてくれたみたいだ。

 傍から聞いたら若干誤解されそうな言葉が漏れてしまったが、これ以上はヤバいと悟った俺は立ち尽くす彼女の手を引いて教室を出ていく。

 現在進行系で続々と入ろうとしているクラスメイトとすれ違い、登校してくる生徒たちと逆行して向かうは屋上。

 残念ながら俺には屋上へ続く鍵を持っていないため直前の扉に阻まれるが、ここならそうそう生徒たちは来ないだろう。


「芦刈様……犬になった途端大胆……」

「そういうのじゃないからね? まずお願いだから様付けは勘弁して……」


 人気のないところで二人きり。彼女が何を考えたが想像に難くないが絶対に違うと断言する。

 ただ爆弾発言で周りを誤解させたくないだけだからね?


「それじゃあ……芦刈君?」

「うん。いつも通りでいて、お願い」


 よかった。正気を失ったり人間性を捧げたのかと思った。

 話せばわかる松本さんに心底ホッとする。世の中には話しても押し通す人がいるからね。ワンコ宣言する誰かさんとか、ゲームでしたからといってリアルでも結婚宣言する誰かさんとか。


「……それでなんで犬だって?」


 気を取り直して本題に入る。

 犬と聞いて真っ先にワンコ若葉を思い出したがアレはまだじゃれ付きの一環のようなものだ。

 しかし彼女のそれは本気感があった。若葉みたいならともかく本気の犬化は感化できない。いや犬化ってなんだよと。


「だって……そうしないと消されるかと思って……」

「消される?誰が?」

「私が」

「誰に?」

「………芦刈君に」


 もう今の俺には登校するときの眠気なんてすっかり吹き飛んでしまっていた。

 一体何がどうなってそうなる。そもそも俺が松本さんを消すなんて理由も手段もあるわけない。

 

「どゆこと?」

「だって……土曜日にロワゾブルーの古鷹 灯火と一緒にいるとこ見ちゃったから……口封じの為に……」

「そんな事しないよ!?」


 何事かと思ったらそういうこと!?

 もしかしてそれで言いふらさないって忠誠を誓うために犬とか言い出したの!?どんなバイオレンスな世界だと思ってるんだ芸能界を!


「……もしかして、消されない?」

「消さない消さない。言いふらすのは勘弁してほしいけど……」

「も、もちろん言わないよ! だって言ったら消されちゃうし……」


 消さないけど……まぁいいや。

 唐突な犬宣言に何事かと思ったけど原因が判明してとりあえずホッとする。

 そういえば土曜の朝方会ってたもんな。正体もバレてたし、松本さんもちょっと深読みしすぎちゃったのかもしれない。


 とりあえず事態も収束しそうだし一件落着ということで。

 俺は胸を撫で下ろし身体を翻そうとする。けれどふと漏れ出る松本さんの「あっ」という声に俺の身体はついつい止まってしまった。


「そういえば芦刈君、なんで芦刈君があのロワゾブルーの知り合いなの?水瀬 若葉も見たのあの辺だったしもしかして…………」

「……………。さ、さてそろそろ授業も近いし戻ろうか!! 最初の授業は英語だから遅れるとやばいよ!」

「ちょっと芦刈君!? どうして!?そこのところ詳しくおしえてー!!」


 誤解も解けて安心した彼女はすっかりもとの松本さんへ。

 しかし察しが良く即座に確信を突いてくるその問いかけに、俺は逃げるように立ち去りながらさっきのままでも良かったかなと若干後悔をするのであった。

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