128.独白


「今日は本当に助かったわっ!ありがとね~!」

「いえ、また何かあればいつでも言ってください。それでは失礼します」


 奥から聞こえる感謝の言葉を受け取りながら、はガラガラとスライド式の扉を動かして部屋から出ていきます。

 部屋から出て見えるのはシンと静まり返った廊下。しかし窓……外から聞こえてくるのは、グラウンドを走っている部活組の元気な掛け声です。

 「ファイ、オー!ファイ、オー!」と自らだけでなく一緒に走っている仲間さえも鼓舞しながらひたすらに走る姿は称賛さえしたくなります。


 先程までお邪魔していたのは担任の先生が詰めている準備室。

 今日の全カリキュラムを終え、放課後ということでバッグを手にした私に先生は「部屋の片付けを手伝ってほしい」というお願いをされました。

 本当は乗り気では無かったのですが先週学校をサボってしまった件を思い出し、その負い目もあって私は先生のお願いを快諾してしまいました。


 そうして片付けを終え廊下に出る頃になると世界はすっかり朱色に。

 冬ということもあり少し前まで太陽は明るく輝いていたのですが、この調子ですと1時間もしないうちに真っ暗になってしまうでしょう。

 早く帰らねばという思いを抱えながらバッグを置いてきてしまった教室まで足を運んでいると、道中で見慣れた立方体を見つけました。


 人の背丈以上に大きく、隅の方に鎮座する長方形の物体。

 コインを入れれば好きな飲物が出てくるそれはどこにでもある自動販売機です。

 暗くなる前に帰りたいのにフラフラと近寄ってボタンを押下し、ガシャンという音とともに出てきたのは小さな黒い缶でした。

 取り出したそれを一気に傾けると苦味と香ばしい風味が途端に口内へと広がっていきます。



 もちろんそれは言うまでもなくコーヒーです。

 私はコーヒーの苦さは好きではありません。けれどそれに付随する香りは大好きです。

 大好きな彼がいつも纏っている香り。きっともうこびり付いてしまっているのでしょう。

 そんな彼に少しでも近づこうと、彼に包まれる感覚を味わいたくてたくてこうして私は苦手なコーヒーを偶に飲むことが好きなのです。

 以前那由多に「お姉ちゃん、なんでキライなのにコーヒーなんて買ってるの?」なんて言われた時には思わず誤魔化してしまいましたが、今だったらその理由も言うことができるでしょうね。むしろ那由多も進んでコーヒー飲み始めるかも知れません。



 そんなことを考えながら空になった缶をゴミ箱に捨て自らの教室に向かっていると、その直前で彼が所属する教室にたどり着いてしまいました。

 もうみんな帰ったか部活に行ったりして人の気配は一切しません。

 でももし……もしかしたら遅れてしまった私を待っていてくれるかも……。そんな淡い期待を抱きながらコッソリ覗き込むと、一人だけ。たった一人の男の子が座っていました。


 それは大好きな彼、陽紀くん。

 まさか本当に居るとは思わず私も目を疑ってしまいました。けれど何度瞬きしてもその姿は間違いなく彼です。

 窓から差し込む夕日に照らされた彼の姿。腕を枕代わりにして机に突っ伏している様子は明らかに眠っているようでした。


「陽紀……くん……?」


 コッソリ近づいて小声で彼の名前を呼んでみましたが起きる気配はありません。

 どうやら本当に寝ているようです。しかし無理もありません。今日は体育がありましたし、昨日まで東京に行っていたのですから疲れが溜まっていたのでしょう。


 私は彼を起こさないようゆっくりゆっくり近づいて前の席に腰を降ろします。

 すぐ目の前には無防備に寝ている彼の寝顔。前髪が目にかかって少し嫌そうにしているのを、そっと指先でなぞって前髪を浮かせます。

 もしかして本当に私を待っていてくれたのでしょうか。それとも寝てしまって気づいたらこの時間になってしまったのでしょうか。

 私としては待っていてくれたのならば嬉しいのですが、さしたる問題ではありません。結果的に今会いたい人に会えたのですから。


 朝もご一緒してお昼も快く私の作ったご飯を美味しいと食べてくれた彼。

 しかし私たちはまだつきあっていません。


「でも、あの時……私が勇気を出してさえいれば……」


 そっと髪から指を離して呟くも、彼の耳には届きません。

 もしあの夏の日、彼を好きになってからすぐに告白できていれば私達の関係は違っていたのでしょうか。

 そうしたらこんなに近くにいるのに、好きだと言ってもらったのに寂しい気持ちは埋まっていたのでしょうか。


「あなたがもし……」


 もし……もしあなたが一言、「俺のモノになれ」と言ってくだされば私は……。


 最近、学校のみなさんから私に向けられる視線が変わりました。

 ふだんは無関心が多かったのですが今は好奇、羨望、好意などの視線が混ざっていることに気づいています。

 正直何故かという疑問はありますが、見られる目が変わったからといって私の行動原理が変わることはありません。

 私はそこそこに勉強して好きな人と一緒に過ごしたいだけなのです。


 けれど彼の周りには私と同じく好意を向ける女の子がたくさんいらっしゃいます。

 若葉さんに那由多……それに探せばもっと多くの人がいるのかもしれません。

 今日の体育のときだって、あなたはクラスの女の子と楽しそうにじゃれ合っていました。それを偶然見てしまった私の顔はきっと凄いことになっていたでしょう。

 だからお昼休みはわざとらしく迎えに行き、アピールをしたのですが……。


 あなたから言っていただければ私はすぐにあなたの元へ向かう用意は出来ているというのに、運命は残酷です。


 彼はきっと綺麗に輝く星なのでしょう。

 きっとシリウスのような、カノープスのような。そのような星には沢山の人の目が止まります。

 しかし私にとっては小さく輝く星でいいのです。そうでないと他の子たちの目が向けられてしまいますから。

 だってそうでないと私なんか見向きもされなくなってしまうかもしれません。勝手なワガママですが、私だけが独占していたかったです。


「私がこんな風になってしまったのは陽紀くんのせいなんですからね?」


 きっと、昔とは言わずとも、つい最近の私でもこんな思いにはならなかったでしょう。

 私達の前に若葉さんが現れた時も、若葉さんが彼の家に住むと知ったときもある程度冷静でいられました。

 きっと大きく変わったのは文化祭、そして彼に「好きだ」と言ってもらってから。


 人というものは貪欲なものです。

 決して現状では満足できず次を、更に次をとどんどん先を求めてしまいます。

 それが人が進化した理由という側面もありますが、今の私にとってそれはなんとも辛いものでした。


 笑顔を向けてほしい、もっと触れていたい。もっと包み込まれたい。

 そんな思いがフツフツと湧き上がって今の私は沸騰寸前です。


 私にも若葉さんみたいな愛嬌と積極性があれば。私にも那由多みたいな計画性と勇気があれば。

 しかし私には何もありません。自分に誇れるものがないのでどうしても奥手になってしまいます。

 けれど心というものは抑えきれるものではありません。キュウッ……と胸が締め付けられる思いになりながら彼を見つめていると、ふととある一部分に目が止まります。


「ぁっ………」

「……………」


 ジッと見つめていても起きることのない彼。そんな彼の無防備になっている唇に目が止まってしまいました。

 横に向けているおかげで無防備になっている顔。その一部分である唇に私の視線は吸い込まれてしまいます。


 ……いえっ!ダメです!

 いくら好きと言ってもらったとはいえそんな寝込みをだなんてこと……。

 でも、でもここまで近づいても、声をかけても起きないのであればもしかしたらチャンスかもしれません。


 幸い教室にも廊下にも誰も人はいません。

 ちゃんと扉も締めて人が通っても廊下から見えるということはないでしょう。

 つまりは誰にも、本人にも知られることがない。私の抑えきれない感情は次第に冷静さも失ってただひたすらにこのチャンスをものにしようと片手で髪をかき上げながら彼の唇に―――――



「――――――」



 ―――瞬間、私の脳内に異常なまでの幸福感が満ちていきます。

 それは言いようもない感情。幸せと達成感と愛おしさと興奮感。

 熾烈にて苛烈にて激烈に様々な感情が渦巻いていきますがどれも嬉しさに連なるもの。

 たった一度。されど初めて行われたそれは彼の意識のない時に、寝込みを襲う形で行われました。

 罪悪感もありますがそれを塗りつぶすほどの感情。私は即座に離れますが彼が起きる気配がないことに気づきゴクリと息をのむ。


「もう一回……もう一回だけ……」


 その時の私はきっと何かに取り憑かれていたのでしょう。

 視線は定まらずも向けるのは彼の唇だけ。さっきの感覚をもう一度という心にのみ突き動かされもう一度顔を近づけていく。


「んっ…………」


 もう一度。私と彼との距離はゼロになりました。

 同時に胸のうちから湧き上がる幸せな感情。私はその喜びに打ち震えながら、ふと何かを気にしたのか目を開けます。

 それはやってはいけないこと。知りたくなかったこと。しかし気になってしまった私は無意識に閉じていた目を開けると、目の前の光景に思わず目を見開きます。


 眼前に見えたのは彼の姿。

 それは当然変わることのない景色。しかし私が驚いたのは彼の目が確実に、しっかりと、間違いなく開いていたことでした―――――

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