089.青春とは


 ブオォォォ………と、本日二度目となる暴風の音が我が部屋へと響き渡る。

 風の力によって揺らめく髪を抑え、根本から先端へと向かって手を梳かせる。

 まるで指の間には何も無いと思えるくらい抵抗のない髪がスルンと先端へとたどり着いてすり抜けるのを何度も何度も繰り返す。


 全く引っかかる気配のない金青の髪。きっと普段から手入れは怠っていないのだろう。

 腰辺りまで届く長髪がゆえにいくらかベッドに垂れており、その黙って髪を乾かされている姿は普段明るい彼女に大人しさと理知的な雰囲気を感じさせ、俺もほんの少しだけ鼓動が早くなる。


「……痛くないか?」

「ん~ん。すっごく気持ちいいよぉ」


 普段犬みたいに甘えてくる若葉の大人びた姿。

 ギャップをも感じさせる今の彼女は、アイドルでもアスルでもなくただの女の子として俺の目に映っていた。

 こんなに可愛い女の子がひとえに俺のことを好いてくれて片田舎までやってきてくれた。今までのキャリアを止めてまで。

 今彼女はアイドル業についてどう思っているのだろうか。もし母親である咲良さんの提案を呑むとして、彼女は素直に再開するのだろうか。


 そう考えてしまえば眼の前のことに意識が集中できなくなり、当てていたドライヤーが自然と下がってスイッチを止めてしまう。


「あれ?もう終わり?」

「……なぁ、アス―――若葉」

「なぁに? 陽紀君」


 俺の呼びかけにまんまるな目がこちらへ向かれた。


 ただひたすらに楽しげな若葉の目。

 疑うことなんて知らない純粋で無垢な瞳の奥の色。

 意味を見いだせなくなったと言っていた彼女は今戻ろうという気があるのだろうか。


 でも、そもそも今の若葉を見ているとなんとなく……


「……若葉って本当にアイドルだよな?」

「えっ!?今更それ聞くの!? 雪ちゃんからライブ映像見せてもらったし陽紀君の前で歌ったりもしたよね!?」


 そんな疑問が口から飛び出していた。


 あぁしたした。出会って速攻カラオケでな。

 あの時って驚きが先行しすぎてふわふわしてたからさ。ちょっと記憶も正直薄いんだよね。


「なんというかアイドルというよりワンコみたいだと思って……」

「えぇ~!? 確かにあのときとはちょっと違うかもだけどコッチのほうが素だもん! ワンワン!」

「あっ!こら! 倒れてくるなっ!」


 最後にワンワンとか言ってノリノリじゃないか!


 背中を向けていた彼女はそのままこちらに倒れ込んできて肩を受け止める。

 見上げるようにして顔だけをこちらに向けてきた笑顔は小動物そのもの。犬は犬でも小型犬だな。


「じゃあ、アイドルに戻りたいとか思うか?」

「えっ……。それは……」


 その問いにピクリと眉が揺れ動く。

 彼女の顔がすぐ近くにあったからこそ気づくことができた。

 一瞬不思議そうな顔をした彼女だったがすぐに虚空を見つめて考える素振りになり、少しだけ部屋が静かになる。


 以前、一旦東京に戻って来た若葉がコッチに戻って公園で話した時はやりたいことが見つかったと言っていた。やり損ねたことを取り戻したいとも。だから同じ質問だろうと一蹴されるかとも思ったが、そうではなく真剣に考える姿が目に映る。


 長考して彼女が出した答えは、まさかの逆質問だった。


「……もしかして、ママに説得してくれって言われた?それとも陽紀君ごと東京に戻れとか」

「っ……!? なんでそれを……!?」

「あははっ! やっぱりそうだったんだ!わかりすぎだよ~!」


 まさか核心を突いてくる言葉に息を呑むと、彼女は「やっぱり」と言って笑い出す。

 クッ……!カマをかけられたか……!


「ママってそういう事するもんねぇ。あの後ママがウチに来て休止した理由を根掘り葉掘り聞かれたから連れ戻したがってるなぁとは思ってたけど」


 納得するように頷く若葉と、黙っておいてくれと言われたにも関わらずたった1日で全てがバレてしまう俺。

 完全にしてやられた。まさかここまで読まれるとは。


「それなら、若葉はどう思ってるんだ?そのことについて」

「ん~……前者は私一人だっていうんならお断りだけど、後者の陽紀君と一緒だったら条件次第かなぁ?」

「条件? 俺が何かするのか?」

「うん。それはねぇ…………」


 背中を預けていた彼女だったが軽快な動作で身体を翻し、俺と向かい合う。

 黙って、ニヤリとた笑みのまま四足で迫ってくる彼女。まるで獲物を狙うような目に俺も少しづつ後退りをしていくとトン、と背中が壁に当たる音が聞こえた。

 それでもなお迫ってくる若葉。もう逃げられないところまで追い詰めた彼女は、スッと腕を伸ばして頬に手を当ててくる。


「私と陽紀君が結婚すること。 もちろん陽紀君の意思でね」

「若葉……」

「それだったら私がやりたかった青春のやり直しもできるしね。 随分と一足飛びだけど」


 彼女の妖艶に笑う姿を俺は目を離すことができなかった。

 先程の犬のようだと例えた発言。それを撤回したくなるほどの変わりよう。

 明るい若葉から艶のある若葉へ。人を魅了し魅惑する姿はまさしく女優のような変化だった。


 ごくんと自ら生唾を呑む音が聞こえてくる。

 これから俺はどうなるのだろう。どうするのが正解なのだろう。

 しかし答えの出ることのない疑問をグルグル脳内で回していると彼女は諦めたように手を離していつもの笑顔を見せつけてくる。


「……なんてね。ビックリした?」

「…………。お、おぅ」

「まだまだコッチでやりたいこともあるし、今東京に行くのは嫌だよ。 あ、でも簡単な仕事なら引き受けてもいいかな?もちろん陽紀君も着いてきてくれるならね!」


 さっきの艶などウソかのように。可愛らしくウインクして見せる彼女に俺はようやく肩の力が抜けてくる。

 直前の彼女、今の彼女。どちらが本音なのだろう。まさしく咲良さんの娘らしく若葉には女優の才能が備わっているとも感じた。


 しかし変化の温度差に耐えきれずいまだ動くことのできない俺。

 まるで凍ってしまったかのような俺の身体を融かしたのは、思いもよらない人物だった。


「あ~ビックリしたぁ。そのまま2人でおっ始めるかと思ったよぉ」

「「―――――!!」」


 それはふたりともすっかり頭から抜け落ちていた第三者の声。

 その声に恐る恐る振り返ればさっきまで俺が座っていたPC用の椅子に体育座りしている雪の姿が。


 しまった……!雪の存在を忘れていた!!


「えっと、お邪魔ならあたし、このまま下降りておくね。せめて扉は……閉めてね?」

「ちょ……!雪……! そういうのは違うから!全くもって違うから!!」


 気が動転しているのか視線を右往左往しながら出ていこうとするも足がおぼつかない。

 必死のせき止めが耳に届いたのか扉に到達する直前で雪の顔がこちらに向けられる。


「おにぃ……」

「ゆき……」


 分かってくれるか……雪。

 俺の念が通じたのか妹はニッコリと頷いて――――


「…………おにぃってきっと、最初は女の子に襲われる感じになるんだろうね」

「――――」


 それは妹からの撃沈の一言。

 否定したいが一部始終を見られた以上否定もできずただ黙っていることしかできない。

 まるで「あとはまかせた!」というように部屋から出ていく雪を見送った俺は、その場でパタリと倒れ込むのであった。

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