026.その扉の裏では


「んぁ…………」


 仄かな香りがウトウトと闇に溶けかけていた意識を引っ張り上げる。

 甘い……心地よさをも誘う香り。何時までも嗅いでいたい。本格的に眠りへと落ちていきたい。

 そんな思いを抱えながら、何故その匂いを感じ取っているのだろうと闇に覆われた世界でひとり考える。


 今日は何していたっけ……そうか。月曜から風邪を引いて倒れてたんだった。

 それで確かなんやかんやあって、まさかの名取さんが料理を作りに降りていったところ手持ち無沙汰になった俺は寝てしまったのだっけ。

 正確には眠りというよりその一歩手前、ウトウトというレベル。目は瞑っているものの意識はある程度保っているしこうして直前の記憶もしっかり思い出せる。


 気を抜いてしまえば本格的に寝てしまいそうな、崖下一歩手前のところで踏みとどまっている俺は今一度考える。

 この甘い香りはなんだろう。正直眩しいのが嫌だから、できることなら呼ばれるまで目を開けたくない。なら香りの招待を予想するしかあるまい。

 香り……香りといえば今名取さんが作ってくれているであろう料理だろうか。お粥作ってくれる言ってたし、正体がそれなら納得だ。香りが立ってきたのならそろそろできるという合図。そう考えればあとは簡単だ。呼びに来てくれるまでゆっくりしている他あるまい。



 …………いや待てよ。

 お粥に甘い香りってなんだ?これはどちらかというと料理より花とかそっち方面の香りじゃないのか?

 早々に結論を出してしまいそうになるところをすんでのところで引き止めてもう一度考える。


 そもそもキッチンは1階、この部屋は2階。これまでの経験上、よっぽど香り立つものでない限りこの部屋まで届くことはなかった。

 ならこれの正体はなんなんだ?料理でもないとすると…………うぅん、わからん。


 もう仕方ない。ここまで来たら答え合わせだ。

 身体が眠りに入っていて目を開けるのは非常に億劫だが、寝入ってしまって名取さん手作りのお粥を逃すのはもっとダメだ。

 ここは自らを奮い立たせて起きるしかあるまい。そうだ、なんでお客さんが来てるのにのうのうと寝ているのだ俺は。起きなければ。



 ここまで思考してようやく決心した俺は非常に重いまぶたを根性で持ち上げながら現実の世界を目に納める。



 ――――ファーストショットは光に照らされる金青の糸のようなものだった。

 その一本一本が太陽の光に照らされて輝き、風か何かの力によって揺れ動いている。

 俺の部屋では見覚えのない色。どうやらこれが今まで考えていた香りの正体であった。

 じゃあ見覚えのないこれは一体何なんだと、少し横に傾けていた顔を天井へと向け直す。


 天井には、大きな大きな影があった。

 視界を覆い尽くさんとする大きな影。そこからこの綺麗な糸も垂れているよう事を理解した。

 けれどその正体を突き止めるには光が足りないと、薄目の状態から徐々に目を開けていって虹彩を広げていく。


「起きないんだったら、きっとバレないよね――――あっ!!」

「っ――――!!」


 シュッと。

 物が物であれば背中とシーツとの摩擦で火が出るほどの速度だっただろう。

 そう思わせるほどの勢いで反射的にスライドして抜け出した俺は”影”との距離を一瞬にして引き離す。


 背中を擦って頭のほうから起き上がったせいで背中が熱いが、今はそうも言っていられない。俺はさっきまで見つめていた影の正体をこの目に納める。

 

「…………水瀬さん」

「えっ、あっ!起きちゃった!?」


 いつにもまして目を丸くし、驚いた表情を見せつけるのは、あろうことか水瀬さんだった。

 さっきまで感じていた金青の糸は彼女の髪、そして香りは彼女自身から香るものだったと光景を見て瞬時に理解する。

 身体をスライドさせ上半身を起こし、ベッドに足を伸ばして座る体制になった俺は両手をついている水瀬さんと目線を合わせる形となってしまった。

 何故彼女がこんなに近くにいたのか、前かがみの体勢をとっていたのか、わからないことだらけで脳が混乱を引き起こす。


 さっきまでどういう状況だった? 水瀬さんが目の前にいた。見下ろす形で。

 眠っている俺に? そう。無防備の俺に。

 なんでそんなことを?それはどういう状況が考えられる? そんなの決まっている。落書きか、それとも映画のラストでよく見るような――――


「まさか………!」

「ち、違うの! そういうのじゃないの!!」


 まさか。

 そのまさかの未来を想像すると同時に顔がボッと熱くなり口元を手で覆い隠すと、彼女も理解をしたのか大慌てでそれを否定してくる。

 でも、そこまで否定するのはまさか本当に俺へキ――――!


「違うって! セリア!!」

「!!」


 叫ぶように告げられる俺のもう一つの名。

 この1年は特に、下手すればリアルネームより呼ばれた回数が多いかもしれないその名を呼ばれて、俺の思考は陽紀からセリアへと切り替わる。

 そうだ。冷静にならなきゃ。こういう時パニックになった者からギミックを喰らって倒れてく。だからヒーラーとして冷静にみんなを支えないと。


「……落ち着いた?」

「あ、あぁ。すまん」

「私こそゴメン。ちょっとサンタさんの真似してたら突然起きてびっくりさせちゃって」

「サンタ……?」

「…………」


 サンタ。とは何事か。

 そう問いかけると彼女は無言で人差し指を立てながらベッドの一部分を指さした。

 そこは俺が寝ていたベッドの枕元。枕と壁のちょうど真ん中。今まさに腰の横にあたる位置に目をやると、ビニール袋に包まれた何かが置かれていることに気が付いた。


「これは?」

「………ごめんね陽紀君。荷ほどき中に汚れちゃってクリーニングに出そうとしてたんだけど、完全に消すのは難しいって言われたから……その…………」

「新品の……上着……」


 それは俺が昨日彼女に羽織らせた上着そのものだった。

 しかし覚えのあるほつれはこの上着にはなく、袋に包まれていた時点で新品だとすぐに理解できるもの。

 もしかして彼女はこれを買いに行っていたのだろうか。


「ごめんね。本当は朝すぐに言い出すのが良かったんだけど、なかなか言い出せなくって」

「あぁ……。全然かまわないよ。安物だったし、むしろ新品買ってもらったのが悪いというか……」

「ううん、それは是非貰って! そうじゃないと私が気が済まないから!!」


 なるほどそういうことか。

 さっき彼女が前かがみになっていたのは枕元にこれを置いてしまおうという魂胆だったのか。

 それもそうだよな。まさか彼女が俺にキスするなんてあるはずもない。彼女とはちょっとゲームで縁があっただけ。そういうのはもっと相応しい人がいるはずだ。芸能界は美男美女だらけなんだしよりどりみどりだろうし。


「……そっか。ありがとう、アスル」

「うんっ!」


 手にしていた上着を軽く掲げてからお礼を言うと、嬉しそうな笑顔で答えてくれる。


 しかしわざわざ新品をねぇ。

 特別思い入れないのだから一言報告だけでよかったのにな。でもその責任感の強さは盾職のアスルらしいというかなんというか。


「それでセリア、起きるのは大丈夫そう? お粥がそろそろできる頃なんだけど……」

「お粥……? そうだ!名取さん!! …………あれ?」


 そうだった!すっかり忘れてた!!

 ハッとようやくこれまでの事を再び思い出した俺は慌ててベッドから飛び降りるが、床に両足が着いた瞬間片足に力が入らなくて思わず体勢を崩してしまう。

 このままだと崩れ落ちるように右肩から床に激突するだろう。


 けれどそうはならない。

 俺さえも倒れると思っていたが、隣にいてくれた水瀬さんがとっさに手を出して支えてくれていた。

 自らの身体がまだ地に着いていないことを自覚すると彼女のホッとしたような顔がすぐそばで見せつけられる。


「……全く、気をつけなセリア。病み上がりなんだから、自分が回復してないと俺も癒せないだろ?」

「あぁ……。悪いなアスル」

「ほら、持ってきてあげるからベッドにもどって」


 まさか昨日の言葉を返されてしまうとは。

 自分の不甲斐なさに呆れるとともに眼の前の人物が間違いなくアスル本人の物言いにホッと安堵感を覚える。

 相棒が近くにいてくれるなら心強い。また何かあれば支えてくれるだろう。そんな確信を持ちつつ今度は自らの両足でしっかりと立って大人しくベッドに戻っていく。


「じゃ、お粥持ってくるね!陽紀さんはそこで待ってて!」


 元気いっぱい俺が食べれそうなことに安堵した彼女はそのまま部屋を出ていってしまう。

 …………お腹すいたけど降りるのが怖いなぁ。

 寝る前は棚のはるか上まで放おり投げたけど、水瀬さんがここにいるということは名取さんと会ったのだろう。

 変な空気になっていないだろうか。怒ったりしていないだろうか。


「…………大丈夫、だよな」


 あの様子を見るにきっと大丈夫だろう。もはやそう信じる他ない。

 枕を立ててベッドに座りながら少女の持ってくるお粥を待つ。幾ばくかの不安とともに、初めての手料理という事実に胸踊らすのであった。








 そして少年は気づかない。

 部屋から出た扉のその裏で、少女の指先がそっと口元に触れたことを。

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