022.ファルケ
「あ~! む゛~!! ひゃ~!!!」
奇声。
自らでも自覚するほど奇行ともいえる奇声が発せられる。
発生源は少女の自室。ベッドの上に置いてある愛用の枕から。
音の殆どは枕に吸収されて外に響くことはないが、それでも外に行って叫び出したいほどの衝動が身体の中を駆け巡っていた。
ついに触れてしまった。
これまで何度か手をつなごうとしてきて、けれどやっぱり勇気がでなくて諦めざるを得なかった彼との接触。
それを今日限りの勢いではあるが確かに手を重ね合わせることができた。
これまで何百、何千、もしかしたら何万に届くかも知れないほどこなしてきた握手会。
男女問わずいろいろな人と握手を交わしてきた。真剣な目でこちらを見据え、熱の籠もった手でギュッと握りあうファンと若葉。
その事自体に特別な感情は持ち得なかった。いや、確かにファンとの交流という観点で嬉しさや元気を貰ったりもあったが、あくまでそこ止まり。それ以外の感情はでてこなかった。
なのに彼に触れるとなるとこんなに満たされるなんて。
緊張を乗り越えついに触れることができた。彼の暖かな手に胸の内が暖かくなり、涙さえ流しそうになる。
たかだか握手くらいでこんなに心乱されるなんて……という考えも以前はあった。
漫画などでは当然訪れるふれあい。それによると手どころかキス、果てには―――まで。
そんなものを見てきた若葉にとっても、いざ当事者になると漫画とは全然違うことが露呈された。
まるで小学生みたいな精神。いや、それ以下。しょうがないじゃないか、初恋なんだから。
そう彼女は自信の心の中で言い訳をしつつ、枕を抱きかかえながら顎を乗せる。
「やっぱり優しかったな……陽紀さんは」
そんな言葉を呟きつつそっと肩に掛けられた上着に触れると、自然と笑みが溢れだす。
紺色のなんの変哲もない上着。デザイン性など特記すべきものは何もなく、シンプルを地でいくような上着。
おそらく量産品。おそらく1枚なり2枚かそこらの千円紙幣があれば買えるものだろう。けれど若葉にとってその上着は何百万何千万、更にもっと価値のあるもののように感じられた。
触れるだけで身体はもとより、心までもがこれまで以上に暖かくなるのを感じていく。
寒さに震える若葉にそっと陽紀が羽織らせてくれた上着。
最初はいいって言ったのにあんなこと言われたら受け入れざるをえないじゃないか。
そう若干文句を言いつつ襟の部分を近くに持っていくと、そんなことはどうでもいいかと思えるくらい笑みが出る。
そして服から漂ってくる仄かな香り……。これは……
「スンスン……スンスン……。コーヒー?」
鼻を近づけて真っ先に感じ取ったのは彼自身の香りだ。
それぞれの家の匂い、とでもいうのだろうか。金曜日に初めてお邪魔した時に感じたあの匂い。
決して悪いものではなく好ましい香り。それと同時に苦味を引き起こすような香りも感じた。
東京にいる時に社長のを飲んで感じたあの苦味。そしてそれを思い出させる香りは個人的に好きとは言い難い。
しかし彼自身の香りに混じってくるだけでその嫌な思いも緩和させられるような気がした。
家を出る前はコーヒーを飲んでいたのかもしれない。なんとなくコーヒーを飲みながら画面に向かってゲームをしている姿が脳裏に浮かんで微笑ましくなってしまう。
そして同時に、苦しいことも思い出してしまった。
あの時好きな人がいるって言ってた。そのことを思い出すだけで胸がキュウッと苦しくなる。
どんな子なんだろう。可愛いのかな?綺麗なのかな?活発なのかな?大人しいのかな?
そんな想像を進めるたびにどんどん苦しくなっていくのを感じ、若葉はギュウっと顔に埋めた上着を強く抱きしめる。
「……いけないいけない。今日の分を消化しないと」
嬉しいことも苦しいことも飲み込んで若葉は顔を上げる
そのまま日付が変わるまで上着を嗅いでいそうになったが、まだ今日の日課を終わらせて居ないことを思い出して身体を持ち上げた。
大丈夫。辛く苦しいことなんて仕事ではいくらでもあった。そう奮い立たせてベッドから立ち上がる。
アイドルを休止したといえど持ち前の精神力は未だ健在。上着を置いていくことを名残惜しく思いつつ、通り抜けるのは未だ全然開封が終わっていないダンボールの山。その隙間を慣れたようにスイスイと進みつつ向かうのはPCが置かれたデスクだった。
せっかく日付が変わる前に帰ってきたんだ。せっかくだしちょっとでもインしてデイリー作業をこなさないと。
そう考えた若葉はいつものようにゲームとボイスチャットを立ち上げた。
「陽紀さんは……いないみたい」
立ち上がってすぐにフレンドリストを見たが目的の名前がないことに少しがっかりする。
帰ってすぐインしてくれてると思ったけどアテが外れた。上着貸してくれたし、もしかしたらお風呂に入っているかも。そのままインしてくれるかはわからないけれど日課をしながら少し待ってみようかな。
これからの予定を立てながら適当なコンテンツへ突入しようかと考えていると、ボイスチャットルームのほうで一人、入室していくログがポンと出現していることに気が付いた。
なるほどこうきたかと1つ頷いた若葉は無言でボイスチェンジャーを起動する。
「よう。ファルケ。 インしてたんだな」
いつものように入室し、声をかける相手は仲間のファルケ。
アタッカーで人数が多い場だと寡黙。けれど決して話すことが嫌いな訳では無い彼は、若葉の存在に気がつくと同時に「あぁ」と声を出す。
「アスルか。遅かったな。今日も仕事か?」
「あぁ。少し遠出してて……インが遅くなった」
「タイミングが悪かったな。 セツナもセリアもちょっと前に落ちたみたいだぞ」
その言葉にフレンドリストをもう一度呼び出した若葉は1つ納得をする。
1時間ほど前に一斉でログアウトした痕跡が残っていたのだ。そういえばお姉さんをなんとかって言ってたし、陽紀も付き合わされたのかもしれないと若葉は理解する。
「そっか。じゃあ俺もデイリーだけして寝ようかな」
「……その前に、すこしいいか?アスル」
「うん?」
今日の方針を決めたところで突入画面を開くと、ふとファルケが話しかけてきて意識を向ける。
その声色はなんだか神妙な面持ちのようで、開いていた画面を落とした後、今一度ボイチャ画面に目をやった。
「……俺な、少しログイン率下がるかもしれない」
「おぉ……そうか。リアルが忙しくなるのか?」
「あぁ、仕事でちょっとな……。アスル、お前も社会人って前言ってたよな?」
「う、うん」
若葉のリアルについては、攻略メンバーに社会人とだけ伝えておいた。
スケジュールを合わせる都合で必要な情報だから。もちろん性別と具体的な職業は言っていない。
「それでな、俺……今日先輩に啖呵切っちゃたんだ。『お前がやらないなら俺がやる』って。どうすればいい?」
「どうって……」
何の話題かと思ったがまさか相談だったことについて若葉は面食らう。
寡黙気味な彼。そういう話は一切してこなかったから。珍しいと思いつつその内容について考える。
「その……先輩の反応は?」
「わからない……。啖呵切るだけ切って帰っちゃったから」
それはまぁ、やってしまったなと若葉も苦笑いしか出て来ない。
つまりはコミュニケーション不全だろう。けれど彼自身もそれを相談するくらいなのだから思うところはあるみたいだ。
「じゃあ、ファルケはどうしたいんだ?」
「……啖呵切ったのか売り言葉に買い言葉みたいなものだったけど、できることなら結果を出して自分一人でもできることを見せつけたい」
なんだ。もう答えは出ているじゃないか。
ならなんで若葉はそれを言うんだと考えたが同時に答えも出る。もしかしてファルケ、公園の時の自分みたいに聞いてもらいたかったんじゃないかと。
決意表明。言うことで力になる。彼は口に出すことでその決意を今一度宣言したかったのかもしれない。
「じゃあ、俺に聞かずともやることは決まってるじゃないか」
「えっ、あ、あぁ。そうだな」
もしかして自覚がなかったのか。おっちょこちょいだな。
「そんなわけで少しイン率減ってしまうから、みんなにもそう言っておいてくれないか?」
「あぁ、もちろん」
「あ、でも啖呵切った件は内緒な! もし言った本人が不安になってるって先輩にバレたら大変だから!」
「あははっ! わかってるって!」
この匿名の世界。そんなことはあるわけ無いと若葉は笑ってみせた。
「だといいけど……。 それじゃあ早速落ちるな。レッス……色々準備があるから」
「あぁ、頑張ってな」
そう言って落ちていくファルケを若葉は優しい目で見送る。
これはオンラインゲームで出会った人々の出来事。
顔の見えないやり取りが当然であるこの世界では、その相手が誰かなど今はまだ知る由もない。
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