010.空騒ぎ
「ただまー」
寒くなってきた秋夜の帰り道をようやくたどり着き、玄関の扉を開けると暖かな空気が俺を包み込んだ。
人の営みの象徴である暖かな熱と光。それらがすぐ近くのリビングから漏れ出ていることに心のどこかで安心感を覚えつつ靴を脱いで廊下に上がる。
今日は……本当に色々な事があった。
この玄関からスタートしたトンデモな人物。学校が終わってからもかの人物は隣に立ち、ついさっきようやく帰路についた。
まるで夢心地のような一日だった。
夏の夜の夢ならぬ、秋の夜の夢。
ゲームで結婚した相手がアイドルで、休止して早々ウチまでやってくるなんて。今日一日何度この目が見ている現実を疑ったことか。
けれど事実。覆しようのない真実。疑うごとにそれは突きつけられ、今も手を洗うついでに顔をも洗ってなお現実を確かめる。
「……ふぅ」
洗い終わった顔を鏡で見る。
まだ拭いてないが故に水が滴り落ち、髪も濡れて幾つかの束になっている。そしてなぞる目元は朝から幾分かマシになったもののまだ隈が残っていた。
学校でいくらかは寝たがさすがにその程度じゃ足りなかったようだ。そういえば彼女は元気だったな。目元も問題なかったし、昼に寝たのだろうか。
「おにぃ~! ご飯だよ~!」
「……あーい!」
しばらく洗面所で顔をイジイジしていたらリビングの方から雪の呼ぶ声が聞こえてきた。
いかんいかん。ボーッとしてたら5分も突っ立ってたじゃないか。お腹空いてるし、さっさとリビング行って夕飯食べないと。
「ごめんごめん、ちょっと顔洗ってた………って、ライブ見てるのか」
リビングの扉を空けて真っ先に聞こえてきたのは聞き慣れた少女の聞き慣れた歌であった。
音の発信源はこの家一番の大きなテレビから。そして映像はさっきまで会っていた少女のライブ映像だった。
きっと雪が自室からディスクを持ってきたのだろう。雪も母さんも、席に着いて画面をジッと見つめている。
「ねぇ雪、この曲何?」
「これは『Snow Window』だから……今このへんだよ」
「へぇ、いい曲ねぇ。お母さんもファンになっちゃいそう」
そうやって聞き入る2人はもう既に彼女……水瀬 若葉の虜だった。
静かに雪の隣に座っても気づいているのか気づいていないのか、2人の視線はテレビに釘付け。このまま放っておけばテーブルに並べられた料理が冷めてしまいそうなほど。
「……いただきます」
最初は2人に声をかけようかと思ったが、そのあまりの夢中さに諦めて一人お箸を手に取る。
今日は…………魚か。銀色の皮に白身が特徴的な太刀魚。うん、美味しい。
「すごいね……」
「うん……」
黙々と食べていく俺とは対象的に2人はもはや別世界にいるようだった。
雪は仕方ないとはいえ母さんまでとは。きっと今日会った効果もあっただろうが、それにしても画面の中にいるアイドルはそれほどまでに人を惹きつけるらしい。
俺が平気なのは未だに彼女と合った事実を現実だと認識していないからだ。そしてもう一つ、とあることが原因で耐性ができたから――――。
『それじゃあ次はみんなが楽しめる曲いくよ~!! Much Ado About Nothing!!』
おめかしした画面の中の少女がそう宣言すると同時に会場が沸き立ち、ドラムやギターなどからポップな音楽が奏でていく。
さっきの落ち着いた曲ではなく軽快な音楽。まさに場を盛り上げるに適した曲調は、何故か俺にも聞き馴染みがある音楽であった。
「…………あっ、これカラオケで水瀬さんが歌ってた曲だ」
そうだ、思い出した。
この曲は夕方水瀬さんと会ったあと、カラオケに行って一番に歌ってた曲だ。
先程行われた2人でのささやかなカラオケ会。俺も一応歌いはしたが、それでも殆どの流れは彼女が作っていた。
その流れを作る内の1つがこれ。『Much Ado About Nothing』。彼女が歌うのは主に自分の曲。俺だけに向けられたそれはまさしく小さな小さなライブと言えたのかもしれない。
だから今こうして母と妹が世界に没頭していても俺は平気で入ることができる。だってそれ以上のものを見てしまったから。
「っ―――――! おにぃ!それどういう事!?」
「わっ……!?」
フッと漏れるような小さな呟き。
音楽にかき消されるような小さな呟きでも雪が聞き逃すことはなかった。
まさしく反射の領域。脳がその意味を理解するよりも早く動いた雪は、没頭していた世界からあっという間に意識を引っ張り上げて俺へと詰め寄ってくる。
「おっ……おぉ……?」
「おにぃ!さっきなんて言ったの!?」
隣……今は眼の前になったか。眼前の雪はまさしく真剣な表情で俺の言葉を確認してきた。
戸惑いこそすれ別にそこまで驚くことでもない。水瀬 若葉に目が無い彼女は偶にこうやって暴走する。
その真剣さを、もうちょっと勉強にも向けてほしいものだが。
「いや、さっき水瀬さんとカラオケ行ってきて、この曲歌ってたなって……」
「カラオケ!? ミナワンとカラオケ行ってきたの!?」
「う……うん……」
そりゃあ……まぁ……。
待ってくれてたしそうでもしないと色々厄介なことにもなりそうだったし。
でも名取さんと一緒に帰れなかったことはちょっと複雑な気分。
「え~!! ずるいずるいずるい~!それってもはやライブじゃん!二人っきりのライブじゃん!!なんであたしも誘ってくれなかったし!?」
「だって俺もいきなりだったし……」
「お母さ~ん! おにぃがファンクラブ3桁のあたしを裏切った~!」
裏切りとはまた面妖な。成り行きだったんだから仕方がない。俺だって予定になかったことなんだ。
それとファンクラブ3桁といっても900後半でしょうに。
「あらまぁ。陽紀、あの子とデートしたの?」
「デートじゃない!!」
「デート!?鬼ぃが!?ミナワンと!?」
そんなわけないだろう!生まれてこの方女の子とデートしたこと無いのに!
ちょっと遊びに行ったくらいだっての!!
あと、さっき俺への呼び方イントネーションおかしくなかった?
「おにぃ……流石に大人気アイドルなんだし、ミナワンを狙うのは妹的にちょっとハードル高すぎるかなぁって…………思ったり」
「だからぁ……デートじゃないって! 2人とも夕飯っ!!」
よくある家庭のよくある食卓。
奇想天外な一日の終わりの食事は、終始俺への詰問が続けられるのであった。
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