決戦(1)
「久しいな、ユシュツカの坊」
支配領域の結界を抜け対峙したとき、男は頬をゆがめてそう言った。
浅黒い肌、赤い眼に黒い髪。
10年前と変わらない残忍な眼差しを、ナギは表情を変えずに受け止める。
男の手には、ナギの姿そのものの傀儡があった。
「後ろのは、アニサカの娘かな。相変わらず、水の刃か。芸のないことだ」
ナギの右後ろには、空気を混ぜ込み白濁させた水の球体を周りにめぐらせたベスがいる。傀儡を作らせないためには、相手に姿を見せてはならない。
『私が奴に姿を捉えられたのは、3秒ほどのことだ。3秒、奴の網膜に像を結んでしまえば、傀儡を作られる』
ベスは、ナギの言葉を反芻する。
この場で自分の技を使えるのは、彼女しかいない。
「坊、10年も逃げ回るとはご苦労なことだ。その末に、わざわざ私の住処までお出向きいただくとは。何をしに来られたのかな。……お前には何もできまいに」
男の手の中のナギの傀儡が、男の高笑いとともに揺れている。
「たった二人か。ユシュツカもアニサカも、堕ちたものだな」
無言で、ナギは右手の指をかすかに動かす。その瞬間、男の首に朱が飛んだ。
「……!」
さすがに男の表情が動き、傾けた首から流れ出る血に手を触れる。
(はずした)
ナギは唇をかむ。
「さすがに、ユシュツカの坊は丸腰ではないか」
男の頬がもう一度歪む。
「形代か」
(見抜かれた)
*
「代人術」は、ユシュツカ家の秘伝、口伝の術である。術者は他人や物、精霊に置き換わりその者の術および魔力を使用することができる。
ただし、術者にも置き換わられた対象者にも、相応の危険が伴う。取って代わられた者は、廃人になることもままある。また術者も、相手から抜け出せなくなる、あるいは、異常な精神高揚から術の抑えが効かなくなり、仲間により打ち取られた事例もあったとされる。
ナギが人生でこの術を使ったのは、これまで一度だけ、リアの身体で怨霊と戦った夜のみだった。
(自分の魔力を使わず、有効な技を出すにはこれしかない)
ナギは早い段階から、代人術による形代での戦闘を決めていた。
傀儡を取られているナギは、自分の魔力を使えないだけではなく、傀儡の王に発動しようとする魔術は、全く同じ魔術で傀儡に相殺されてしまう。ナギからではなく、形代から術が出る形を取れば、相殺を防げるのではと考えていた。その考察は的を得ていたが、出会い頭を狙って放った一撃必殺の技は、命中することはなかった。
(奴の純粋な魔術師としての腕も、上がっている)
この10年、傀儡の王の魔力は減るどころか大きく増していた。スピード、そしておそらく技の威力も、想定よりも高いであろうと考えざるを得ない。
1年近くをかけ相応の魔力を封じた形代を作ったが、十分と思えたものは、4枚のみ。
(あと、3枚。すでに手の内の見破られている術で、奴に傷を負わせられるか)
ナギは息を整えながら目を眇める。
*
ふいに空気が動き、ナギの右側から銀色の光がほとばしった。無数の水の針が傀儡の王に殺到する。その間を切り裂くように、渦巻く水流が突っ込んでいく。
「チイッ」
傀儡の王が一歩飛びのく。その足元に、岩の槍が突き上げる。
「小娘が」
水球の中から、膝蹴りと拳が男の手元の傀儡を狙う。男の手元から黒い糸が張り、わずかにかすめた水の塊はナギの隣へ飛び戻る。
「ベス、焦るな」
微かに、血の匂いがする。ベスがあの糸でどこかを切り裂かれている。毒消しの魔術は十分に施してあるはずだが、ナギは唇をかむ。
「大丈夫、かすっただけです」
彼女の息は乱れていない。
水球が動き、細かな水しぶきとなり領域全体へ拡散する。ふいにそのしぶきに炎がまとわりつき、高温の霧となり男を襲う。
男の身体から、黒い帯が水球へと延びる。からめとられる直前に不意に崩れたその中に人影はなく、男の足元をすくう足蹴りが襲う。
そのまま回し蹴りは男の脇腹を捕える、直前に男の姿は掻き消える。
ナギは目を閉じ男の気配を負う。
霧を切り裂き、形代が男の左腕をざくりと切る。
しかしその手元を見た時ナギは凍り付いた。
男の右手には、二つ目の傀儡が握られていた。それは、ベスの姿をしていた。
『ベス、止まれ』
すかさず形代から念を送る。霧の中のどこかで、ベスが気配を殺している。
(……終わりだ)
ベスの攻撃は、ナギにもはっきりと姿が捉えられない見事なものだった。しかし、傀儡の王は彼女の姿を正確に見て取り傀儡を作ったのだ。
(技のスピード、精度が格段に違う。彼女の傀儡を握られた以上、手は尽きた)
3枚目の形代をくわえながら、ナギは胸元に手をかける。そこにある最後の形代には、初めから術が仕込んである。
それは、ベスを領域外へ送り出す転移魔術だった。
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