別れの日

「……はあ」


 危うく鍋を焦がしそうになり、リアはため息をついた。

 ナギから、魔術師学校行きを勧められて一週間になる。灰色の目の魔術師は、朝に夕にリアを説き伏せようとしてくるが、リアは心を決めかねていた。

 どうしても、自分が魔術師に向いているとは思えない。

 初めてナギが術を使うところを見たとき、かっこいい、と思った。顔色の悪いこの青年の、元気に働けるお手伝いが出来たらうれしいと、心から思った。でも。

 リアは切りかけの野菜を眺めて思う。

 私は、自分で魔術が使いたいとは、思えない。お料理のほうがよほど好きだ。自分が作ったおいしいものを食べて笑顔になる人を見ると、幸せになる。

 あんな風に。リアは、初めの日に見たナギの厳しい横顔を思い出す。あんな風に、自分が戦えるとは思えない。

 窓の外の、秋の暮れかかった夕焼けを眺める。その時、足元の黒犬が立ち上がる気配がした。




 ふいに店の扉があき、振り向いた瞬間、紫の光が見えた。

 人形についた精霊落としに没頭していたナギは、それに意識の焦点が合うまで一瞬の間があいた。ザシュ、とかまいたちが右腕をかすめる。


「野郎」


 金属音に目をやると、カイトが抜刀し紫の塊に躍りかかっていくのが見え、ふいに意識が完全に引き戻される。


「カイトやめろ!!」


 床に倒れこみながら印を切る。怨霊だ。刀など、効くはずがない。


「ぐっ」


 ナギの防衛の炎がカイトの眼前に展開するが、そこから外れた彼の四肢を怨霊の放ったかまいたちが切り裂く。そのまま襲ってくる黒い疾風が、スローモーションでナギの眼前に迫る。


られた)


 いっそ冷静にナギが思った瞬間、すさまじい閃光に視界が奪われる。


(誰だ……)


 ナギは、自分の前に立ちふさがる人影を見上げて唖然とする。

 そこには、鍋の蓋とお玉を両手に持ったリアが仁王立ちしていた。その脚は、ぶるぶると震えている。


(……どういうことだ?!なぜ生きていられる)


 視線をめぐらすと、リアの足元に完全に戦闘態勢の黒い犬の姿が見える。その周りには、ぶすぶすと黒い煙が立ち昇っている。


(なるほど)


 彼女の式獣、雷獣と炎獣だ。それにしても、契約を結んだとは言え無意識のはず。全く操作されていない式獣は、自主的に彼女を守ったことになる。


(やはり、規格外だ)




 その時、紫の口がかっと開いた。


(しまった――)


 間に合わない。リアに向けて手を伸ばしたナギは、目にした光景に凍り付く。

 リアを抱き込み、カイトが背中に怨霊の噴き出した粘液を浴びている。


(なんてことだ。入り込まれる)


 もともと憑依体質のカイトだ。傷から入った粘液に、カイトの身体が支配される。

 リアを突き飛ばして転がりながら、カイトが野獣のような唸り声をあげる。怨霊が恐ろしいスピードで、彼の身体に潜り込んでいく。


「許せ」


 瞬間、ナギは全力の炎を放った。カイトとリアの間に炎の障壁が展開し、カイトを包み込む。しかし、それはものの数秒で霧散した。

 ナギは、自分が放った炎を見て愕然とする。


(……ここまで呪いが進んでいるとは)


 魔力不足だけではない。明らかに、魔法を構成する力自体が落ちている。


(……できればしたくなかったが)





 カイトがふらりと立ち上がり、けだもののような声を上げながら襲ってくる。リアは覚悟を決めて目を閉じた。


「リア、すまない、貸してくれ」


 ふいに背後からナギの声がする。肩に手をかけられると同時にぐらりと視界が歪み、リアは息をのむ。


「炎よ出でよ」


 自分の声が何かを唱えだすのを聞く。全く、体が、動かせない。

 周囲を、炎の球が取り囲む。ふいに手が動くと自分の両指が見慣れない図形を描き、リアはぎょっとする。


いかずちよ、恨妖を討て」 勝手に紡がれる言葉。


 瞬間、黒い犬が空間を割り飛び出してくる。それは、目にも止まらない速さでカイトの身体へ食いつく。カイトの身体は大きくのけぞり、口から紫色の粘液がこぼれる。カイトの身体から離れた紫のかたまりを、すかさず黒犬が食いちぎる。


(耐えろよ) 頭のなかで声がする。


「炎よ、焼き尽くせ」


 カイトの身体が炎に包まれる。次の瞬間、黒い犬の身体ごと、紫の塊は霧散する。

 カイトの絶叫が響く。彼の表情は苦悶に歪み、身体をねじってもがいている。


(成った)


 ふいに炎が消える。横たわったカイトは数回痙攣し、そのまま静かに目を閉じる。


「すまなかった」


 ふいに身体が自由になり、リアは眼を瞬く。

 ぼんやりと、銀髪碧眼の姿のナギが、カイトに駆け寄るのが見えた。




「……おまえ、だいじょぶか」


 うっすらと目を開いたカイトの言葉に、ナギは唇をかむ。


「……っ。人の心配している場合じゃ、ないだろう」

「いや、俺は、頑丈だし。お前、擦り傷で、死んじゃうだろ」

「無駄口をたたくな、黙ってろ」


 カイトの傷口に毒消しの魔力を注ぎ込みながら、ナギは歯を食いしばる。


(店の結界が、何の反動もなく、破られた)

(この二人を巻き込むのは、もう、限界だ)



「リア。申し訳なかった。人に身体を使われるのは、気分が悪かっただろう」


 王宮から駆けつけてきた馬車で、カイトが医務所に運ばれた後、ナギはぼうっと座っていたリアに声をかける。ナギの言葉に、まだふわふわしながらリアは答える。


「いえ……。でも、ナギさんやっぱり、すごいですね!あの魔法……」

「あれは、君の魔獣だ」


 意外な言葉に、リアは絶句する。


「君の、炎と雷の魔獣だよ。同じ炎でも、使い手によってその能力は様々に変化する。君の浄化の炎は、私が使うとあの程度だが、君が習熟すれば、よほど洗練されたものになるだろう」


 ナギの瑠璃色の瞳がリアを見据える。


「……分かっただろう。君は、君の力を人々のために使うべきだ」


 その厳しいまなざしに、リアは言葉を出せずにうつむいた。



 翌日、「閉店します」という張り紙ひとつで、質屋兼魔法よろず相談所の店主は店から姿を消した。

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