笑う犬(2)

「どうしましょう。いったい何が起こったのでしょうか」


 裕福な商人である依頼主の屋敷で、少年の寝室に立ちナギは部屋を見まわした。この家の主人である少年の父親も、昨日店を訪れた母親も、ナギを縋りつかんばかりに見つめている。



 特に、悪い気配は残っていない。空のベッドに手を当てる。


(やはりか)


 立ち上がり、ナギは振り向いた。


「リア、絵を出してくれ」


 リアが差し出した絵に右手をかざし、低く何事かをつぶやく。瞬間、絵の中から、黒い犬が湧き出してくる。


「……!!」


ナギ以外全員、驚きで固まり言葉も出ない。ナギは、おすわりをし彼を見上げる黒犬の頭に手を当て、短く告げる。


「お前の主人のもとへ、連れて行け」


 途端に、一散に犬が走り出す。あわてて追いかけるが、人間の足で追いつけるはずもない。


「……急がなくていい」


 ナギの声に目をやると、黒犬は人が追いつくのを待つように、立ち止まり振り向いて尾を振っている。全員が、犬の走る方向へと再び走り出す。




 犬が案内した町はずれの空き家の中に、少年はうずくまっていた。その頬は冷たく泣きぬれ、顔色は真っ青だ。明らかに衰弱した様子に、リアの胸がざわつく。


「ジル、一体どうしたの」


 母親が彼を抱きしめるが、ぼんやりとした瞳でつぶやき続ける。


「僕のせいだ……」




「あの絵の犬は、君のかい」


 魔術師の静かな声に、ジルの目が見開かれる。


「そうだよ、僕の犬だ。僕のシャーリー。やっと、やっと、会えたんだ」


 少年の茶色い瞳に、涙があふれる。


「それなのに、どこにも、いないんだ。僕が、僕が、……殺してしまった」


 体を震わせて泣き続ける。


「死んではいないよ。母犬のもとに、戻ったのさ」


 魔術師の言葉に、少年の目が見開かれる。


「嘘ではないよ。魔術師は、魔術で見たものの嘘はつけない」


 少年の頭に手を置き、静かな声で魔術師はつぶやく。


「シャーリーがどこにいるか、見てごらん」


 少年の瞳がゆっくり閉じられる。そのまま少年は、安らかな寝息を立て始めた。



 黒い犬の絵は、少年が5歳の誕生日に祖父がプレゼントしたものだという。

 小さいころから犬を欲しがっていたが、食べ物を扱う商家では、犬を飼うことはできない。代わりに与えられた黒い犬の絵を、少年は飽きずに眺めていた。

 ひと月前、少年は本物の黒い子犬に出会った。あきらめきれず、町はずれの空き家に連れて行き、こっそりと世話をしていたのだ。


「10日前、三日麻疹にかかり、ジルはあの場所に行けなくなりました」


 ナギの淡々とした声は続く。


「子犬を5日も放っておけば、どうなるかは子供でも想像がつく。ジルは、自分を責めて『罪びとの呪い』を受けたのです」

「……でも、どうして子犬のことを、母さんたちに言わなかったの」


 ベッドの中のジルは、小さく縮こまっている。


「ジル」


 ナギの声は変わらず静かだ。


「……シャーリーは、盗んできたんだろう」


 びくりとジルの肩が震えた。



 ジルの同級生の家に、子犬が産まれた。初めて触らせてもらったとき、ジルは天にも昇る気持ちだった。テラスで遊んでいるとき、黒い子犬はいつまでもジルの後をついてきた。離れたくない、というように。いけないことだ、と分かっていた。それでも、ジルは、自分のかばんにその子犬を押し込んだ。



「ほとんどの呪いは、自身が自身にかけるものです」


 黒い犬の絵を主人に返しながら魔術師は言う。


「自分の罪悪感、怒り、願望。そうしたものが、自分の身体や心を縛るのです」


 少年の心は、罪悪感でがんじがらめになっていたのだった。


 子犬は、あちこち探し回り張り紙をしていた飼い主の元に、鳴き声に気づいた近所の人から知らせが入り、無事に元の家に戻っていた。


 絵の中の黒い犬は、呪いを受けた少年の救い手を求めてあの夜から姿を現したのだろうか。リアが考えていると、突然、ナギが以前にも聞いたことのある声音で屋敷の主に迫り始めた。


「ところで、……お代は、いただかなくても構わない。あの犬を、私にいただきたい」


 指さす先には、先ほど呼び出した絵の中の黒犬の姿がある。


「あの犬はここにいても、誰の役にも立てはしない」


 さすがに、ジルが承知しないのではないかしら。リアははらはらと店主を眺める。

 とにかく、お手伝いが欲しい。人手不足の質屋の店主は真剣そのものだ。



「お兄ちゃんにあげるよ」


 ベッドの中から、少年の声がした。


「シャーリーが、行きたいって。シャーリーは、誰かのために働くのが、大好きなんだ」


 少年の目は黒犬を見つめている。彼の目に映るその姿は、次第にぼやけ始めている。


「もうきっと、僕にはシャーリーは、見えなくなる。でも、時々……遊びに連れて来てくれる?」


 涙をこらえた少年の言葉に、魔術師は微笑む。


「もちろんだ」



こうして、街角の質屋兼魔法よろず相談所には、賢い用心棒がやってきた。


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