笑う犬(1)
リアが初めて夕飯を作った日、具沢山のスープを一口すすり、ナギは軽く目を見開いた。
しばらく固まるその様子に、キッチンから様子を見ていたリアは心配になる。
「お口に、合いませんか」
「……いや」
そのまま、黙々と食べ進める姿に、ほっとする。ほとんど無言で一皿スープを平らげ、灰色の双眸を巡らせて店主は言う。
「お嬢さん、あなたは料理の才能がありますね」
「才能、というほどでは……」
リアは気恥ずかしくなる。家政婦学校で多少の知識は学んだが、リアの料理は基本、家で母の手伝いをして自然と身についたものだ。
「香辛料の使い方は、少し自信がありますが」
母はスパイスを多用する東の国の出身だった。
「店長、体温が低そうだったので、ショウガを多めに使いました」
「……ショウガ、ですか」
ナギは軽くうなずく。
数日汚部屋掃除をして分かったのだが、この店主は基本料理をしない。精霊が身の回りの世話をしていた時はどうだかわからないが、最近はパンとミルクで生きていたようだ。何でもおいしく感じるはずである。
「……」
わきわき、と右手を動かし、ナギは首をかしげる。ふと手をかざすと、カウンターにあった壺がするりと浮かぶ。突然のことに、リアはぎょっとする。
「……栄養不良も、あったのか」
独り言。ごとり、と壺が元の位置に戻り、灰色の双眸がリアを見つめる。
「お嬢さん、あなたの料理は、魔石に匹敵する」
よくわからないことを言われ、リアは首をかしげる。
「食事の前に落ちていた力が、一皿で戻っている」
それは、お腹が空けば、力は出ないと思うけれど。リアはきょとんとする。この人、そんなこともわからないのだろうか。
数日付き合って気づいたが、この店主はだいぶ、浮世離れしている。夕食の片づけを終えて自宅に帰り、朝に店に顔を出して、前日と全く同じ姿勢で本を読んでいる姿を見た時には、驚きで声も出なかった。放っておいたら、倒れるまで本を読み続けそうだ。
物の才のある方は、変わっている人が多いというけれど。リアはため息をつく。
この日、ナギは、3杯スープをおかわりした。
*
その日は朝から、冷たい雨が降っていた。
「絵、ですか……」
濡れた外套を脱いだ客がカウンターに置いたのは、本くらいの大きさの小さな箱だった。
栗色の巻き毛をきれいにまとめた、身なりの良い夫人は、深く息を吐く。
「私どもでは、どうしようもなくて」
開いてみると、そこには犬の絵があった。黒い大きな犬が座ってこちらを見ている。
この絵の犬が笑う、と、夫人の息子に当たる少年が言いだしたのが、先週のことだという。言い出した夜から少年は高熱を出し、もう10日も続いている。はじめの3日は三日ばしかの症状だったが、そこから熱は下がらず、どんどん衰弱していっているという。
「近くの占い婆に見てもらったところ、こちらを紹介されまして……」
よほど思い詰めているのだろう。この天気の中、絵を抱えてきた夫人にリアは同情する。
「事情は承りました。ただ……いま、店主は留守でして」
王宮へ行く、とだけ言い残して、ナギは今朝早く家を出て行った。たぶん、一日帰らないだろう。雨の中抱えてきた絵を突き返すわけにもいかず、いったん預かることにする。
日暮れから少し経った頃に店へ戻ってきたナギは、話を聞いて眉をひそめた。
預かった絵の上に軽く右手を当て、しばらく考え込む。
「……お嬢さん、今日はお帰りになっていただいて、構いませんよ」
いつもの淡々とした口調で、店主は告げる。
*
ランプの明かりの下、ナギは犬の絵を眺めていた。もちろん、犬が笑う様子はない。
(捨て置くか)
顎に手を当て考える。
(……しかし、子供に症状が出ているとなると)
絵に残る気配はほんの微かで、ナギの中にはぼんやりとした像しか結ばない。
(……力が足りない)
唇をかむ。今日は昼間に力を使いすぎた。
ため息をつき、寝室へ向かおうと立ち上がると、台所のテーブルに何かを見つける。
ガラスの小瓶に、白い小さな焼き菓子が詰められていた。『お夜食にどうぞ』少女らしい幼くかわいらしい文字。
ふたを開けつまんでみると、驚くほど軽い。一つ口に入れ、知らずに微笑む。
(おいしい)
ふ、と胸の奥が温かくなる。それはゆっくりと体中に広がり、彼の冷え切った右掌は熱を取り戻す。
(力が、戻っている)
やはり、気のせいではない。右手を見つめながら軽く動かし、ナギは考える顔になる。
*
翌朝、犬の絵の件の依頼主の家へ行く、と突然店主に言われ、リアが言付けのお使いに出ようとしていた時、慌てた様子で従者らしき若者が飛び込んできた。
「大変です、若様が、……いなくなりました」
昨日の依頼主の家の従者だ。今朝、女中が少年のベッドを確認すると、跡形もなく消えていたという。ナギの眉根が寄せられる。
「……そんなはずはない」
つぶやきながら、従者が駆ってきた馬車に乗り込む。
「リア。絵を持って、ついておいで」
リアも慌てて馬車に飛び乗る。馬車の中から、店主が右手をかざし質屋の扉にカギをかける。馬車は朝もやの町中を一散に駆けた。
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