第7話
少年は、マヨリ宛に書き置きを残し、タカミのマンションに移動しようと提案した。
タカミも妹の友人だった女の子たちならば、喜んで同居人として迎えてくれるだろう。
しかし、リンは首を大きく横に振った。
「わたしね、変なの。昨日から雨が怖いの」
この雨の中、何十分も歩いてそのマンションまで行くのは無理かな、とリンは悲しそうに笑った。
道路の水たまりもこわいのだという。
「ごめんね、せっかく誘ってくれたのに。
本当は行きたいの。あなたとも、あの子のお兄さんとももっとお話したいし」
だが、どうしても無理なのだという。
「この街は雨が止まないから、わたし、ここでマヨリを待ってる」
少年は、リンの意思を尊重することにした。
そうせざるを得なかった。
野犬にかまれたこと、雨がこわいという彼女の言葉から、少年は気づいてしまったからだ。
彼女はおそらく狂犬病に感染している。
水に恐怖心を抱くというのは、狂犬病の症状のひとつだった。
リンにこれから待っているのは、精神の錯乱だ。
ガソリンが残っている車を探したりなどして、タカミのマンションに連れていけば、タカミや自分が噛みつかれ、狂犬病に感染する可能性があった。
それに彼女はもう、長くは生きられない。
医療機関が機能していない今となっては、ワクチンを手に入れることはもはや不可能だ。
生きていくには必須の水を飲むことすら恐怖となった彼女は、数日のうちに脱水症状を起こして死ぬだろう。
少年はリンの安全のためにと伝えて、無理矢理こじ開けられていたシャッターを半分ほど下ろした。
本当は全部下ろし、彼女を隔離すべきだったが、無理矢理こじ開けられたシャッターは、半分しか下ろすことができなかった。
少年にはリンを見捨てることしかできなかったが、この数日間そんな彼女のことがずっと気がかりだった。
マヨリは帰ってきただろうか。
また暴徒に襲われたりしていないだろうか。
リンがマヨリを待つ薬局に少年が足を運ぶと、シャッターがまたこじ開けられていた。
そこには裸にされたリンが頭から血を流して転がっており、一目で強姦され殺されたのだとわかった。
リンの死体は片腕が切り取られており、
「なんだ、お前?」
暴徒の男がその腕を食らっていた。
その姿はおぞましく、もはや同じ人間とは思えなかった。
いや、人であることをやめたのが暴徒なのだ。
「お前も食いたいのか?」
と、尋ねてきた暴徒に、
(そんなにうまいのか?)
少年は、言葉にならない声で男に尋ねた。
「あぁ? 何言ってんのかわかんねーよ。お前、頭いっちゃてんのか?」
暴徒が立ち上がった瞬間、少年は素早く拳銃を取り出すと、その四肢を次々に撃ち抜いた。
壊れたおもちゃのように、暴徒にその場に崩れ落ちた。
「いってぇ!! てめえ、何しやがる!!」
出血多量になるような急所は外したが、もう歩くことはもちろん、這って動くことすらできないだろう。
「食う気か? 俺を食う気なのか!?」
先ほどまで自分の方が立場が上だと思っていた暴徒は、途端に命乞いを始めた。
普段なら一発で頭を仕留める少年が四肢を撃ち抜いたのにはちゃんと意味があった。
暴徒を薬局から引きずりだし、雨水の水溜まりの中に放り投げた。
降り止むことのない雨が、身動きのとれない暴徒の全身をあっという間に濡らした。
リンを強姦し、その肉を食らったこの男は、十中八九狂犬病ウィルスに感染している。
狂犬病ウィルスは数日で脳に侵入し発病するだろう。
狂犬病は風邪などと違いウィルスが神経を伝い脳に向かうため、血液中の白血球などの人体の免疫システムでは発病を逃れることはできない。
ワクチンしか、その病から逃れるすべはない。
「なんだよ、お前!一体何がしたいんだよ!!」
少年は、リンの死体と切り取られかじられた腕を抱きかかえて、その場を後にしようとした。
「ハハッ!
俺なんかより、そのメスガキの方がいいってか!!
悪いな、俺が先に食っちまってよ!!!
最高だったぜ、そのガキの体はよぉ!!!!」
少年は暴徒を見下ろし、
(水に怯えながら死んでいけ)
声にならない声で、そう吐き捨てた。
マヨリを探そう。
必ず見つけて、一緒にリンを弔ってあげなくちゃ。
だが、マヨリももう生きてはいないだろう。
だとしても、ふたりがずっと一緒にいられるようにしてあげなきゃ。
少年はそう思いながら、夜の雨の中を歩いていった。
山汐リンの遺体は、雨野市を大きく囲う堤防沿いにある藤公園に埋葬した。
この藤公園には、子どもの頃一度家族で来たことがあり、真上から垂れ下がる藤の花がとてもきれいだったのを覚えていた。
だからこの場所にしたのだが、花はみんな枯れ果ててしまっていた。
誰も面倒を見る人がいなくなってしまったからだろうか。それとも雨が降りすぎてしまったせいだろうか。
こんな場所でも、暴徒に殺された多くの人々のように野ざらしにされるよりはいいだろうと少年は思った。
血や暴徒の体液で汚れたリンの顔や身体を雨で洗い、髪は手ぐしでといた。千切られた腕は、ガムテープを巻いてくっつけた。
エンバーミングのように元通りとはいかなかったし、死装束も用意することはできなかったが、精一杯生前の彼女に近づける努力はした。
スコップを探し、雨ですっかり柔らかくなった地面を少年は明け方まで掘り続けた。
その途中、翡翠色の淡い光がいくつも水溜まりから浮かび上がるのを見た。
蛍か?と思ったが、どうやらそうではないらしく、目で追いかけているうちに光は空気に溶けるように消えてしまった。
淡い光を放つ何かを見かけるようになったのは、彼の恋人がこの街で死に、一年中雨が降り続けるようになってからのことだった。だから少年は真夜中に街灯ひとつついていない街を出歩くことができた。
普段真夜中に街に出るときは、2、3時間で帰宅する。その日のように明け方まで街に出ることは稀だった。
リンの死体を埋め終わる頃には、もう朝になっていた。
マヨリのことが気になったが、早く帰らなければタカミが心配する。
少年は駆け足でマンションに戻ることにした。
返璧マヨリ(たまがえし まより)が、山汐リンが待つ駅前商店街の小さな薬局に戻ったのは、その数時間後のことだった。
彼女はリンのためにひとりで都市部を目指し、闇市で消毒液や鎮痛剤を手に入れて無事戻ってきた。
ただでさえ土地勘のない場所を暴徒から逃げ回りながらであったため、道に迷ってしまい、往復で数日もかかってしまった。
薬局の中で待っているはずのリンの姿はどこにもなかった。
薄暗い店内とはいえ、小学生のように小さな体のリンを見つけられないわけがなかった。
リンがいないかわりに(?)、店の前には腕や脚を拳銃で撃ち抜かれた半裸の男が、降り続ける雨に向かって何かをわめき散らしているだけだった。それにはひどく驚かされた。
半裸の男は支離滅裂な言葉を口にしており、ほとんど意味がわからなかったが、「雨合羽の男にやられた」という言葉だけはわかった。
雨合羽の男とは、雨野市で3年ほど前から都市伝説のように語られるようになった、食糧を手に入れるため人を狩る暴徒たちを狩る、この街の救世主のような存在だった。
真夜中にだけ現れるため、その顔を見た者はおらず、声を聞いた者もいないという。
わかっているのは、雨合羽を着ていることと、拳銃やサバイバルナイフで暴徒の命を一瞬で奪うということだけだ。
その年齢も、男かどうかさえ誰も知らなかった。
雨合羽の男にやられたということは、この半裸の男は暴徒だったということだろう。
こんなどこにでもいる普通の人が、とマヨリは思った。
子どもの頃に兄と観た、核戦争後の前世紀末を舞台にしたアニメでは、暴徒というものはモヒカン頭やトゲトゲのついたおかしな格好をしており、一目で悪者だとわかったが、現実の暴徒はそうでない人間と一目では区別がつかないのが厄介だった。
だが、この男が暴徒であるなら、なぜまだ生きているのだろうか。
雨合羽の男は暴徒の命を一瞬で確実に仕留めるのではなかったか。
なぜ四肢を撃ち抜くだけで、命を奪わずに野ざらしにしたのだろうか。
雨合羽の男を模倣する者が現れた?
けれど、拳銃で撃ち抜かれた四肢を見る限り、男は歩くどころか身動きひとつ取れないように見えた。それだけ人体を知り尽くしており、正確な射撃が可能なのは、雨合羽の男だからこそ出来たのではないだろうか。
この男はリンを襲おうとしていた?
そこにたまたま通りがかった雨合羽の男に、逆に襲われた?
だとしたら、この男はあえて雨の中野ざらしにされたということだ。
それには何か意味があるのだろう。
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