第8話

 リンが雨合羽の男に助けられたのなら、自分宛に何らかの書き置きを残しているはずだった。

 暴徒から慌てて逃げたのだとしたら、書き置きを残す時間がなかったのかもしれないが、マヨリは書き置きがないか探すことにした。


 そして彼女は、薄暗い店内に赤い血の塊があるのを見つけた。

 医療の専門的知識などなかったが、広範囲に広がった血の量から、ただの怪我などではなく、殺意を持って殴られたか刺されたかしたものだとわかった。

 四肢を撃ち抜かれた暴徒のものかとも思ったが、失血死していてもおかしくない量であったため、違うと思った。


 嫌な予感がした。嫌な予感しかしなかった。


 血の塊の中に、抜け落ちた長い髪を見つけたとき、マヨリの顔は青ざめた。


 リンはきっと、この世界のどこにもいない。


 親友を失うのは二度目のことだった。

 14歳のとき、クラスメイトでとても仲のよかった女の子が、ある日突然世界から命を狙われるようになった。

 あの時以来だ。


 家族とは暴徒から逃げる途中に生き別れになり、この三年あまり、同じ境遇のリンと支えあって生きてきた。

 彼女だけがマヨリの心の支えだった。


「あんた、リンをどうしたの?」


 雨の中野ざらしにされている男を見下ろして、マヨリは尋ねた。

 この男がリンを殺したに違いなかった。

 この男の四肢を撃ち抜いたのは、雨合羽の男だろう。


「リンはどこ? 言いなさい」


 マヨリはこの男には仲間がおり、その仲間がリンの死体を持ち去ったのだと思った。

 まさか雨合羽の男が、彼女もよく知る人物であり、リンを弔ってくれているとは夢にも思わなかったのだ。


 マヨリの手にはバールが握られていた。そのバールは、リンが流した血の塊のそばにあったものだった。

 先端には男がリンの頭を殴った際についた血がこびりついていた。


 マヨリは両手で握ったバールを大きく振りかぶり、男に向かってまっすぐ振り下ろした。

 顔に大きな穴を空けてやるつもりだった。

 一撃では殺さない。

 リンの何倍もの苦しみを与えてから殺そうと思った。


 しかし、バールはわずかに男の顔をそれてしまった。

 硬いアスファルトに思いっきり振り下ろした反動で、マヨリの体は大きくよろけ、男の体の上に倒れ込んでしまった。


 倒れた瞬間、手から離れてしまったバールを何とか手繰り寄せようとしたが、わずかに届かなかった。


 その瞬間、身動きの取れない男は、マヨリの脚に噛みついた。


「痛っ!何するのよ!放して!放しなさい!」


 男は何度も彼女の脚に噛みつき、その必死の抵抗は肉を持っていかれるほどだった。


 悲鳴を上げて大きく仰け反った瞬間、ようやく男の口がマヨリの脚から離れた。彼女の手もまたバールに届いた。


「殺してやる……絶対に殺してやる……」


 肉を噛み千切られながらもマヨリは起き上がり、再びバールを大きく振りかぶった。振り下ろされたバールは、今度こそ男の顔を叩き潰した。


「あんたが……リンを殺したから……いけないのよ……」


 マヨリの脚にそれまで以上の激痛が走った。

 それは立ってはいられないほどのもので、意識を失うほどのものだった。




 少年が狂犬病を発病したマヨリを目にしたのは、その数日後のことだった。


 一体何が起きたのかわからなかった。


 だが、狂犬病に感染したであろう暴徒を生かしたままにした自分のせいだということだけはわかった。



 リンとマヨリの遺体は、堤防沿いの藤公園に眠っている。

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