僕の過去

1000年くらい前の話だ。

僕は奴隷だった。

世の中は覇道を極めた力ある国が弱小国を取り込み、強大化した国同士でにらみ合いが続いていた。

列強国は己の国力を誇示するため、軍を強化し新たに都市を造った。

軍を組織するには武器が、都市を築くには建材が必要なように、見栄を張るにも金が要る。

列強国は配下に置いた弱小国から、金を絞り取れるだけ絞り取った。

そして運悪く僕は弱小国に生まれてしまった。

学び舎を営む学者のもとに。

物心ついたころには僕は年上の生徒にまじって、父の教える授業に参加していた。

父の教える授業は毎回驚きと発見に満ち、僕は経済の仕組みや政治、医術、さらには国の歴史まで、この国で生きていくには有り余る知識を大地に雨がしみこむように吸収した。

村の人が僕のことを神童と呼ぶのにそう時間はかからなかった。

しかし悲劇というものは前触れもなく突然、死神が気まぐれでおのが鎌を振り落とすがごとく、唐突に訪れるものだ。

列強国の搾取に耐えられなかった農民が賊となり、父の営む学び舎を急襲したのだ。

その日学び舎は休みで、父は母をともなって都で開かれる学者の会議に出席していた。

学び舎の留守は僕一人。

賊は抵抗する僕を縛り上げ、歴史的価値のある書物をずた袋に荒々しく放り込んだ。

父が大切に保管していた蔵書が、バサバサと音を立ててずた袋の中に納まってゆく。

歴史に埋もれてしまった真実が、歴代の偉人が積み上げてきた叡知の結晶が、指の間からさらさらと流れ落ちる砂粒のように崩れ去っていくような恐怖に僕は襲われた。

「やめろ!貴重な文献を乱雑に扱うな!」

僕は床にみじめな姿で転がった状態で、声を張り上げた。

「うるせえなあ、引っ込んでろ!」

賊の一人が僕に向かって怒鳴りつけた。

飢えに苦しむ猛犬のような血走った賊の目が僕をにらみつける。

その目は獰猛な狂気をはらんでいた。

彼らも必死なのだ。

明日になったら死んでいるかもしれない、そんな不確かで不平等な世界で生きていくには、無様な姿をさらしてでも、非道なおこないで他者を傷つけようとも、生きていかねばならない。

でも、これはないだろう。

これは、あんまりだろ…。

僕がもう一度声をあげようとしたそのとき、僕の顔面に強烈な衝撃が走った。

頭が真っ白になる。

そして僕は顔面を思いっきり蹴られたのだと遅れて理解した。

意識が急激に狭まってゆく。

意識を手放す間際、賊の冷たい酷薄な眼光がちらりと映った。

そうして僕は真っ暗な闇へと強制的に引きずり込まれた。


僕が目を覚ますと粗末な檻の中にいた。

檻の中を見渡してみると、僕と同じくらいの年かさの少年たちがおびえた表情をして足を抱え込んで座り込んでいる。

まるでこれから訪れる未来に心底おびえているような姿だった。

どうやら賊は僕を奴隷として売り飛ばしたようだ。

ほどなくして僕は手枷をはめられ、奴隷を閉じ込める檻のついた馬車に無理やり乗せられた。

まるで人を人とも思っていないような非情な扱い。

もう自分は将来有望な学徒ではなく落ちぶれた奴隷なのだと、まざまざと思い知らされる。

馬車の中はひどいありさまだった。

馬車の中に収まる奴隷の数が多すぎたため座ることすらできず、水さえろくに与えられないという状況。

さらに檻の中にトイレなどというものはなく、瞬く間に収容された奴隷の糞尿で檻の中は悪臭で満たされてた。

最初こそ扉をたたいたり、鉄格子を蹴りつけたりして脱出を試みていた奴隷たちだったが、一日もすると餓えと渇きに襲われ、そんなことをする者は誰もいなくなった。

みんな“諦念”という悪魔に取りつかれてしまったようだ。

朦朧とする頭の中で僕はぼんやりと思う。

この馬車が目的地に到着するまで、あと何日かかるのだろうか。

それまで生きていられるだろうか。

それとも…。

暗闇に似た絶念の思いに僕の頭の中は徐々に塗りつぶされていく。

奴隷たちは数少ない水分を少しずつ分け合いながら、狭い檻の中で生きのびた。

飢えと渇き、恐怖と絶望で心身ともに摩耗しきった5日目。

やっと馬車は目的の場所に到着した。

僕と同じ場所で馬車に乗せられた同い年の奴隷は、もう息をしていなかった。


僕が連れてこられたのは人里離れた鉱山だった。

つるはしを持たされ体が動かなくなるまで採掘を繰り返す。

つるはしをふるうたびに僕の体はぐらりとよろめいた。

腕に力が入らない。

足は鉛でも引きずっているのではないかと思うほど、疲労でがくがく震える。

休むことは許されない。

少しでも手を止めると、鉱山の監督官が奴隷たちを激しくムチで打ちすえるからだ。

身に着ける衣服はボロボロ。

長年の薄汚い奴隷生活で溜った垢は皮膚に染み付き、異様な臭気を発している。

食事はとても食えたものではなく、腐りかけた野菜を煮たものやカビの生えたチーズなんかがいいかげんに配られ、日々の労働で疲れ切った僕はうつろな表情でそれらを口にした。

最初こそ犬のエサのようなひどい食事に涙を流し、嗚咽を繰り返しながらやっとのことで嚥下していた僕だったが、この食事を食べなければこの地獄を生き抜くことができないのだと体のほうが危機感を感じたらしく、いつしか味覚を感じなくなった。

そして味覚が失われていくのと同じくして、諦めや失望、倦怠といった腐臭の漂う濁った泥水のような色に僕の心は染まっていった。

もはや天才と称された神童の面影はどこにもない。


僕が鉱山で奴隷として働くようになってから3年が経った。

このころの僕は、自分が思考を持った人間であることや、吸って吐いてを続けながら生きていることなんてもうどうでもいいことで、先の見えない真っ暗なトンネルを永遠にさ迷っているような、暗い気持ちが常に心を覆っていた。

希望なんてものはどこを探してもなく、ましてや奇跡なんて起こらない。

地獄のような日々を奴隷として過ごすしかない。

この身が果てるまでずっと。

そう思っていた。

あの日が訪れるまでは。

その日は激しい雨の日で、夏なのにやけに底冷えのする1日だった。

僕が鎖につながれた自分の足を眺めながら、もうとっくに味のしなくなった残飯を嚥下していたときだ。

とつぜん野獣の雄たけびのような轟音が鉱山の坑道内にこだました。

それからほどなくして地面から胃を震わせるような不気味な振動を感じるようになり、気がついた時には僕の視界は真っ暗な闇に覆われていた。

大雨に耐えられなくなった川がついに氾濫を起こしたのだ。

行き場を失った膨大な量の川の水は、全てのものを巻き込みながら一気に鉱山に流れ込み、鉱山にあるものすべてを洗い流した。

坑道に流れ込んだ濁流の勢いはすさまじく、僕をつなぎとめていた鎖をやすやすと引きちぎり、僕のことを一瞬にして坑道の奥へと押し流してゆく。

僕は何が何だかわからないまま、もみくちゃにされながら必死に手足動かしたが、度重なる肉体労働によって疲弊した体でろくに抵抗できるはずもなく、僕は濁流の中で早々に意識を手放した。


気がついたら僕は鉱山から遠く離れた川のふもとに泥だらけになって倒れていた。

体のあちこちがズキズキと痛んだが、それという大きな怪我はない。

生きてる。

久しぶりに感じる温かい感情に息が詰まった。

そして無性に家族に会いたいと願った。

僕に向けられた母の笑顔と僕をほめてくれた父の言葉が、今なら鮮明に思い出せる。

僕は家族のもとへ帰ることに心を決めた。


僕が父の学び舎に戻るのに1年もかかった。

なぜならお金を持っていなかったし、あの洪水で国をまたぐほど遠くまで流されてしまったからだ。

やっとの思いで帰還した僕だったが、どんな顔をして家族に会えばいいのかわからない。

親に会ったらどのような言葉をかけようか、落ち着かない思いで、そんなことを考えながら道を歩く。

しばらくすると夕方の西日に照らされた父の学び舎が見えてきた。

久しぶりの両親との再会に嬉しくて駆けだした僕だが、はたと足を止める。

学び舎の前には父がいて、その隣には父を見上げる少年の姿があった。

もうこの時間になると学徒はいないはずだ。

少年はしきりにしゃべっては尊敬の念がこもった目で父を見上げ、父は少年の言葉を聞くたびに目を見開いては、少年の頭を愛おしそうになでた。

それは僕の見たことのない父の姿であり、僕を前にしている時よりもいっそう嬉しそうに見えた。

父は養子をとったようだった。

僕よりも賢く、僕よりも才気あふれる子供を。

その二人のやり取りを僕は遠くから信じられない思いで見つめていた。

あれだけ熱く沸き立っていた心も、水を注がれてしまったように急激に冷えていき、心の中で何かが壊れたのを感じた。

あそこには僕の居場所なんて最初からなかったんだ。

僕は手近にあった薪割り用の鉈を手に取にすると、おぼつかない足取りで家族より家族らしく振舞う彼らに近づいた。

そして空っぽの心でそれを振り下ろした。

僕にはその時の記憶がない。

気がついたら、足元に親の死体と少年の死体が無残に転がっていた。

視界は血で染まっている。

僕は膝をつき声を上げて泣いた。

いつしかそれは感情に流されるがままの流涕となり、自身の不幸を嘆く慟哭となり、身を引き絞るような啼泣となった。

そして僕は刃を自らののど元にそえ、自らの手で命を絶った。

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