決意

 彼女は静かに息を吐いた。

 時が止まってしまったかのような静寂が鏡の中に満ちる。

 青年が彼女に対して熱い思いを抱いているのと同じく、彼女もまた彼に対して特別な感情を抱いていた。

 澄み切った鏡の中で誰にも知られることなく、静かに消えていくしかなかった彼女に、彼は手を差し伸べてくれた。

 そう、静謐な孤独の中を生きていた彼女に。

 一度も青年の手に触ることができなかったけど、鏡を隔てたその手から彼のぬくもりがじんわりと伝わってきて、鏡の中で独りたたずんでいた彼女の心を優しく温めてくれた。

 青年との会話はまるで新しく手に取る物語のように新鮮で、雲間から差す日の光のように冷え切った彼女の心をゆったりと照らしてゆく。

 読み飽きた本のページを漫然とめくるよだった彼女の世界が徐々に変わってゆくのを彼女は感じた。

 静かだった心臓が、ひさかたぶりに脈動する。

 大空を知った鳥のように。

 だからこそ彼女は苦渋の決断を迫られた。

 あまりにも残酷で痛切で悲嘆な決断。

 彼女は青年の前から立ち去ることを選んだ。

 

「もう、私に関わらないで。私と一緒にいると、あなたは不幸になる。だから、私はここを去ろうと思うの」

 ある日、彼女は青年に言った。

 それはずっと彼女が鏡の中で考えてきたことだ。

 悲しみでおぼれそうなときも、不安で押しつぶされそうなときも、青年は彼女のそばにいてくれた。

 彼女にとって青年は、暗闇の中を照らす光そのものだった。

 かけがえのないものだからこそ、青年には幸せになってほしいのだ。

 「私といると、あなたは幸せにになれない」

 私という存在が消えてしまえば、青年はもう立ち直れないだろうと彼女は思う。

 頃合いだと彼女は感じた。

 手遅れになる前に。

 彼女は青年に花が咲いたように優しく微笑んだかとおもうと彼に背を向けた。

 そして鏡の奥へ奥へと静かに歩き出す。

 「さよなら」

 彼女の消え入りそうな言葉が空気中に漂う。

 青年はどんどん遠ざかってゆく彼女の背中をしばらく見つめていたが、意を決したように走り出した。

 青年の目線の先は彼女の鏡。

 鏡にぶつかることなど彼は考えなかった。

 彼女が笑ってくれればそれでいい。

 彼女に手を伸ばすがとどかない。

 青年は彼女に対する万感の想いを胸に、鏡の中に飛び込んだ。

 鏡の中は二人の抱く激しい感情とは裏腹に、耳が痛くなるほど静かだった。

 青年の手が彼女に触れた。

 彼女は驚きの表情を浮かべ青年に振り向く。

 彼女の瞳にはきらりと光る涙がひとすじ。

「なぜ来たの?」

「ずっと君と一緒にいたいから。僕と会えない時間が長くて、君はきっと悲しくなっちゃうから」

 そう言うと青年は彼女を後ろからぎゅっと抱きしめる。

 小さな炎を風から守るようなやさしいハグだった。

 彼女は自分の心が溶け出していくのを感じた。

 体に力が入らない。

 そしてひどく眠い。

 彼女は青年の胸に体をあずける。

「すこし、眠くなっちゃった」

「僕の中で眠るといいよ。きっといい夢が見れるよ」

「うん」

 彼女はあたたかい安心感に包まれながら瞳を閉じ、明けることのない永遠の暗闇に意識を手放した。

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