5-2 フォーマルハウト

 初老の刑事、井上の手には田沼の著書『みえるひと』が握られていた。僕は平静を装い返答した。


「そうなんですか」


 何が知りたいのだ。どうせ僕の話なんて信じない、その本の内容だって信じちゃいないんだろ。


「アタタ」


 井上はそういうと腰をポンポンと片手で叩く。何だ、腰がどうかしたのか。


「長年この仕事をしていると立ち仕事が多くてね。つい最近もまた腰を痛めたんだ」

「あの、どっか行っていただけませんか。僕は里奈を待っているんです」

「そうそう、私先日、勤続年数が三十年経ってね。刑事になって二十年になるんだよ」

「だからなんなんですか。そういう話は隣の刑事さんとしてください」

「私が若い頃、とある事件があってね。あれは何年前だったかな……」


 そんな話、僕には全く関係ない。僕は呆れふと校舎へ視線を送る。すると下駄箱の方向に何人かの人影が見えた。

 僕は踵を返し歩き出す。きっと生徒会が終わったのだろう。里奈がそろそろ出てくる頃だろう。


「あ、織部君」


 井上は僕に声をかけていたが無視して下駄箱へ僕は進む。こんなことなら下駄箱で待っていればよかった。明日からは校内で待つことにしよう。

 正門から校舎に向かう道は文化祭の出し物で埋め尽くされており、様々な出店が軒連ねていた。しかし本番は明後日、まだ準備中だからまだ装飾は控えめだ。

 少し進むと里奈の姿を見つけた。里奈は上履きを履き替えている最中だ。そんな里奈と僕は視線が合う。僕は里奈に近づき少しほほ笑んだ。


「今日も待っていてくれたの?」

「うん」

「先に帰ればいいのに」

「待ちたかったんだ」

「そう」


 彼女の反応は少し冷たい。けれど前よりは遥かにましになった。以前は口もきいてくれないほどだったが、最近では他愛のない会話もしてくれるようになっている。

 下駄箱を出て正門の方を見る。もう井上の姿は無くどうやら諦めて帰った様子だ。

 それから僕らは駅へと向かい歩き出した。


「今日も疲れた」

「お疲れ様。無理し過ぎじゃない?」

「でも明後日本番だし、泣き言なんて言っていられない」

「そっか」


 文化祭が終われば、里奈も落ち着くだろう。そうすれば以前のようにまた恋人同士の会話が出来るような時間も作れるはずだ。今の関係は二人とって物凄く曖昧で、彼氏彼女の甘さなど無い。ただ一緒に帰る程度の関係だ。

 駅までは歩いて十分程、この時間が僕らをギリギリ繋いでいる。そんな時また冷たい風が僕らを襲う。


「う、寒いな。だいぶ寒くなったね」

「うん、この前までは暑い暑いって言っていたのが嘘みたい。あ……」


 里奈はそう言うと空を見上げた。つられて僕も空を見上げる。視線の先には月が輝いていた。


「今日は満月だったんだ」

「綺麗だね」

「うん、とっても綺麗。文化祭が終わったらまた星空を見に行きたいな」


 秋の星空。秋にはたくさんの星を眺めることが出来る。有名なペガスス座とアンドロメダ座、ペルセウス、カシオペヤなどの秋の大四辺形。もちろんそれだけではない。天体望遠鏡を使えば南の空に白っぽく輝くフォーマルハウト、みなみのうお座も観測できる。これらは大気の影響を受けやすいため、黄色く見えたり赤っぽく見えたりもする幻想的な星だ。


「また行こう。今度は二人で」


 僕がそう言うと彼女は何も返す事無く星空を見上げている。それから里奈は家に着くまで口を開く事は無かった。


 僕も家に帰る。家の中の時計をみると時間は午後八時を過ぎており、冷凍庫にあるパスタを電子レンジに放り込みスイッチを入れる。今日も両親は仕事で帰りが遅い。

 制服を脱ぎ散らかし、僕はリビングの椅子に腰かける。何の気なしにスマートフォンを取り出すと田沼から着信が来ていた。歩いていたからバイブレーションが震えていても、それに気づけなかったのだろう。

 僕はスマートフォンを操作し、田沼を呼び出す。二回ほどコール音が聞こえて田沼が出た。


『もしもし?』

「直斗です」

『やあ、久しぶり』


 田沼はあの日の傷で入院生活を余儀なくされていたが、先日退院して今は病院兼自宅で療養中だった。療養中と言っても研究資料を読み漁っているとの話なので、傷が開かないか少し心配ではある。


「お久しぶりです。傷の調子はどうですか」

『まだ痛みは残っているけど、もう大丈夫だ。それより彼女の様子はどうだ?』

「今日も変わりはありませんでした。相変わらず『点滅状態』です」

『そうか、なら安心だ。今日電話したのは他でもない。アルバートの前の主治医とメールで連絡が取れてね』

「アルバートの、前の主治医?」

『そうだ、彼は僕が診る前に別の病院に通院していたんだ、その人間と連絡が取れたんだ』


 何故か田沼の声のトーンがひとつ低くなった。


「それで何かわかったんですか?」

『ああ、アルバートは以前にも他人の寿命を延ばそうとしたという話があっただろ。その話をその主治医に詳しく話していたそうなんだ』

「そ、それってつまりあの『点滅現象』があったっていうことですか⁉」

『ああ、カウントダウンが点滅している事も主治医に話していたそうだ』

「それであれは何だったんですか⁉」


 僕は思わず大きな声を出した。しかし田沼からの返事がない。何がわかったというのだ。


「田沼さん?」

『落ち着いて聞いてくれ』

「落ち着いていますよ。でももったいぶらないでください」

『そ、そうか。じゃあ話す。あの『点滅』は延命による遅延現象の可能性が高い』


 やはりそうか。僕はそう思った。

 その瞬間、電子レンジが音を鳴らす。パスタが温まった音だ。僕は立ち上がり電子レンジの扉を開ける。


「つまり、どういうことですか」

『つまりだ。俺たちは彼女を助けた。外的要因を取り除いた事で彼女は延命したんだ。本来ならば死ぬ運命だった人間の命を変えたことになる』

「それはわかります」

『とすれば、次は何が起こる?』

「何ですか?」

『もう一度、外的要因が発生するまで延期となる。今の彼女がそうだ。言い換えれば待機状態だ』


 雨で流れた花火大会が次の日にやるようなものか。いや違うか。そもそも人の命と花火を一緒にしてはおかしい。


「それは理解出来ています。それで、どうすればその状態を抜け出す事が出来るんでしょうか?」

『まだそこまではわかっていない。主治医の話ではアルバートはひとりの人間のカウントダウンを止めたことがあると言っていたそうだ』

「⁉」


 これは嬉しい連絡だ。やはりアルバートは諦めず人の運命を変えた経験があるのだ。


『その主治医は俺を同じ開業医でね。俺ら病院側に情報を開示していなかったんだが、俺が奥さんの許可を得てようやく聞き出せたと言うわけだ』


 アメリカの仕組みはわからないが医者となれば患者のカルテを外部に開示する事は無いだろう。けれど遺族の了承があれば話は別だ。なるほど田沼が過去の資料を読み漁っていたというのは、これを調べるためだったのか。


『とりあえずもう少し時間をくれ。君は変わらず彼女の観察を続けてほしい』

「もちろんです」


 僕がお礼を言うと、田沼はまた連絡すると言い残し通話を切った。ずっと停滞中だった『点滅現象』今日少しだけ光明が差し込んだ気がした。

 良かった、前進している。田沼は言っていた。アルバートは他人のカウントダウンを止めた事があると。そう、止められるのだ。今はただの停滞状態でもいい。いいさ、何度も延命してやる。里奈のカウントダウンが止まるまでいくらでも延命してやる。


 僕はそう思い温めたパスタを頬張る。この日のパスタは少し幸福の味がした。

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