(10)
私がようやく一人になれたのは、それから約一時間後のことで――――――医者の診察を受け、回復師から癒やし魔法を後頭部にピンポイントでかけてもらい、料理長特製のポーチドエッグ入りオニオンスープを平らげた後だった。
ちなみに、呪術師の出番はなかったということだけ追記しておこう。
ま、私にかかっているのは悪役令嬢の呪いですからね。うん、そりゃ出番は来ないわよね。
それにしても、目覚めてからここまで本当に長かった。一度目の目覚めまで含むと尚更長い。
お兄様とのあれやこれやや、家の者たちとのあれやこれやを思い出しただけで疲労困憊、もう頭もお腹もいっぱいだ。
そして普段なら、疲れた時にはやっぱり睡眠よね――――とベッドで横になるところだけれど、それすらももう堪能済み。ま、気絶を睡眠と捉えるならば、だけど。
そもそも、「私の周りには心配症の人しかいないのかしらね」と思わず独り言ちる。
もしかしたら私は、周りから非常に頼りなく見られているのかもしれない。かれこれと世話を焼かなればならないほどに。
「う〜ん………それに関しては残念ながら否定できないわね。魔力も公爵令嬢としては底辺の底辺だし……世間知らずの箱入りだし………悪役令嬢だし…………」
あれ?私、結構ろくでもないわね。自分で言ってて、なんか部屋の隅で蹲りたくなってきたわ。私ってほんと駄目すぎる…………
でもまぁ、世間一般的に箱の中で大事に育てられた公爵令嬢なんて、所詮皆こんなものよね、と自分を納得させておく。というか、慰めておく。
そしてこれは慰めついでの話となるけれど、その心配症の代表格であるお兄様は、まだ夜会から戻ってきていない。
執事ムルジムからの報告によれば、早馬が王城に到着し、お兄様への取り次ぎを頼むと、夜会服姿のお兄様が城内から颯爽と現れたそうだ。
ただ何故か、人間が丸ごと入りそうな袋を3袋も持って。
夜会とは明らかに無縁な袋。というか、夜会に袋持参で参加する人間なんて、未だかつて見たことも聞いたこともない。
もちろん今回の夜会は、季節はずれのクリスマスパーティーなどではない。ましてや、公爵家嫡男にサンタ役を押し付けてくるツワモノもそうはいないだろう。
しかも持っていたのは、一体どこで調達してきたのか厚手の真っ黒な袋。
それを、サンタもびっくりの大盤振る舞いで3袋もだ。
ただ救いは、その袋がすべて空だったということで………………
使者から知らせを聞いたお兄様は、険しかった眉間を僅かに緩め、『報告、ご苦労だった』と告げながら、その袋をそのまま使者に手渡したらしい。もうこの袋は用済みだと謂わんばかりに。
そして突如袋を渡され、こんな袋を3袋も持って、誰にも咎められずに城門を通り抜けられるだろうか?と、絶賛戸惑いの中にいる使者へとお兄様は命じた。
『頃合いをみて、私も早々に夜会を引き上げる。私が戻るまで、ユーフィリナにはくれぐれも安静にしているように伝えるのだ。絶対にふらふらとベッドから抜け出すなと』
部屋どころか、ベッドからも出てはいけないなんて、まさにお兄様の心配症もここに極まれり――――だ。
まぁ何はともあれ、お兄様は現在、拉致を企てる犯罪者としてではなく、王弟殿下の帰国を祝う御学友として夜会に参加している。
どうやら案じていた件は未遂で済んだようだと、ムルジムとともに安堵の息を吐いた。
さりとて公爵家の優秀な執事であるムルジムは、当然の結果だという顔をしており、決してその心の裡を見せようとはしなかったけれど――――――
えぇ、わかっているわよ、ムルジム。それが公爵家の執事たる者の矜持よね。
でもね、この結果があるのは、あなたの己の立場を度外視したあのダッシュがあったからこそだわ。
えっ?声?そんなものは一切聞こえなかったわよ。
だって、優秀な執事であるあなたが、心の声をただ漏らすわけがないもの。それも公爵家ご継嗣様に対して悪口にも聞こえるような台詞を。
だから、私も心の中だけで留めるから、これだけは言わせてちょうだい。
ムルジム、ナイスラン!
何事もなかったかのような澄まし顔で報告をし終えた我が公爵家の執事を、私は心から称賛した。
しかしこの報告で、もう一つわかったことがある。
私がようやく得られた一人の時間は、そう長くは続かないということだ。
つまり、お兄様が夜会から戻ってくるまでが勝負となる。
というわけですので、お兄様。
大変申し訳ございませんが、私はベッドから脱出いたしますね。
ただでさえ悪役令嬢へ性格改変し損なっている上に、完全素面のままで断罪への道まっしぐらなんて、お先真っ暗にも程がありますもの。
などと内心で言い訳をして、私は早速部屋に設えられた側机へと向かった。
「ニクス、お願いだから邪魔しないでちょうだい。私はこれから真剣に考えなければいけないのよ……」
ニクスとは、先程執事のムルジムが、お兄様の報告と一緒に連れてきてくれた私の愛猫だ。
そう、私があの日助けた真っ白な仔猫は、今や雪玉から雪だるまへと立派に成長した。
若干、成長の仕方に間違いがあったように思われるけれど、好奇心と悪戯心は未だ衰え知らずらしく、今は揺れる私の夜着の裾にじゃれついて遊んでいる。
その様子に呆れ半分、癒やされ半分といったところで目を細めてから、私はようやく一番大きな問題へと取りかかった。
そう、目下の大問題である悪役令嬢案件に―――――――
“魔法学園で恋と魔法とエトセトラ”―――そのタイトル通り魔法学園に入学したヒロインが、攻略対象者たちと出会い、数々の困難を知恵と勇気、そして時に魔法で乗り越えながら恋を育んでいく定番の乙女ゲームだ。
実際にここが乙女ゲームの世界であるとするならば、私が現在通っている“レグヌムデウザビット・マギア学園”がゲームのタイトルにもなっている“魔法学園”にあたる。
そしてその攻略対象者となるのが―――――――――
「メイン攻略対象者のスハイル王弟殿下でしょ。あとは公爵家ご子息たち。あっ……でもお兄様は攻略対象者だったかしら。公爵家ご子息には違いないのだけれど、う〜ん………全然記憶にないわね。ま、お兄様のことは一先ず置いておくとして………現在、学園に留学中のデオテラ神聖国のトゥレイス第二王子殿下に………それと確か、近衛騎士団副総長とかも含まれていたわよね………」
魔法学園で、どうやって近衛騎士団副総長と知り合うことになるのかさっぱりだけれど、“白井優里”の記憶をフルに使い、思い出した名前を順々に書き連ねていく。
使う文字は、誰かに見られてしまってもいいようにと日本語だ。
でも直ぐに、ちょっと待って………と、書く手を止める。
もしお兄様、もしくは専属侍女のミラとラナにこれを見られたとして、私が見たこともない文字を書いていると知ったら……………間違いなく呪術師を呼ぶわね。
だったら、この世界の文字を使い、王弟殿下たちを攻略対象とした乙女ゲームの内容を書いていると知ったら……………それでもやっぱり呪術師を呼ぶわね。
つまり、どちらに転んでも結果は同じ。
ならば、比較的傷が浅く済む方を取るしかない。
そこで私は暫し考えて、ここは日本語よね、と結論付けた。
その理由は、日本語ならば新しい文字の開発中とか何とか適当に言い逃れができるけれども、乙女ゲームの内容を知られれば、ただただ痛いだけだ。
しかもそこに羞恥まで加わるのだから、傷口に塩を塗り込まれた上に、冷笑されるという屈辱を味わうことになる。
これはもう軽傷どころか再起不能確実だ。
そのため私はあっさりと日本語を選択すると、再びペン動かし始めた。
「―――――う〜んと、他に誰が攻略対象者だったかしら…………そうよ!宰相補佐の………えっと、補佐の……………あれ?この人、名前は何だったかしら。ま、まぁいいわ。別に私が攻略するわけではないのだし、今はただゲームの内容とキャラを思い出しているだけなんだから」
さっさと気を取り直し、続きを書いていく。
思いつくままに、ただただ手と頭を動かして――――――――
「………………………………………」
「……………………………………」
「…………………………………」
「………………………………」
「……………………………」
「………あぁッ、もう完全にネタが尽きたわ!ここが限界!」
余白ばかりが目立つ白い紙には、十人にも満たない名前。いや、中には役職名だけで終わっている人もいれば、確信が持てずカッコ付のクエッションマークまで付けられた人もいる。
さすがにこれは酷すぎる。
日本語で書いた意味すらない。
「……………駄目だわ。もう書けることが何一つ思い浮かばないなんて………しかも、こんな申し訳程度の名前の羅列だけじゃ、なんの役にも立たないわ。これではただの名簿じゃない。それも不完全な……あぁ、どうしよう…………私、またもや詰んだわね。これだけ意気込んで考え始めたというのに、早くも二度目の詰みを迎えてしまったわ……」
これがこのゲームにどハマりしていた“江野実加子”なら、さぞかし立派な断罪回避計画書なるものが作成できていたのだろうと思う。
逆にヒロインを断罪へと貶める勢いで。
しかし私は、その“江野実加子”の話を一方的に聞かされていたに過ぎないのだ。
それも大学の食堂で…………
考えてもみてほしい。
目の前には、ようやくありつけた出来立ての昼食。
片や顔見知り程度の知人が話す、私にとってはほとんど興味がない乙女ゲームの内容。
どちらに私の意識がより傾くのか。語るまでもないだろう。
とはいえ―――――ここだけの話、私はこのゲームを一度だけしたことがある。
もちろん“江野実加子”からの『ファンタジー小説なんて置いて、こちらの世界に来なよ。どっぷりとハマるから』という泥沼勧誘を再三にわたり受け続けたせいもあるけれど、ここまで“江野実加子”がのめり込んでいるゲームに、なけなしの私の好奇心が揺さぶられたせいでもある。
そこで王道ともいえるメインルート、スハイル王弟殿下攻略ルートをやってみたのだけれど――――――
まずはスハイル様との出会い――――――それは巷で噂になっている“紅き獣”と呼ばれる魔獣にヒロインが襲われ、秘密裏に“紅き獣”を追っていたスハイル殿下に助けてもらう――――――というお約束な展開から始まる。
ヒロインの生家は爵位を持つ貴族。しかし、今やすっかり落ちぶれ、ヒロインは得意の裁縫でかつて自分が着ていたドレスを仕立て直し、懇意にしている古着屋に売りに出しては日々の生活の糧にしていた。
そして運命の日―――――
古着屋からの帰り道、“紅き獣”と遭遇し襲われるヒロイン。
“紅き獣”から咄嗟にヒロインを庇い、深手を負ってしまうスハイル殿下。
そんなスハイル殿下を助けるため、ヒロインは無我夢中で一度も使ったことがない癒し魔法を発動させる。その絶大なる魔法の威力と、桁外れの魔力量に驚いたスハイル殿下は、半ば強引にヒロインを魔法学園へ入学させてしまうのだ。
『お前は私が見つけた。だからこれからは学園で魔法を学び、私に尽くせ。その代わりお前の家族の生活は私が一生保障してやる。お前はもう私のものだ』
――――――という殺し文句とともに。
そこから、ヒロインの恋と魔法と冒険という波乱万丈なゲームが幕を開ける―――――のだけれど。
「そうそう、そこでヒロインは入学後すぐに、スハイル殿下にお礼を伝えようと思うのよね。だけどスハイル殿下は学園と同じ敷地内に併設させている魔法大学に籍を置いていて、ヒロインが殿下を探してそこへ向かうと………」
前世の記憶を探りながら、どうにかこうにか糖分不足の脳内で乙女ゲームお決まりの甘いストーリーを再生させていた私は、ここで盛大なため息を吐いた。
これからのシーンで、攻略対象者の好感度を上げるための選択肢が3つ出てきたことを思い出したからだ。
入学したてで右も左もわからない敷地内を、スハイル殿下を探してウロウロと彷徨っていたヒロインは、木陰でうたた寝をしているスハイル殿下を見つける。
そこで3つの選択肢だ。
① 眠っている彼に声をかける
② 彼が起きるまでその場で待つ
③ 今日のところは出直そうと立ち去る
あの………一つ、いえ二つほど言ってもよろしいでしょうか。
大学の敷地内とはいえ、護衛もつけず木陰で寝てる王弟殿下。ちょっと………いや、かなり無防備すぎませんかね?それともどこかに護衛の方々は潜んでいたのでしょうか?
だったらいいんですけどね。でも私なら、そんな状況下で居眠りはできないかな………と。
はい、すみません。王弟殿下ともなれば平然とできてしまうんですよね!ここはもう、できることにしましょう!
それにですね、私はこの選択肢は3つともないと思われるのですが、世間的には有りなんでしょうかね?
…………たぶん、有りなんですよね。この場合…………はい、重ね重ねすみません。
もちろんこれはゲームであって、現実的に考えてはいけないことくらいはわかっている。こういう時こそファンタジー脳をフル稼働させるべきだってことも。
けれど、この3つの選択肢を前に考えてしまったのだ。
前世の私は馬鹿正直に………………
『①を選べば、明らかに不敬だし、②を選べば、完全に座敷童状態で、目覚めた王弟殿下をショック死させる恐れがあるかもでしょ。だったら③となるわけだけれど、今から好感度を上げようって時にさっさと立ち去ってしまったら、それこそ意味がないじゃない!』
そこで前世の私は決めた。
『ここは④ このゲームは、私には不向き。なので、ここでゲーム終了―――――うん、これ一択よね』
こうして私の恋と魔法とエトセトラは、盛り上がり一つ見ることなく、あっさりと幕を閉じた――――――――
って、いやいやいや前世の私、あっさり閉じてる場合じゃないですから!
「あぁぁぁぁぁぁぁ、あの時の私を殴ってやりたい………………」
公爵令嬢としてあるまじき発言だけれど、これが今の私の素直な気持ちだ。
今になって思えば、仮に①を選んでいたとしたら、スハイル殿下は不敬だと咎めることなく『起こしてくれて助かった。午後からの講義に遅れなくて済んだよ』と、感謝してくれたかもしれない。
②を選んでいたとしても、強靭な心臓をお持ちのスハイル殿下は驚くことなく『目覚めて最初に君の顔が見られるなんて、これ以上の贅沢はないな』なんてことを平然と言って退けたかもしれない。
そして③を選べば、ヒロインの立ち去る気配に目を覚ましたスハイル殿下は、咄嗟にヒロインの腕を掴み、『私に声の一つもかけてくれないなんて、君は案外冷たいんだな。私はこんなにも、君に会いたくて仕方がなかったというのに』などと、ヒロインの腰を砕けさせる台詞を吐いていたかもしれない。
それなのにあの時の私ときたら、よりにもよって選択肢の④だなんて……………いや、もう④って何?そんなのないから…………ほんと馬鹿なんですか、前世の私ッ‼
しかし選んでしまったものは仕方がない。こんな最初の選択肢で躓いているくらいなのだから、遅かれ早かれ前世の私は④の選択をしていたはずだ。
雑念を振り払うように私は首を横に振ると、机上の余白ばかりが目立つ紙に目を落とした。
そして、役に立ちそうもない名前の羅列に目を走らせて、最後に苦笑を一つ零す。
それからくしゃくしゃと勢いよく紙を丸めて、ポイッと机の上に投げ置いた。
うん、そうね。ここで前世の自分に文句を言っていたって何も始まらないわ。こうなったら、これから私がまずどうしたいのかを考えてみましょう。
やっぱり現状把握は、どんな難事件においても初歩の初歩。その第一歩目が、今回は自分の気持ちを見つめ直すということだ。
幸か不幸か、性格改変されなかった私。
素面で悪役令嬢を演じなければならないにしても、今の自分を押し殺し続けることなんて到底できない。
ならば…………と、自分が悪役令嬢であるということを、私は一旦横へ置くことにした。
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