(3)

 夕闇迫る部屋へと差し込む落陽からの光。

 その光に晒されながら、体内で残り火のように燻り続ける熱を持て余す私。

 そのため今度はお兄様が、ベッドの上に残された私の顔を見て、まるで息を呑むように目を瞠った。

 それもそのはず。なんせそこにあったのは茹で蛸並みに真っ赤に茹で上がった妹の顔。それも涙目。さらには、ずっと息を止めていたせいで、絶賛空気を求めて喘ぐように全身で呼吸を繰り返している。

 普段とは明らかに違う妹の様子を、お兄様はしばし驚きの表情で見つめていたものの、やがて思うところがあったのかクスリと悪戯な笑みを零した。

「ユーフィリナ、どうした?まさか実の兄相手に照れたわけでもあるまい」

「うぐっ」

 その“あるまい”が実際にあったわけで、私の口から公爵令嬢らしからぬ変な声が漏れ出た。

「お前が幼き頃から続けてきたおまじないをしただけなのだが?今朝だってしただろう?」

「げふっ」

 け、け、今朝もしたなんてことは初耳です―――――なんて台詞の代わりに、またもや前世ですら出さなかった声が口から転がり出た。そのせいで私の顔は一層紅く染まることになり、お兄様の笑みもより一層深くなる。

「そうか。ようやくお前の兄も男性であると認めてくれたということだな。それは実に喜ばしいことだ」

 あのお兄様、そのお言葉に深い意味はないとわかっておりますが、人によっては非常に危険で不適切な想像してしまいかねませんので、もう少しお言葉を選ばれたほうがよろしいかと思います…………などと“ユーフィリナ”としての意識が至極冷静に内心で返しているけれど、“白井優里”としてはそれどころではない。というか、内心ではなくお兄様に面と向かって是非とも言って頂きたいと切に願う。だけど今は“白井優里”の意識が7割のため、どうやら声を発する優先権も“白井優里”にあるらしい。

 何?その仕組み?と誰かに苦情を物申したい気持ちでいっぱいになるけれど、所詮世の中ままらないことばかりだと一人涙を呑み諦める。まぁ、呑み込む以前にもうすでに涙目になっていますけどね…………

 しかしこんな心の訴えも、口にしなければ何一つお兄様に伝わるわけもなく、私はやけっぱち…………いえ、開き直り…………もとい、意を決して口を開いた。

「こ、これは頭を打ったことによる怪我の功名です。おかげで私も、大変遅ればせながらではございますが、自分が妙齢の女性であると自覚いたしました」

 “ユーフィリナ”の記憶によれば、私は十六歳。二ヶ月前にデビュタントを済ませ、本人の自覚云々を抜きにしても、この国では(この異世界では)成人女性と認められている――――――らしい。

 しかしお兄様を睨みつけるようになんとか声にした私だけれども、この取繕いようのない赤ら顔の涙目では、自分でも呆れるほど説得力の欠片もない。

 その証拠にお兄様の口元はゆるりと弧を描いた。

「ほう、怪我の功名か。そんな功名がなくとも、ユーフィリナはデビュタントを済ませ、妙齢の成人女性だと既に認めてられていたはずだが、どうやらユーフィリナ本人は違ったらしい」

「い、いえ、もちろん、しっかりと、自分が妙齢の成人女性であると認識はしております。認識してはおりましたが、ただ認識していたのと自覚するのとでは、全然違うのです」

 ここで引いたら負けとばかりに、必死に言い募ってみる。しかし、相手は焼いても煮ても食えなさそうなこのお兄様(“白井優里”としての直感)。

 私ごときに言い負かされるなんてことがあるわけもなく…………

「なるほど。認識だけでなく自覚した途端、この兄とのおまじないに照れを感じてしまったということか。これではいつまでも幼子のようだと。しかしだな。このおまじないはユーフィリナが物心つく前ずっとしているものだ。逆にこれをしなければ、私のほうが落ち着かない。それこそ、心配で死んでしまいそうなくらいにな」

「そ、そんな簡単に死なないでくださいませ!」

 咄嗟に言い返してみたものの、そういえばこの人は突出したシスコンお兄様だったと、目覚めてからこっち、数分程度の(私にとってはもはや気が遠くなるほどの長く感じられる時間だけれども)短いやり取りで学習したことを思い出し、無理やり自分を納得させる。

 その納得の間にも、この妹至上主義のお兄様はとんでもないことを言い出した。

「だからおまじないは私の心の安寧のためにも絶対に無くせないが、そうだな………この際、成人男女らしい方法に変えるというのは有りかもしれない。ようやく私のことを兄ではなく、一人の男性として意識してくれたようだしな」

 やはりおまじないを無くすこと自体は無しなんですね………という諦観が一瞬私の心を占めたけれども、それよりも何より、その後にさらりと続けられた成人男女らしい方法という言葉に、私はベッドの上でピシりと固まった。

 途端に脳内で鳴り響く警報。

 その後さらに続いた実の兄らしからぬ意味不明な言葉の羅列は、完全に理解不能のため無視だ!無視!

「あ、あのお兄様、参考までにお尋ねしますが、成人男女らしい方法……とは?」

 警戒心も露わに上目遣いで恐る恐る聞いた私に、お兄様は獲物を見るかのように目を眇めた。

「ユーフィリナ、お前も妙齢の女性なのだから一々口にせずともわかるだろう?それとも今から試してみるか?」

 そう言いながら、お兄様の手が私の頬に触れる。

 体と一緒に跳ね上がった私の心臓。

 まるでそれを上から押さえ込むかのように、再びベッドにかけられたお兄様の体重。

 緩慢なほどゆっくりと時間をかけながら眉目秀麗なお兄様の顔が、何故か真剣な表情で私だけを見つめ近づいてくる。

 瞬きすらもできず、完全に石化した状態で、それを見つめ返すことしかできない私。

 忽ち私の視界がお兄様だけで埋め尽くされてしまう。

 絡み合う二人の視線。

 駄目……と声にしたいのに、その言葉は声にならず、喉奥に張り付いたままだ。

 それでも必死に声を絞り出す。

「お…………おにい…さ……」

「いいから、黙るんだ」

 そしてその言葉を永遠に封じ込めるかのように、頬にかかる手とは逆の手が私の顎を捉え、その親指が私の唇に触れた。

「ん………………」

 お兄様の指から唇に移された微熱。

 その熱に思わず漏れた甘さを含むらしからぬ声。

 そんな自分の声に、一方的に与えらた微熱は急激に温度を上げ、一気に私の体を駆け巡った。

 その熱にあてられた脳は陶酔するように痺れ、詮無き思考だけがぐるぐると回り始める。

 どうして、そんな真剣な顔で私を見つめるの?

 どうせからかっているだけなんでしょう?

 妹相手に本気で何かをする気なんてないんでしょう?

 その間にも、私を見下ろしながら縮められる二人の距離。お兄様の吐息が私の唇に触れ、新たな熱が私を当惑と甘美な毒で震わせる。そして――――――……

「ユーフィリナ、キスをする時は目を閉じるものだぞ」

「ッ!!…………」

 衝撃しかないお兄様からの囁きに、私の思考は完全に止まった。

 と同時に、視界の中でお兄様が微笑んだ。いや、そんな気がした。しかし、ギュッと目を閉じてしまったために、もはや本当のところはわからない。

 もちろん、お兄様の言葉に従い、さぁ、いつでもどうぞ!という気持ちで目を閉じたわけじゃ決してない。そこまで肝が据わってもいなければ、捨て鉢になったわけでも、こんなことで前世から後生大事に守り続けてきたファーストキスを奪われたくもない(守ってきたわけではなく、ただただ縁がなかっただけですが、物は言いようです)。

 たとえお兄様の見目がどんなに麗しかろうとも…………だ。

 では、何故目を閉じてしまったのか。

 そんなものは決まっている。

 馬に蹴られそうになった時と同じだ。目の前の危機に対する、防衛本能からの身構え――――――正確にいうならば、逃げられないと悟った瞬間に条件反射でされる瞑目による眼前の恐怖(危機)からの逃避と、衝撃に備えての硬直だ。

 つまりこれは自己防衛からの一瞬の回避行動であって、お兄様の言葉と行為を全面的に受け入れた故からではない。

 そこんところはご理解いただけますよう……あしからず………………

 現在思考停止中の脳内を、そんな言い訳じみた捨て台詞のようなものが駆け抜けていった直後、ふわりと柔かい温もりが落ちてきた。

 しかし落ちてきた場所は――――――……

「……お……でこ…………?」

 ギュッと目を閉じたまま、自分の感覚を確かめるように呟き、自分の額に恐る恐る手を当てた。

 そこに集まる熱を指先に感じて、自分の感覚が間違っていなかったことを知る。

 それと同時に降ってきた笑い声。

 瞬間、その笑い声に弾かれたように私は目を開いた。

 そこには耐えられないとばかりに、小刻みに肩を震わせながら笑うお兄様。

 か、か、からかわれたぁぁぁぁぁ〜!!

 やっぱりそんなことだろうと思ってましたわ――――――と、さも当然のように“ユーフィリナ”の意識が冷静を装い言っているけれども、いやいや、あなたも『ひゃぁぁぁぁぁ~~~嘘でしょう』と両手で真っ赤な顔を覆ってましたよね。まぁその後は、ドキドキワクワクしながらこっそり指の間から覗き見てましたけど。隠そうとしても無駄ですよ。あなたの意識は手に取るようにわかりますから。

 そう内心で半眼になりながら、“ユーフィリナ”に突っ込みを入れておく。っていうか、“白井優里”である私よりも何百倍もこのお兄様への適応力を持っているのだから、覗き見る暇があったのなら助けて欲しかったと心底恨めしく思う。

 この質の悪いお兄様から……………

 実際に今回の諸悪の根源であるお兄様にじとりとした目を向けると、お兄様は「ユーフィリナ、その目は妙齢の女性として如何なものかと思うぞ」などと言いつつ、さらにクククッと肩を揺らしている。どうやら、妹の反応すべてがお兄様の笑いの壺へと綺麗に納まる仕組みとなっているらしい。

 そんなお兄様に半ば呆れながら――――――――――

 はいはい、どうせ私は前世でも男性とまったく縁がない“喪女”と呼ばれる種族でしたよ。歳だけはそれ相応にいっているのにすみませんねぇ。

 口には決して出せない恨み言を、目一杯視線へを込めておく。

 可愛い妹からの精一杯の意趣返しだ。

 正直、このお兄様に慣れたわけではないけれど(特にその容姿)、大まかなキャラは掴めたように思われる。

 つまりは、お兄様の言動を真正面から受け取ってはいけない。常に斜め斜めに構えて、時と場合に応じて俊敏に避ける、もしくは腹に一発お見舞いするくらいの気概をもって対応すべき相手だということだ。

 なんとも扱い難いことに、この見目麗しき我が実兄は。

 うんうん、その通り、と“ユーフィリナ”の意識が盛大に頷き、太鼓判を押してくれていることからも、私の掴んだ感覚はあながち間違いではないらしい。

 なんて疲れる………………と、ガクリと力が抜け落ちそうになったところで、お兄様が笑いの余韻を十分に残しながら口を開いた。

「どうやらユフィには大人のおまじないはまだ早いようだ。仕方がない。私は世界一優しい兄だからな。まだまだお子様なユフィにあわせて、いつも通りのおまじないに戻してやろう」

「なっ…………」

「ん?どうした?不服か?」

 自画自賛のもとに恩着せがましく発せられたその言葉には、存分にからかいの音を含んでいるというのに、首を傾げる仕草ですら美しく見えるとは、何たることかと悔しく思う。

 しかしそう思いはすれども、ここで不服です!と言い返せば、またもやあの心臓に悪いおまじない方法になるのは必至(お子様用のおまじないも“白井優里”である私には十分心臓に悪いけれども)。

 そもそもの話、このお兄様に勝てる要素など、今の私には何一つとしてない。だとしたら、ここは大人しく引き下がるしかないのは自明の理。というか、むしろ自己犠牲とも思えるけれど、これも立派な自己防衛。

 何しろ端からおまじないをやめるという選択肢がない以上、できるだけ自分の身に優しい方法を選ぶしかない。ギリギリと精神を削られることに代わりはないとしても。

 なので、本当はとても不服なのだけれども、してやられた感満載なのだけれども、背に腹は代えられないため潔く腹を括る(世間一般ではそれを妥協とも言う……)。

「や、や、優しい妹としましては、お兄様の心の安寧のためにも今まで通りおまじないをして差し上げてもいいですわ」

 絶賛ベッドで横になっている身なので、お兄様を下から仰ぎ見る形ではあるけれど、態度だけは上から目線で告げてみる。

 残念ながら、頬を染める熱は未だ冷めず、目は依然として涙目になっている自覚はあるので、まったくもって迫力の欠片もないけれど。

 それでも、先程お兄様も恩着せがましく言ってきたのだから、これくらいの物言いは許されるだろうと思う。

 ついでに不本意であることを強調するためにも、少し拗ねたように唇を尖らせる。

 するとお兄様は、何故か驚いたかのように目を瞠った。でもそれも一瞬のこと。すぐに優しく目を細めると、私の前髪をくしゃりと撫でた。そして――――――――

「ユフィ、ありがとう」

 それはそれは嬉しそうに、思わずこちらがうっとりとしてしまうほどに美しく微笑んだ。

 あぁ、もう卑怯です。

 ここでそんな顔をして見せるなんて。

 これでは私の方が我儘な利かん坊みたいじゃないですか………

 それに前言撤回です。

 お兄様のキャラを掴めたと思っていましたが、とんだ見当違いというか、大きな間違いでした。それどころか、お兄様はまったく掴みどころがないということが判明いたしました。

 ここは改めて“雲”認定をして差し上げましょう。

 なんてことを思いつつ、私はやっとのことで口を開く。

「ど、どういたしまして?」

 語尾が少々疑問形となったのはご愛嬌だ。

 そんなわたしにお兄様はここぞとばかりに破顔した。

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