(4)

「さて、これから私は面倒な王弟殿下の帰国を祝う夜会へと行く支度をしなければならないのだが、ユーフィリナ本当に大丈夫か?」

 底なしのシスコンな上に、心配症らしいお兄様は、懐中時計で時間を確認しながらも不安そうに尋ねてくる。

 もちろん賢明な私はお兄様が口にした“面倒な”という言葉が王弟殿下にかかるのか、夜会にかかるのかなんて聞いたりしない。

 ここは一択、「大丈夫です。ご心配には及びませんわ」と笑顔で返すのみだ。

 すっかりおまじないの威力にやられて、当初の目的をコロッと忘れていたけれど、そもそも私は自分がもう大丈夫であることをアピールして、お兄様にこの部屋から自らの意思で出て行っていただく予定だったのだから。

 ここは余計なことは決して言わないぞという決意も新たに、「私は本当に大丈夫ですから、安心して夜会を楽しんできてくださいね」と微笑みとともにいってらっしゃいの意を込めて軽く手を振ってみせる。

 しかしどういうわけか、お兄様はとても不服そうな顔をした。

「私にエスコートする相手もなく、一人で楽しんでこいと言うのか?なんて薄情な妹だ」

 恨みがましく言い返され、私は思わず目を剥く。

 えぇ!!お兄様!その見目麗しさで、エスコートするお相手が一人もいないなんて不憫すぎる!!

 そんな驚きの声を内心で漏らした私に、すかさず“ユーフィリナ”の意識が囁いた。

 今回の夜会でお兄様がエスコートするお相手は私だったのよ、と。

 まるで気の利く大料亭の女将、もしくは優秀な敏腕秘書のようだと、“ユーフィリナ”の素早い対応に感心を覚えたものの、囁かれた内容に忽ち頭を抱えたくなった。

 余計なことは言わないぞと決意した矢先に、思いっきり余計なことを言ってしまったことを教えられたためだ。

 したがって、下手な言い訳を口にするよりも、ここは素直に謝った方が害は少ないはずだと判断し、私はしおらしく口を開く。

「……お兄様、申し訳ございません。ご一緒する予定でした私がこのような形で欠席となり、お兄様をお一人にしてしまいました。なのに、楽しんでこいとは、ご迷惑をおかけした私が口にしていい台詞ではございませんでしたね。本当に申し訳ございません」

 しゅんとベッドの上で落ち込む私にお兄様は不服そうな顔を一転させ、愉快そうに笑い声を立てた。

「ははははは、冗談だ。元々お前が出席しようがしまいが、私は厄介な王弟殿下の御学友として出席しなければならなかったのだ。ユーフィリナが気を病む必要はない」

「そ、そう言っていただけると、心が休まります……」

 などと言葉を返しながらも、今回の“厄介な”は明らかに王弟殿下にかかることから、先程からの“傍迷惑な”やら“面倒な”やらの形容動詞がすべて夜会ではなく、王弟殿下にかかっていたのだと改めて理解する。

 御学友ゆえの気安さからの言葉だとは思うけれど、それにしても酷い言いようだ。

 それともこの国の王弟殿下は非常に扱いづらい人なのかしら…………と首を傾げる。もちろんベッドの上で。

 そんな私を見つめながら、お兄様が顎に手を当て思案するように呟いた。

「だが、これこそ怪我の功名かもしれないな。こうして堂々とユーフィリナを置いていけるのだから」

「まぁ…………」

 ここまではっきり言われると、申し訳なさも綺麗に吹き飛んで呆れの感情しか湧いてこない。

 そりゃ、そうでしょうとも。誰も好き好んで妹なんかをエスコートしたいわけないですものね。

 えぇ、えぇ、鬼の居ぬ間……いえ、妹の居ぬ間に精々美しいご令嬢たちと夜会を楽しんでくださいな。お兄様でしたらさぞかし引く手あまたでしょうから。

 藻屑と消えた申し訳なさに変って、今や私の感情を占めるのは面白くないという気持ちだけだ。そしてその気持ちは、私の場合そのまま表情に直結するらしく…………

「これは見事な百面相だな。しおらしかったと思えば、今はフグ顔負けの膨れっ面だ。やはりユフィはまだまだお子様らしい。高位貴族の妙齢の女性だというならば、感情によってコロコロと変わるその愛らしくも素直すぎる表情を隠せるようにならなければな」

「むう…………」

「だからそう拗ねてくれるな。心配しなくとも、私が愛しているのはお前だけだ。浮気などしないよ」

「ひゃッ‼」

 フグ顔負けの膨れっ面が、今度は再び茹で蛸へと様変わる。

 対するお兄様もまた肩を揺らし笑っている。

 うん、完全に面白がられているわね。

 しかし、私もいい加減学習しました。相手はつい先程“雲”認定をしたばかりの掴みどころがないお兄様です。言い負かそうとか、勝ってやろうとかと考えるほうがもはや間違いなのです。

 だからここは不本意ながら笑われて差し上げましょう。

 と、一段高い境地で、案外笑い上戸であるらしいお兄様を見つめる。というか、睨みつける。

 するとお兄様は笑いを嚙み殺しつつ「そんな赤い顔で睨まれてもな……」と新たに込み上げてきたらしい笑いを苦笑で濁した。そして、ゆっくりと立ち上がる。

 どうやらお兄様は先程からずっと私のベッドに腰かけていたらしい。

 そういえば、途中から目線が低かったわね、と今更ながらに思う。

 一体いつから?とさらに思考を飛ばしかけたものの、あぁ……あの心臓に悪いおまじないからかと即座に思い出す。と同時に、あの時の動揺と混乱を呼び起こされ、またまた急上昇しそうになった熱を封じるために、慌ててその記憶に蓋をした。

 ほんとこれでは身がもたない。

 この短時間でげっそりとやせ細った妹の精神状態など知る由もなく、お兄様は窓から差し込む斜陽に目をやると眩しそうに細めた。

 またその姿が絵になるのだから嫌になる。

 美しい人は何をしていても美しいわね、とため息まじりに独り言ちて、お兄様から目を逸らすように床へと視線を落とした。

 そこにはお兄様の足元から伸びるすらりと長い薄闇を纏う影。

 傾いた陽はお兄様の影を限界まで伸ばし、床から壁へと向かってお兄様の輪郭をぼんやりと貼り付かせている。

 私は何とはなしにその影をなぞるようにして、床から壁へと視線を這わせた。

 何がどうというわけでもない。影は所詮影であって、何物でもない。けれど―――――――――

 まるで私へとゆるりと近づくように蠢いた気がして、思わずひっと息を呑んだ。

 その気配を敏感に感じ取ったお兄様が「ユーフィリナ、どうした?」と振り返る。

 もちろん影が勝手に蠢くわけもなく、そんなものは私の目の錯覚だとわかっているので、すぐさま「なんでもありません」と返す。

 それこそ幼子でもあるまいし、十六にもなって影に怯えるなどという笑いのネタをお兄様に提供する気はない。

 お兄様は暫し訝し気に私を眺めた後、しょうがない奴だなとばかりに肩を竦めた。それから一人でお留守番をする幼き妹を相手にするかのように話しかけてくる。

「いいか、ユフィ。いい子で待っているんだぞ。お兄様はすぐに帰ってくるからな」

「お兄様、ご心配なさらずともいい子で待っておりますから、早く夜会へ行く支度をなさってください」

「おやおや、私はこんなにもお前と離れがたいというのに、随分と冷たいな」

「冷たくなどありません。お兄様が夜会に遅刻しないようにと、淋しい気持ちを押し殺して申し上げているのです。むしろ妹の優しさゆえですわ」

 その優しさは全体の1割ほどで、残りはただただ一人になって考えたいだけなのだけれど、そこは微笑みでひた隠す。

 だいたい、『堂々とユーフィリナを置いていける』などと豪語されていたのはどこのどなたでしょう?と微笑みの裏で睨むことも忘れない。

「まったく…………昔は一人にするというと、『お兄様と一緒にいたい』と泣いて縋ってくれたものだが、あの頃の可愛い私のユフィは一体どこへ行ってしまったのか」

「ちゃんとここにおりますわ。今もお兄様の目の前に。だから安心していってらっしゃいませ」

 私の満面の笑みでの返しにやれやれと天を仰いだお兄様は、ようやく踏ん切りをつけたようで一つ息を吐くと、小さく首を横に振った。

「そうだな。いい加減行かなくてはいけないな。それに、私ばかりがユフィを独占していると、お前のことが心配で仕事に身が入らないでいる家の者たちがそろそろ怒り出すかもしれないからな」

「まぁそれは、大変ですわ!」

 お兄様の言葉に、そういえばと思い始める。

 “ユーフィリナ”の記憶によれば、公爵令嬢である私には専属侍女がいて、彼女たちはいつだって親身になって私の世話をしてくれていた。そんな彼女たちが私のあの絶叫を聞いて飛んでこないはずがない。

 つまりは、超シスコンお兄様に命じられて、私の身を案じながらも今もどこかに控えているのだ。

 それは彼女たち以外の家の者についても同じことが言えるわけで……………

 ここはさっさとお兄様を追い出して、皆に大丈夫な姿をまずは見せなければならないわね。一人でゆっくり現状を考えるのはその後だわ。と、頭の中でこれからの段取りを組み直す。

 そしてその第一段階として、あともう一歩のところまで来ているお兄様の追い出しに、早速取り掛かかることにする。

 目一杯申し訳なさそうな顔をしながら――――――――

「それではお兄様、王弟殿下のご帰国を祝う夜会に、このような形で欠席となってしまい大変心苦しく思っている旨を、どうかお伝えくださいね。御学友としての気安さはあるかもしれませんが、くれぐれも失礼のないように。私が……ユーフィリナが、心底お詫び申し上げていたと」

「お前のほうこそ、私のことを子供扱いしすぎではないか?私は十九だぞ。礼節ぐらい弁えている。それにだ。スハイルはそのようなことで気を悪くするような男ではない。ま、ずっと会ってみたかったお前に会えなくて悔しがるとは思うがな」

「それは……大変申し訳ないことをいたしました…」

 何故かしてやったりと謂わんばかりの悪戯な笑みを見せたお兄様に、そう無難に言葉を返しながらも、私はどこか上の空だった。

 その理由はお兄様が口にした“スハイル”という名前に聞き覚えがあったからだ。

 いや、この国の王弟殿下なのだから、その名前を知っているのは至極当然なことであり、むしろ公爵令嬢である“ユーフィリナ”が王弟殿下の名前を知らないことの方がより問題があると思われる。

 故に、聞き覚えがあることは、なんら不思議なことでもないのだけど、私の中では先程から奇妙な感覚が渦巻いていた。

 そう、その名前に聞き覚えがあったのは“ユーフィリナ”の記憶ではなく、“白井優里”の記憶の方だという感覚が――――――――

 “スハイル”なんて、明らかに日本人とは思えない名前。

 極端に交友関係が少なかった自分の前世を思えば、知り合いなはずもない。

 そもそも外国人に知り合いなどいない。

 だとしたら、よく読んでいたファンタジー小説のキャラか何かかしら?と、一人疑問符を頭にくっ付けながら考え込む。

 しかし、今はそんなことよりお兄様の追い出しが先だと思考を切り替えようとしたところで、誰かの声が脳内で再生された。

 

『――――――ちょっと白井さん、聞いてる?だから、またあのユーフィリナにスハイル様との仲を邪魔されたのよ。ったく、あの悪役令嬢、いつもいつも横槍ばかり入れてきて!こうなったらスハイル様の好感度をグッと上げて、最後の最後に思いっきり断罪してやるんだから!』


 …………………………………………………………………………はい?

 私が………………………断罪?

 いえ、気にするところはそこじゃなくって、ううん、そこも十分気にしなければならないところだけれども、今はそうじゃなくって………………

 私が…………ユーフィリナが………………悪役令嬢!?

 はいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ‼

「ま、まさか嘘でしょう~〜〜〜〜〜ッて、痛ぁぁぁぁぁいッ!!」

 一度ならず二度までも、自分の声と衝撃的内容のせいで痛めた後頭部に鈍痛が走り、ベッドから跳ね起きる。というのはやっぱり気持ちだけで、実際は高級ベッドの自慢のスプリングをもってしても、私の身体は数ミリも浮き上がることなく、ただただベッドの上で悶絶する羽目になる。

 しかも今度はお兄様の目の前で。

「ユーフィリナ、大丈夫か!?おい、誰か!今すぐ医者を呼べッ‼」

 どこか遠くに聞こえるお兄様の焦ったような声。

 今回の衝撃は一度目の比ではなかったらしく、もはや意識も朧気だ。

 だけど、そんな混濁した意識の中では――――――――

 いやいや、これはさすがにファンタジー小説の読みすぎでしょう…………

 そう冷静に分析する“白井優里”としての私がいて――――――

 いいえ、今度こそ悪い夢を見ているのかもしれないわね…………

 と、早々に現実逃避をし始めている“ユーフィリナ”としての私がいる。

 でももし、これがただの空想でも悪い夢でもなく、本当に現実の話なのだとしたら、これだけははっきりと言える。


 私が悪役令嬢だなんて、これは明らかにキャスティングミスです!


 そう“白井優里”と“ユーフィリナ”の見解が完全に一致したところで、私の意識はぷつりと途切れた。

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