(2)

 正直に白状すると、落ち着いてゆっくり考えるためには、今の私にとってこのお兄様の存在は邪魔でしかない。

 だからといって、心配して我先にと部屋に駆け込んできてくれたお兄様に対して「もう私は大丈夫ですので、お兄様はそろそろ部屋からお引取りいただけますか?」などと平然と言えるほど怖いもの知らずでも、非常識でもない。

 しかも、その点に関して言えば“白井優里”と“ユーフィリナ”の共通認識は同じようなので、私の基本性格は転生してもそこまでの大差はないらしい。

 そうなってくると、お兄様の意思で出ていってもらうしかないのだけれど――――……

「ユーフィリナ、どうした?何か言いたいことがあるなら、遠慮せずに言いなさい」

 まぁ、お兄様ったら、なんて察しがいいのかしら。少し私が見つめただけで、まるで私の心の裡を読んだかのように問いかけて下さるなんて。

 お兄様の有能さに思わず笑みが漏れてしまう。とはいえ、素直に「私の精神衛生上のためにも、今すぐ出て行って欲しいです」と言えるはずもない。なので、ここはもう大丈夫だというアピールをするとともに、情報収集もしてしまおうと画策する。

 我ながらナイスアイデアだわと思いつつ、私は慎重に口を開いた。

「あのお兄様、お伺いしたいことがあるのですが……」

「ん?なんだ?」

「あの馬はどうしてあんなところにいたのでしょう?」

 一番手近にある疑問であると同時に、至極尤もな質問だった。

 あくまでも“ユーフィリナ”の記憶によればだけれど、私はあの時“あんなところ”――――――“広い公爵家の敷地内に設けられた庭園”にいた。

 腕のいい専属の庭師が丹精込めて造り上げた公爵家自慢の庭園に。

 いくら公爵家が広い敷地を有しているとはいえ、馬を放し飼いにしているはずもない。ましてや、景観を楽しむために整えられた庭園を、馬のために開放するとも思えない。

 つまりあの時、私は馬に蹴られるはずもない場所にいたにもかかわらず、このような事態に陥っているわけで…………

 ほらほらお兄様、私の記憶も意識もしっかりしていますよ(実際は大混乱中ですが)。だからもう心配は不要ですので、質問にお答えいただきましたら私を一人にしてくださいね(私の心臓のためにも)。

 という念を込めて、“ユーフィリナ”の耐性スキルを総動員しながらお兄様を一心に見つめ、その答えを待つ。

 すると、「そのことなんだがな……」と口にしつつお兄様は苦笑となった。

「今夜の夜会のためにと、厩番のマタルが念入りに馬の手入れをしていたらしいのだが…………」

「今夜の夜会?」

 予想外の単語の登場に、私はベッドの上でコテンと首を傾げた。そんな私の様子に、お兄様が怪訝そうに眉を寄せる。

「ユーフィリナ、お前…………覚えていないのか?」

「えっ?」

「馬に蹴られたと思い込んでいたことといい、今夜の夜会のことといい、何もわからないとは…………まさか、頭をぶつけたせいで記憶障害が!」

「ち、ち、違います!全然違いますよ、お兄様!どうか落ち着いてくださいませ!こ、これはですね、えっと……そ、そうです!寝起きのせいで思わず勘違いしてしまったのと、ちょっとど忘れしていただけで……決して頭を打ち付けたことによる記憶障害ではありませんから!」

 あっという間にどこかの険しい大渓谷並となったお兄様の眉間に慄きながらも、私は大慌てで“ユーフィリナ”に記憶を掘り起こすように頼む。

 あぁ……普通の会話をすることで混乱も錯乱もないですよとアピールするつもりが、これでは完全に逆効果じゃないの!

 “ユーフィリナ”お願いだから今すぐ思い出して!

 絵柄にすれば、う〜んと頬に手をあて考え込む“ユーフィリナ”としての私の横で、“白井優里”としての私がわたわたと慌てふためきながら急かしている感じ。

 ちょっとした多重人格者の様相である。

 しかし実際問題、今の私はそんな状況であり、これ以上の厄介事は御免被りたいところなのだ。

 たとえば、このままお兄様の心配が限界まで振り切ってしまい、再びお医者様や回復師、さらには呪術師まで連れてくるとか、二度とこんなことが起こらないようにと、お兄様がどこぞの護衛騎士かの如く私に四六時中べったりと張り付くとか………………うん、考えただけでも寿命が縮むわね。

 ま、さすがにそれはないだろうけれど、と自嘲気味に打ち消したところで、もう一つの意識が甘いわね、とばかりに囁やいてきた。

 そうね……お兄様のことだから、王家お抱えの最高位のお医者と回復師、ついでに呪術師をまとめて拉致してきて、すべての危険から私を守るために屋敷の一室に監禁しちゃうわね。きっと………と。

 “ユーフィリナ”からのとんでもない囁きに、“白井優里”の私は内心で仰け反った。それはもう前世で観たアクション映画のヒーロー並みに。

 ひえぇぇぇぇぇぇぇッ!嘘でしょう!嘘だと言って!このお兄様って、そんなキャラなの⁉

 ま、ま、まさか転生したら、超絶麗しくて、超絶シスコンなお兄様が漏れなく付いてきたってこと⁉

 なんか全然有り難くないと思うのは気のせいかしら?いいえ、気のせいどころか、まったくもって有り難くないわね。というか“ユーフィリナ”!そんな忠告をしてる暇があるなら、早く思い出してちょうだい!!

 他力本願だろうが(いや、“ユーフィリナ”は自分だけれども)、藁だろうが、この際縋れるものには全力で縋りつきたいそんな心境。

 なんせ1メートルの間も置かず、世界遺産並の巨大渓谷を眉間に築いたお兄様が目の前にいらっしゃるのだから、こちらも必死だ。しかも………………

「やはり公爵家お抱え程度の者たちではダメか。こうなったら夜会のどさくさに紛れて王家お抱えの者たちを……………」

 などと、どう聞いても穏やかではないどころか、物騒極まりないことを顎に手をあてながらお兄様がぶつぶつと呟いている。

 お、お兄様、どさくさに紛れている時点で、それは正式なルートではないですよね!

 だいたいどさくさに紛れて王家お抱えの者たちをどうするおつもりですか!

 もちろん、ご挨拶をしようってわけじゃないですよね!まさかとは思いますが、拉致ですか!いえ、もしかしなくても拉致ですよね!

「お、お兄様ッ!」

 お兄様の暴走を止める妙案が浮かんだわけでもないけれど、ただただ引き止めたい一心で、お兄様の思考を遮るべく声をかける。それと同時に、意識下で“ユーフィリナ”がびしっと片手を挙げた。

 もちろん、本当に挙げているわけではない。でも、それくらいの勢いで“ユーフィリナ”の意識が猛アピールしてきた。

 ご所望の記憶を思い出しました、とばかりに。

 でかした“ユーフィリナ”!と盛大に褒め称えつつも、シーツをひしと握りしめながら、先程の呼びかけに応じるように、私へと視線を戻したお兄様に向かって口を開く。

「お、お兄様、思い出しましたわ!確か………王弟殿下が無事にデオテラ神聖国からお戻りなられたことを祝う夜会でしたよね!」

 別に全力疾走したわけでもないのに、私の精神はすでにゼイゼイと息も絶え絶えとなっている。

 そんな私の疲労困憊気味の精神状態を知らないお兄様は、しばらく私の様子を窺うようにじっと見つめた。

 真剣なお兄様の眼差しに、この場から今度こそ全力疾走で逃げ出したくなるけれど、生憎ベッドから起き上がれぬ身。

 唯一今の私にできる逃亡の手段は目を逸らすことだけ。けれど、ここで目を逸らせば負けだと、取り敢えず必死に耐え凌ぐ。

 兄妹の間で繰り広げられる無言の応酬。

 本当に本当に私は大丈夫ですから!!

 だから絶対に拉致なんかしてはいけません!!

 そんな私の念が届いたのか、お兄様はようやく僅かに眉間の渓谷を緩めると、やれやれとばかりに息を吐いた。そして、話を続ける。

「そうだ。その傍迷惑な王弟殿下の帰国祝いの夜会に参加するために、マタルが馬の手入れをしていたのだが、どうやらその時に馬が蜂に刺されたらしくてな……」

「まぁ、蜂に?」

 お兄様が口にした“傍迷惑”という言葉が、王弟殿下にかかるのか、夜会にかかるのかはまったくもって判断がつかなったため、そこは敢えてスルーし(むしろ追及してはいけない気がする。私の精神衛生的にも)、その後に続いた話の内容に対してのみ純粋に驚く。

 そんな私にお兄様は柔らかく目を細めた。

「あぁ。それで馬がパニックを起こしたらしくてな、マタルの制止も振り切り暴走した挙げ句、庭園まで入り込んでしまったらしい」

「マタルに怪我はなかったのですか?暴走した馬は大丈夫なのですか?」

 マタルにしても、馬にしても完全なる蜂の被害者だ。なのに、偶々私がくだんの庭園でぼんやりとしていたせいで処罰なり、処分なりされていたら可哀想すぎる。

 “ユーフィリナ”の記憶からマタルの人の良さそうな笑みが浮かび上がってきた。二十代半ばの少し垂れた目が印象的な、焦げ茶の髪を短く切り揃えた気さくな青年。

 とても馬が好きで、自分の子供のように面倒を見ていた。それは傍から見ていても微笑ましいほどに。

 また、忠義者でもある彼のことだ。

 蜂に刺されパニックを起こした馬を必死に宥めようとしたはずだ。自分の身を張ってでも――――――

 あぁ、命にかかわる程の大怪我を負っていなければいいのだけれど。いいえ、怪我をしていなくとも、彼のことだから責任を取ろうとして…………

 それに馬だって、蜂に刺されたのだから無事ってわけではないわよね。

 まさか今頃、蜂の毒が体に回ってそのまま…………

 ろくでもない想像ばかりが浮かび、私の顔は悲壮感でいっぱいになる。

 おそらく夕焼け色に染まった部屋でも、今の私の顔色が蒼白となっていることは丸わかりだろう。

 そんな私の顔を見て、お兄様は私の前髪をくしゃりと撫でた。

 その大きな手に、一瞬私の心臓が跳ねる。でもそれはほんの序ノ口。

 それからお兄様はゆっくり私へと身を乗り出してくると、私の額にお兄様の額をコツンと押し当てた。

 ひいぃぃぃぃぃッ!!

 近い近い近い近い近い!!っていうか、額と額が完全に密着しています!!

 この状況にお気づきですか、お兄様⁉いえ、お気づきですよね、お兄様!!

 残念すぎる前世の弊害で男性に免疫がまったくない“白井優里”としての意識が、完全に白目を剥きかける。

 しかし、“ユーフィリナ”としての意識が、これはお兄様が小さい頃から毎日してくれているおまじないよ。たとえ悲しいことや怖いことが起こっても、いつだってお兄様がいるから大丈夫だというね――――と、親切にも語りかけてくれる。

 毎日の…………おまじない?

 このおでこコッツンが?

 瞬間、白目を剥きかけていた“白井優里”の意識が、あり得ない話を聞いたとばかりに覚醒と同時に目を剥いた。

 いくらこれがおまじないであろうと、日課であろうと、いやいやいや、これはちょっと待て!!だ。

 ま、毎日ですかッ⁉これを⁉今も⁉ずっと⁉一日もかかさず⁉

 私は命さえ危ういのに、“ユーフィリナ”、あなたの心臓は鋼ですか⁉超合金ですか⁉

 いえ、幼い頃からこのおまじないをやり続けてきた“ユーフィリナ”の心臓は今や最強なんでしょうね…………それはもう恐ろしいまでに…………はい、完全に理解致しました。

 毎日の日課であり、当然のこととして受け止めている“ユーフィリナ”に畏怖の念を抱きつつ、実際の私はギュッと目を瞑り、息を止める。

 当然のことながら、“白井優里”としての私の心臓は最強どころか最弱だ。我が身を守るためには視覚という情報を遮断しつつ、ついでに嗅覚も遮断するに限る。

 しかしながら、額から伝わるじんわりとした熱だけは防ぎきれず、蒼白だったはずの私の頬をじわじわと紅く染め上げていく。そしてその熱は、やがて私の全身に隈なく行き渡り、胸の奥底で小さな焔を灯した。

 実際に灯ったかどうかは別として、ただそんな気がした。

 何?この感覚…………

 不足していた何かが満たされたかのような感覚。

 緊張や羞恥心からくる火照りではなく、欠けていた心を補填され、絶対的安心感を手に入れたかような―――――――ぬくもりと優しさに包まれているような感覚。

 だけど、そう思ったのは刹那のことで、この超絶麗しいお兄様とおでこコッツンという“白井優里”としては非現実的な状況を前に、その感覚は呆気なく霧散してしまう。

 尋常ではない速さで脈打つ心臓は、その勢いのまま今にも口から飛び出してきそうだし、ただでさえ混乱中の脳は熱に浮かされて茹で上がってしまいそうだ。

 そんな私に止めとばかりに、お兄様の甘いバリトンの声が、これまた無防備な聴覚を擽ってくる。

「ユフィ、大丈夫だ。心配するな。マタルも馬も無事でいる。蜂の毒の解毒も済んでいるし、処罰も処分もしていない。もし今回の件で罪があり、罰する必要がある者がいるとしたら、それはすべての元凶である蜂だからな。そしてその蜂も厩舎前で転がっているところをマタルが見つけた。つまり蜂も死という罰を受けたということだ。だから安心して、今は何も考えず休め」

 そう告げて、お兄様は甘い声の余韻と熱を残し、私からゆっくりと離れた。

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