1. これは明らかにキャスティングミスです!
(1)
「ひぃぃぃッ…………!」
人間、本当に驚いた時は悲鳴一つ出ないものだと、身を持って知った。
引き攣った喉に張り付いたままの悲鳴。そもそもこの私に可愛らしい悲鳴を出せる機能など付いていなかったのかもしれない。
眼前に迫る馬の蹄。
あぁ、これは間違いなく死ぬわね………
頭のどこかで冷静に判断する自分がいる。と同時に、冗談じゃないと叫ぶ自分もいる。
当然だ。死亡原因、馬に蹴られたから――――――――なんて、人の恋路を邪魔したわけでもないのに、こんな死に方はあんまりすぎる。それに私はまだうら若き十六歳。幸せなるのはまさにこれから。いいえ、これからのはずだ、とそう思いたい。
とどのつまり……………
まだ、死にたくないッ!!
とはいえ、この状況を避ける時間的余裕もない。その前に、そんな運動神経もスキルも持ち合わせてはいない。
私ができる唯一のことは衝撃に備えて、身体を固くし、目を瞑ることだけ。
早い話、硬直だ。
そして、大した防衛手段も準備も講じられないままに――――――……
ガツッ!!
頭に齎された打撃。
しかし、なんで後頭部?
そんな疑問もお構いなしに、暗転していく私の意識。
瞬間、走馬灯が…………
なんて呑気なことを思ったけれど、私の脳裏を掠めていった走馬灯は、今の私ではない私の記憶だった。
☆ ☆ ☆
「………………あ…れ?こ…こは……?」
ぼんやりとした思考。
ぼんやりとした視界。
カーテン越しに窓からベッドへと差し込むオレンジ色の光に、今が夕暮れ時なことを知る。そして私の真正面にある天井は妙にやたらと高い。
寝起きのぼんやり感のせいだとはとても思えないほどに。
それに私のオンボロアパートの部屋の天井には、お化けにも見えるおどろおどろしいシミがあったのに、今の私が見つめる天井にはそれがない。それどころか、ナントカ調の優美な模様が品よく施されたおどろおどろしいシミとは完全に真逆のものだ。
これは一体どういうこと?ここはどこなの?と、依然として働かない頭で考えつつも目だけで横を見やれば、畳張りの六畳一間だったはずの部屋はその面影すらもない。
というか、草臥れ方も和のテイストを存分に取り入れた私の部屋が、レースふりふりの可愛らしい洋風の大広間に様変わりしている。
一言でいえば、西洋感溢れるお姫様仕様の部屋だ。
「……………え…………っと……ん?…あ……れ?…………私は………」
ここは一旦落ち着いて一から考えみようと、まずは自分の名前を思い出すことにする。
現状把握は、どんな難事件においても初歩の初歩。そのまず第一歩目が自分の名前というわけだ。
まったくもって情けないことに…………
しかし、ここではたと思考が止まる。
何故か私の頭の中に、似ても似つかぬ名前が2つ同時に鎮座したからだ。
「……白井…優里……と………ユーフィリナ・メリーディエース?」
とりあえず思いつくままに、2つの名前を口にしてみる。
自分でも呆れるくらい不安げに、しかも疑問形で。
もちろん、誰かに尋ねるまでもなくこの部屋に似合うのは後者の名前。
そして記憶のオンボロアパートにしっくりくるのは前者の方で………………
はい?
私はいったいどちら様?
というか、どっちが私?
そう自問した瞬間、私の目がこれ以上ないほどに見開いた。
あり得ない答えを前に――――――――
「ま、ま、まさか嘘でしょう~〜〜〜〜〜ッて、痛ぁぁぁぁぁいッ!!」
自分の声と衝撃的な答えのせいで後頭部に鈍痛が走り、ベッドから跳ね起きる。というのは気持ちだけで、実際は高級ベッドの自慢のスプリングをもってしても、私の身体は数ミリも浮き上がることなく、ただただベッドの上で悶絶する羽目になっただけだけど。
しかし、私の声はこの広い部屋を突き抜け誰かの耳にしっかりと届いたらしい。
ツカツカという早歩きよりも、やや駆け足に近い足音が近づいてくるやいなやノックもなく扉が開いた。
ベッドの上で悶絶しながらもギョッと顔だけを扉の方へ向けてみる。だけど、既に足音の主は私の傍まで来ており、まるで瞬間移動のような速さだなと思う間もなく、新たな衝撃がまたもや鈍痛の余韻に悶える私を襲った。
な、な、な、なにこのイケメンはッ!
いや、これはもうイケメンなどという陳腐な言葉で語っていいレベルではないわ。
あぁ……私の語彙力がぁ………っていうか、近い近い近いです!今度は本当に心臓が止まっちゃいますからぁ!
夕暮れ時の最小限の灯りしかない部屋でもわかる。
光の加減で淡紫を纏いし銀にも、濃い闇を思わせる紫紺にも見える美しい紫銀の髪。
寸分の狂いもなくシンメトリに配置された顔のパーツ。
そのパーツ一つ一つが完璧な造形を為しており、どこからどう見ても欠点一つない相貌となっている。
そんな神が創り上げた超傑作の美術品ともいえる美麗な顔立ちの男性が、珠玉のアメジストの如き瞳を揺らしながら、ベッドの上の私を心配そうに覗き込んでいるのだ。
これは眼福ものだと思うよりも先に、自分の心臓の心配をする方が断然先となるのは当然の話。
しかし、そんな私の状況を知る由もない男性は、心配そうな表情のままで矢継ぎ早に声をかけてくる。
「ユフィ気がついたのか?大丈夫か?気分はどうだ?吐き気とかはないか?」
あなた様のお顔の麗しさが凶器となって、今にも心臓が限界を迎えそうです………………とはさすがに言えない。
ユーフィリナとしての記憶によれば、この男性は公爵家嫡男であるセイリオス・メリーディエース。私の実兄。見慣れていて当然の顔なのだから。
しかし今の私は生憎、絶賛混乱の中にいる。
そう、現在私の頭の中に鎮座する2つの名前とそれに付随する記憶と意識。それらが混じり合うことなく、互いに脳内で主張し続けているところを鑑みるに、どうやらどちらも本物の記憶であり、至極真っ当な意識らしい。
だとしたらこの状況はどういうことなのかと頭を抱えたくなるが、まさかとしか思えない結論へと、早速手を伸ばしつつある自分がいる。そんな自分を――――――
いやいや、これはファンタジー小説の読みすぎだわ…………
そう冷静に分析するのは“白井優里”として私。
いえ、私は悪い夢を見ているのかもしれないわね…………
と、現実逃避をし始めているのが“ユーフィリナ”としての私だ。
だけど今は、覚醒したばかりの“白井優里”の記憶と意識に強く引っ張られている状態のため、驚くほどあっさりと私の結論は奇想天外な方に揺らいだ。
私の前世は“白井優里”という名で、現在は“ユーフィリナ・メリーディエース”という公爵令嬢に転生したという、本来なら簡単には受けれ難い摩訶不思議な方向へ。
そしてこの超絶美麗なお兄様を前に置いて考える。
もちろんここは実妹“ユーフィリナ”として答えなければいけないわね、と。
しかし残念ながら、今の私の脳内図を展開すると、“白井優里”が7割で、“ユーフィリナ”が3割という状況。つまり、このお兄様への耐性が実質3割しかないわけで、“ユーフィリナ”として当然のように持ち得ているはずの耐性がかなり貧弱化しているのが現状だ。そのため――――――
「だだだだだだだだだ大丈夫ですわ!セイリオスお兄様」
タイピングミスかのような“だ”の連打。“ユーフィリナ”としての意識が、いつもの私はこんな風ではないわ、と訴えかけてくるが、今だけはほんと許して欲しい。
そして麗しきお兄様も、奇異なものを見たかのように片眉を上げないでいただけますか。そんなお顔も嫌味なほど様になっているとはいえ、微妙に傷つきますので。
だけど、混乱と動揺の坩堝にいる妹を前に、お兄様はどこまでも冷静だった。
「ふむ。やはりまだ大丈夫そうではないな。馬に蹴られなかったとはいえ、木に頭を強くぶつけたのだ。直ぐに医師に診断させ、回復師に頭のコブだけは治癒させたが、痛みはまだ完全に抜け切れていないのだろう。打った場所が頭なだけに、後々どんな後遺症が出るかわからない。とにかく今日はこのまま安静にしていなさい」
そう真摯に返し、シーツを首元までかけ直してくれる。しかしその内容を聞いて、私の口からは「ふぇっ?」と変な声が出てしまった。
慌てて両手で口を押さえてみたけれど、一度漏れ出た声が、二度と呑み込めない仕様となっているのはどの世界でも同じ。
「ユーフィリナ?」
お兄様からの訝しげな痛い視線を諸に受けつつ、私は言い訳ではなく、質問のために両手の戒めを口から離した。
「し、失礼いたしました。あ、あ、あの私は……馬に蹴られたのではなく、木に頭をぶつけたということでしょうか?」
実のところ、現在進行形で大混乱中ではあるものの、自分がベッドにいた理由はなんとなく覚えていた。これは“ユーフィリナ”の記憶が教えてくれたと言ってもいい。
なのに、覚えていたはずの記憶と妙に噛み合わないのは何故かしら?と内心で首を傾げる。
確かに意識を失う前に受けた衝撃の場所は後頭部だった。だけど、最後に見た光景は眼前に迫る馬の蹄で、今の今までてっきり馬に蹴られたものだと思い込んでいたのだ。
しかもお兄様は「馬に蹴られなかったとはいえ――――」と口にしていた。それは馬に蹴られそうだったけれども、結局は蹴られなかったということで………………んん?
本当にどういうこと?と既に医師の診断を受け、回復師とやらに治癒されたコブ一つない頭に手を当てながら考えていると――――――
「いや、馬に蹴られていたのだとしたら、コブなんかではとても済まない。頭をかち割られてその場で死んでいたはずだ。そうなれば呼ぶのは医者でも回復師でもなく、葬儀屋だ」
はい、お兄様。的確なご意見かつ冷静な突っ込みありがとうございます。でも私はこう見えて、いえ、見たまんまではございますが、かなり混乱中なのです。だから、たとえ馬に蹴られてもピンピンと生きているこの状態をあっさり受け入れてしまっていたのです。なんせ転生者であることを、いとも簡単に受け入れられたくらいですから。
そんな言い訳をつらつらと心の中で並べながらも、途切れる前の記憶を辿り始める。
しかし、自己防衛本能が働くのか、どうやら一連の事柄は恐怖体験と見做されたらしく、肝心なところが何一つ思い出せない。
だけど――――――と、まとまらない思考で、なんとか自分の中で折り合いをつけるべく考えてみる。
お兄様の言うとおり、真正面から馬に蹴られたのならば、私の命がとうになかったことは確実だ。だけど私は助かった。それはつまり――――――――……
きっと反射的に馬を避けるかして、うっかり後ろの木に頭をぶつけてしまったのね。
うん、そうに違いないわ。
私ってば思いっきり間抜けだけれど、案外運がいいのかもしれないわね。
そう思えば単純なもので、あたかもそれが真実であるかのように思えてくる。
だいたいあの状況で馬の蹄を避けるだけの時間も、運動神経も私にはなかったはずで、ましてや咄嗟に瞬間移動したとも思えない。先程部屋に入って来たお兄様のように。
ま、お兄様の場合は単に足の長さによるものだから、実際は瞬間移動でも魔法でもないのだけどね…………と自嘲とともに思いかけて、いいえ、ちょっと待って――――と思い直す。
そうよ。この世界の人々は魔法が使えたはずだわ。
お兄様も先程言っていたじゃない。頭のコブは回復師に治癒してもらったって。
それって、光魔法専門の魔法使いのことよね。まぁ、そんなことに今頃気づくなんて、私ったらどこまで愚鈍なのかしら。
そして、私こと“ユーフィリナ”も非常に僅かではあるけれど魔力を有していたはずよ。
――――――――――と。
だとしたら、やっぱりあの時私は、無意識下で魔法を行使していたんじゃないのかしら…………と思いかけて、いいえ、残念ながらそれはないわね――――とその思いつきに、すぐさま首を振った。
“白井優里”としての意識はともかくとして、“ユーフィリナ”としての意識が、いくら魔法が使える世界でも、それは無理だと告げてきている。それ以前に、そもそも私の魔力では、到底そのような芸当ができるはずがないとも。
なるほど。私の魔力はこの世界の底辺の中の底辺なのね。公爵令嬢な上に、転生者でもあるのに。
まぁ、前世の自分のことを思えば、転生後の身分が公爵令嬢というのも分不相応ではあるけれど、魔力に関して言えばなんとも私らしいというか分相応というか…………
うふふ、でもおかげでちょっとホッとしたわ。
ほら、ファンタジー小説によくあるじゃない。転生したら、最強だった⁉…………みたいな?
でも私には当てはまらないみたいだわ。あぁ、よかった。
これで、うっかり最強の魔力なんかを持っていて、突然この世界を救えとか言われても困るもの。うん、そんなのどう考えても無理よ無理。
そうよ。私は底辺の中の底辺の公爵令嬢。
更にそれ以下はあったとしても、それ以上ってことは絶対にあり得なるはずがないわ。日陰でこっそりと地味に暮らすのがお似合いなのよ。(※注:公爵は爵位の最高位です)
幾分か安心できる要素を見つけ出せて、僅かばかり肩の力が抜ける。でもそれも刹那のこと。すぐに、とはいってもねぇ…………と、思考を元へと戻す。
結局のところ、馬をどうやって避けたかはこの際放置でいいとしても、今の状況を整理する必要があるのは確かだ。それも早急に。
これからこの世界で“ユーフィリナ”として生きていくなら尚更のこと…………
そう結論を出し、今や私の混乱の一因となっている見目麗しすぎるお兄様へと視線を向けた。
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