第12話 8月17日(2)

「マジックアワーだ!」


 以前にカフェで飲んだメロンソーダの色と瓜二つだった。だだっ広い空のキャンバスにうっすらと伸び渡る金色の美しさ、自然と瞼が持ち上がる。


 まるで誰かに描かれたようなその姿は、いつまでもその形を残しているようで、毎秒消え去ろうとする太陽が頭上を暗くし続けているとは思えなかった。とても魅力的な、夜混じりの空だった。


「綺麗だね」


「……そうだね」


 彼と隣同士で空を見上げて立ち尽くしていた。1台のバスがロータリーに到着した音が聞こえ、私は再び声を出した。


「……行こっか」


 私が歩き出すと、彼は後を追って足を動かし出した。家の前を過ぎ、緩やかな上り坂を横に並んで進む。


「本当にこの辺りいいよね。緑が多くて」


「そうなの。だから人が多いけど、そんなに空気が汚いとかも思ったことないし」


「僕もこの辺が良かったなー」


「この辺が良かったって?」


「昔、僕が小学校に上がって間もない時に、僕も実は引っ越したんだよ」


 彼の過去話に体が反射的に振り向いた。私がずっと知りたかったことだった。




「けれど、幼稚園の時の記憶がほとんどなくて……」


「え!?」


 声が喉の下から飛び出した。その声量に彼も驚いていた。そして次に話す内容に、私は頭の整理がつかなかった。


「僕もその時の事はあまり覚えていないんだけど、どうやら児童センターの、遊具から落っこちたらしくて、救急車で運ばれたらしい」


 彼が嘘をつくような人ではないのは知っていた。だからこそ疑いたかった。


「……大丈夫なの?」


 思考がはっきりとしない。自分の感情もよくわからない。


「うん、今は全然問題ないんだけどね、当時は脳に多少のダメージがあったらしいんだ。だから前に住んでいた場所とか、なんとなくしか友達も思い出せなくて」


 にわかに信じ難かった。私が追い求めていた彼は、彼の記憶は、失われてしまっていたのだ。


「…………そうなんだ。大変だったんだね」


 なんと言うのが正解なのだろう。もうあの頃の私を覚えていないのだろうか。思い出すことは無いのだろうか。もう希望も何も無いのだろうか。答えの出せない疑問ばかりが脳裏を横切る。どうしてか、妙に冷静だった理由は私にもわからない。


「見て、翠さん、空がすごいよ」


 彼が振り返り、私も歩いてきた道を振り返る。私達の背中を見守っていた太陽が隠れていた。


「……ブルーアワーだ」


 マスターが以前、私に話してくれたことを思いだした。私は本当に忘れられてしまっていたのだ。私はとことんついてない人間なようだ。そう自覚すると、涙すらも出なかった。




「口、開いてるよ」


 彼の言葉に、無意識に隙間ができた口を向けると目が合った。プッと吹き出す彼を見て、私は笑顔になれた。昔の私は忘れられてしまったけれど、今こうして彼の横で笑っていられる事実は本物だ。私は、不幸な幸せ者のようだ。


「前にね、颯君と知り合う前、マスターからもらったぶどうジュースの名前に、ブルーアワーって言葉が入っていたの。これのことかぁって思って」


 誤魔化した感情が、彼に気づかれないことを祈った。


「そうなんだ。僕も飲みたかったな。そういえば、翠さんはいつからマスターのところに行くようになったの?」


「えっとー、確か2年前の春頃だったと思う」


「あ、じゃあ結構前なんだね」


「そう、この辺りに来てから、中学校の頃の友達もいないし、完全に浮いてたの。そこで突然、もう全部が嫌になっちゃって、学校を休んで散歩してたら……」


「あの場所を見つけたのか」


 嘘を混ぜるしかなかった。本当は死に際であの場所を見つけた、なんて言えたものじゃない。道の先を見つめる私は黙って頷いた。


 しばらく歩くと、車も少なくなってきて、人通りも減ってきた。




「あ、もしかして戻ってきた?」


「そうだよ、もうすぐであの池のところ」


 随分と遠回りをした。20分以上は歩いただろうか。彼が以前に住んでいたアパートの前を通ったことは、胸の内側に秘めておいた。


「コンビニ寄っていい?」


「うん、外で待ってるよ」


 私は橋の近くにひっそりと夜道に光を広げるコンビニへ入り、アイスの袋を手元からぶら下げながら彼のもとへ戻った。


「はい、半分こして食べよ」


 階段を下り、橋横のベンチで足を休める。太陽はすっかり気配を消していた。


 2個セット、コーヒー味のアイスをパキッと音を立てて分離させ、片方を彼に渡した。


「さっきのお礼ね」


「ありがとう」


 とても静かで、水の流れる音が耳を擽る。


「このアイス、蓋? っていうのかな、開けた側に入るアイスも食べちゃわない?」


 貧乏くさく、僅かにアイスが入り込んだ蓋を口にしながら喋る。




「わかる、絶対残さず食べちゃう」


 彼も同じように蓋の方を口にしていた。同じような価値観に笑みが零れる。


 雲が私達の頭上を渡っていて、星が隠れてしまっていた。


「翠さんの笑顔ってさ、なんか特別だよね」


 唐突な言葉にプッと吹き出してしまった。


「どうしたの急に」


「いや変な意味じゃないんだけどさ、翠さんの笑顔は、なんていうか、どんな季節にも似合う笑顔をしてる」


 嬉しい気持ちはあったが、理解し難いところもあり首を傾げた。


「よくわからないけど、ありがとう」


 微笑する私を見て、僕もよくわからなくなってきた、と言われてまた笑顔になった。私達にしかわからない、この時間がとても綺麗に感じていた。この心情は、彼の隣にいる時でしか味わえなかった。


 雲を透かして覗く月光が私達を眺めている。甘く化けたコーヒーの香りが鼻につく。




「食べたら帰ろっか」


 アイスも残り半分、彼は頷いた。体温が下がり、夏草を揺らす風が清涼感を与えてくれる。


 先にアイスを食べ終えた私は、ベンチに押されるように立ち上がり、雲の切れ端に目を向けた。


「どんな季節にも似合う笑顔、って言ってくれたよね?」


「うん、言ったけど?」


 背中側で彼が喋る。私は上半身だけ振り向けて、過去の事は忘れようと心に決めた。できる限り前向きに頑張るしかない、その想いと共に、胸から飛び出した気持ちを笑顔と共に彼にぶつけた。


「たぶん、こんなに笑えるのは、颯君がいるからだよ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る