第13話 8月28日

8月28日




 夏休みもとうとう最終日になってしまった。進路関係で忙しくなる2学期を前に、私はマスターに話をつけようとカフェへと着いた。


「お久しぶりです。……何か心境が変わったようですね」


 マスターの勘は本当に鋭かった。しかし私はわかりやすく嘘をつく。


「いいえ? そんなことはないけど?」


 店内の席ではダッチが水を飲んでいた。今日私が話すことは、マスター以外に知られたくなかったのだ。咄嗟の反応に、きっとマスターは察しただろう。


「失礼いたしました。では何かお持ちいたしますね」


 ありがとうと告げ、ダッチの隣へ座って横目でチラ見するとコップに入る水をちまちまと飲み進めていた。


「ダッチ?」


 声をかけてモコッとした毛並みに触れると、ビクンと大きく体を震わせて水を零させてしまった。せき込むダッチに私も驚いた。




「ご、ごめんダッチ、大丈夫?」


「……ミドリさん、いたのか。こちらこそごめんね、気づかなかったよ」


 ダッチは口元から水を滴らしながら再びまた一人、テーブルと向き合った。


「何かあったの? 私で良ければ話聞くよ?」


 鞄から取り出したタオルでダッチの口元を拭くと、一呼吸おいて私にポツリと呟くように質問を返した。


「ミドリさんは……、恋したとき、どんな気持ちだった?」


 コップを両手で握るダッチの表情はどこか照れくさそうだった。


「え!? ダッチ、好きな子ができたの!?」


 黙って頷く横顔を見て、私は頬の力が抜けた。違う生き物でありながら、恋をした時はみんな同じ反応なのだとその時私は初めて知った。


「どんな子なの!? やっぱりかわいらしい子? どこで出会ったの?」


 自席から身を乗り出して質問攻めの私に対し、ダッチは意外にも冷静沈着だった。




「うーん、たまたまあんまり行ったことがない山で虫を探していたら、ばったり?」


 私は腕を組んで背もたれに寄りかかり、椅子の軋む音を響かせながら無意識に上がった口角で声を漏らした。


「いいなぁ恋。素敵だなぁ」


「ミドリさんだって恋してるじゃないか」


 ダッチの一言に、私はうーんと唸って例えを考えた。


「ほら、花は咲いた瞬間が一番若々しくて美しいじゃない? 咲き続ければいつかは枯れてしまうし……」


 俯くダッチはボソッと呟いた。


「枯れちゃうのか……」


「待ってごめん、例えが悪すぎた」


 自分の余計な一言がダッチの心を静めてしまったようだ。慌てて弁解するも、次にダッチが放った言葉に私は深く考えさせられた。




「じゃあ、ミドリさんの恋も、いつかは枯れてしまうの?」


 頭の中には笑顔を向ける彼の表情が浮かび上がる。彼への恋に何年も懸けてきたからこそ、胸に大きく刺さった言葉だった。


「……そんなことない、花は愛情を持って手入れすれば長持ちするわ」


「その後は……?」


 私はダッチの質問に答えられなかった。自分の言葉に虚しくなってしまう。


「とにかく! 恋は実るまで諦めないことだよ、ダッチ!」


 微笑するダッチからは、意外な言葉が私に掛けられた。


「そうだね。なんだかミドリさんといると心が落ち着くよ。僕が人間だったら、きっとミドリさんに恋してたと思う」


 可愛らしい姿とは裏腹に、男の子らしい一言が意外にも私の胸を叩いた。柔らかな体に手を回し、身体に押し付けるように抱きしめた。


「ありがとうダッチ、なんて可愛らしい子なの」




「やめてってば、僕は男だって!」


 ハグを拒まれ、揶揄われるとダッチはいつもの口癖を言う。そんな姿も含めて、とても素敵な出会いをしたなと改めて実感する。


 カタカタと浮いたような音が聞こえ、目を向けるとトレイを片手にしたマスターが私の前へ、色のない透明な空のティーカップと小皿に立ち乗ったカステラを用意してくれた。


「本日は秋らしいものをと思いまして、『イベリスのアイスティー』と『願いのカステラ』になります」


 アイスティーのカップはダッチにも配られたが、一口サイズのカステラは私の分しかないようだった。ダッチの分は無いのかと尋ねると、私が来る前、既に食べていたらしい。


「イベリスって?」


 ダッチの疑問に、私が答えた。


「そういう花があるの。白くて素敵な花よ」


 よくご存じですね、そういったままマスターは特にティーカップを見るだけで中身を入れてはくれない。




「マスター、これ、空に見えるのだけれど……」


 柔らかな毛並みがそろう腕を胸に添え、マスターは目を瞑った。


「そのカップに注がれる紅茶は、初恋を味に変化させてくれます。目を瞑り、当時の気持ちや天気、相手の表情などを思い浮かべますと、液体という形として現れてくれるのです」


 私とダッチは一度目を合わせると、マスターの言うとおりに瞼を降ろした。彼との出会いは遠い昔だ。天気や時期までは思い出せなかった。ただ素直に胸に刻まれた記憶は、喜びの感情だけだった。


 再び目を開くと、確かに透き通るような朱色の紅茶が波もなく注がれていた。ダッチの紅茶はとても濃い色をしていた。


「ダッチは記憶が新しいため、よりはっきりと味わえるかと思います」


 私はそっとカップの縁に唇をつけ、舌の奥へ紅茶を流し込んだ。すると視界がぼやけ始める。袖で摩るも、何か霧のようなものの中へ溶けていってしまっているような感覚だ。




 何度も目を擦るうちに、ようやく何かが見えてきた。……女の子が……泣いている。


 ここは……教室? やけに視野が狭く、目線が低い。体が私の意思とは反して動く。泣いている女の子を前に、体はどこかへ走り出す。


 扉をノックする小さな手が映る。声は……聞こえない。誰かが部屋から出てきたようだ。巨人のように自分の身体より何倍も大きい。何か話をしているようだが、口の動きだけでは流石にわからない。視界も悪く、誰なのかわからない。


 その手には絆創膏が渡された。小さな手で握り締め、走り出した先にはさっきの女の子が座り込んでいる。どこかで見たことがあるような子だった。


 そしてようやく聞こえた言葉は、私の声ではなかった。


「転んじゃったの? 先生から絆創膏貰ってきたよ」




 その一言で、ハッと気づくと私は元の身体に意思が戻っていた。


 軽く息が上がっていた。私は焦るようにもう一度紅茶を体へ流し込む。しかし、再び視界がぼやけることは無かった。


「マスター……」


 私は朦朧とする頭でマスターを見上げた。


「どうでしたか? イベリスのお味は」


 そうか、イベリスの味……そういう意味だったのか……、とようやくこの紅茶の意味を理解した。


 ダッチへ顔を向けると、喜んでいる様子だった。


「マスター、彼女僕の事気になっている様子だったよ!」


「それは良かったです」


 マスターはニコリとはにかんだ。




「……え?」


 私は理解が追い付いていなかった。唖然とする私にダッチは語りかけた。


「紅茶を飲んで何か見えたでしょ? 何がどんな風に見えたかによって、相手が自分をどう思っているのかわかるんだ」


 様々な疑問は浮かんだが、なぜダッチにそのことがわかるのか、まず私はそのことを訊いた。


「どうしてそんなことわかるの?」


 ダッチは首を傾げて私を不思議そうに見つめて答えた。


「どうしてって……。見えた彼女がそう言ったんだ。僕の事が気になるって」


 私は力の寄った眉間をマスターに向けて問いただす。


「それは本当なの? 本当だとしたら、どうして私はうまく見聞きすることができなかったの?」


 何か焦りのようなものが私にあった。それに対し、マスターは耳一つ動かさなかった。


「先ほども言いました通り、貴女の思い出はとても遠いです。ダッチが気になっている方と出会ったのはつい先日。本が時間と共に色あせるように、記憶も薄く、見えにくくなってしまいます」


 その理論に何も言い返すことができなかった。黙っていると、沈黙を否定するように追って話をされた。




「ご安心ください。貴女が見たものは紛れもなく良い思い出のはずですよ」


 私、そして彼の記憶を知っているかのような口調で話すマスターは、決して嘘をついているようには見えない。私は言われたことを飲み込むしかなかった。


「こっちのカステラは……何を……思い出すの……」


 私の声はどこか怯えてしまっていたようだった。私の記憶が、私を助け、私を苦しめる。最近はそんなことばかりだ。


「そちらのカステラには、星屑の金箔を振りかけております。誰かの幸せを願う切実で純粋な想いです。そのカステラを食べながら、幸せになってほしい相手を願うのです。もちろん自分を指定することも可能です」


「これを口にすると、その人の願いが叶うのね……?」


 私は先ほどとは打って変わって覚悟の込められた芯のある声を出すことができた。まさに願いを叶えられる、私が欲しかったものだったからだ。




 私は二又フォークに震えた手を差し伸べ、キラキラと輝くカステラへ一刺しした。ようやく、これで苦しむこともなくなる。そう考えると筋肉がうまく動いてくれなかったのだ。


「大丈夫? ミドリさん」


 とても小さな手が私の腕に乗せられた。ダッチが私のじっと見つめている。


「うん……大丈夫だから……」


 そう言い、私は自分の願いで頭の中を埋め尽くしながら、ゆっくりと口元へ動かす。あと数センチで唇とカステラが触れ合うというところで、ダッチが再び言葉を使う。


「僕は、彼女の幸せを願ったよ」


 私の腕の振るえとともに、カステラを運ぶ手が止まる。


「……どうして?」


 浮かせたカステラを一度お皿に戻すと、ダッチは不思議そうに首を傾げて顔を向けた。




「どうしてって……、僕が幸せになれたところで、彼女が幸せとは限らないもん。それだったら彼女の幸せが叶う方が僕は幸せだと感じるからさ」


 ダッチのその台詞はいかにもダッチらしかった。そして自分の愚かさに気づかされた。私は自分の願いばかりを考え、彼自身の幸せについて考えたことがなかった。


「ダッチ、ありがとう。私間違えるところだったみたい」


 そう言って私はカステラを一瞬で食べ終えた。


「間違えるって、ミドリさんも同じような願いだったでしょ?」


 ニコニコと笑うダッチは、どこまでも可愛らしく、純粋無垢でとても深い考えを持っていた。


「もちろん。誰かの幸せを願うって素敵な事よね」


「うん、きっと、ハヤテ君これで幸せになれるね……。あ、そろそろ朝ご飯を取りに行かないとだ。またね、ミドリさん、マスター」


 予定を思い出すようにそそくさと店を後にするダッチに、またねと言う間もなく行ってしまった。




「ダッチ、きっとまた彼女のもとへ向かうのでしょうね」


 マスターがダッチのティーカップを片付けながらそう言う。


 そうかもね、とボソッと言うとマスターはテーブルを吹き上げる手を止めた。


「どうしてダッチの幸せを願ったのですか?」


 大きく深呼吸をしてからマスターの質問に答えた。


「あんなこと言われたら、自分が情けないじゃない。心から相手を思いやるダッチは幸せになるべきだもの。本当は私を幸せにしたいし、彼も幸せにしたい。けれど、それじゃあ……、星に願ったような幸せではいけないような気がしたの。はぁー、幸せって何なの」


 私は大きな溜息と共に、自分を見失いかけているようだった。


「貴女らしいですよ。それと、今日ここに来た理由もあるのでしょう? 少々お待ちください」


 止まっていたマスターの手は、再びテーブルの上をタオル越しに滑っていた。一度厨房へ戻った後、隣へ腰かけたマスターは、私の言葉を待っていた。




「……マスターの言う通りでした」


「……というと?」


 マスターに目を向けられなかった。見透かされているようなその瞳が怖かったのだ。


「彼、記憶を失って私との思い出を無くしていたの……」


「……そうでしたか」


 沈黙の度に、外からの雨音が、より耳に残りやすくなっているようだった。


「だから、決めたの」


「何をですか?」


 深呼吸をして、二週間考えこんだ結果をマスターに伝えた。




「私は来年の4月頃に親元に帰るの。だから、今年中に彼に思い出して貰えなかったら、私はこの恋を諦める」

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