第8話 7月29日(2)

 私が幼稚園児だった頃、父の転勤で今のアパートの近くに越してきたのだ。寒い冬の日だった事はよく覚えている。幼い私にとって全く新しい土地で人間関係を構築していく事は至難だった。加えて人見知りだった私には遊ぶ友達もいず、そのうち自然と一人ぼっちになっていた。完全に浮いていた私は、嫌われ始めているのも自覚していた。


 あるとき、バケツの水が溢れるように私の中で何かが壊れてしまった。休み時間だったことは覚えている。一人教室で泣いていると、廊下を走っていた男の子が私に気づいて駆け寄って声をかけてくれたのだ。




「大丈夫?」


 その一言を放って、何も言えない私を置いてどこかへ行ってしまった。私はそのまま教室で蹲ったままでいると、再び誰かが声をかけてきた。見上げると、同じ男の子だった。絆創膏を差し出してくれた彼は、私を心配してくれたようだった。


「転んじゃったの? 先生から絆創膏貰ってきたよ」


 私は首を横に振って何も言わなかった。また人に嫌われる、そう思ったが、男の子は私の横に座ってただひたすらに自分のお姉さんの話をしてきた。


 毎日召使のように扱ってくる、喧嘩が多くて泣かされるなど、私は聴くことしかできなかった。


 私はその姿がおかしく、自然と笑い声が溢れてしまった。




「なんだ、笑えるじゃん」


 男の子の一言に気づき、私は自分が笑えていたことに驚いた。それから男の子とは家が近いことを知り、よく遊ぶようになっていった。


「はい、これ」


 時間は流れ、桜の蕾がほころび始めたときに男の子が渡してきたものは手紙だった。


「お姉ちゃんが言ってたんだ。友達とかとは手紙を渡し合ったりするもんだって」


 男の子の頬は赤く染め上がり、どこかそっぽを向いていた。私は受け取った手紙の中を開くと、読みにくい字で何と書かれているかわからなかった。




「なんて書いてあるの?」


 男の子は怒ったように声を張った。


「“またあそぼう“って書いてあるんだよ!」


 私はその字の意味を知ると、笑顔がこみ上げ、大きく首を縦に振って、うんまた遊ぼう、と答えた。


 それからの時間はとても少なかった。数日もしないうちに再び父の転勤が決まり、私はその土地から姿を消した。彼にお別れを言う時間も、機会もなかったのだ。

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