第9話 7月29日(3)

「なんか、美味しい上に、体全身で食べてるみたいだね」


「ええ、ほんとに……。思い出の蘇るような味です……」


 彼とラテの会話には参加しなかった。


 春を食べ終え、夏、秋と食べ進める……。


 夏と秋は、中学生時代や高校受験の事ばかりを思い出した。冬に関しては、私の知らない記憶だった。彼と私が、仲良くどこか綺麗に輝くトンネルを歩いているようだった。ただその私はとても笑顔で、嬉しそうだった。


 私はきっと幸せになれるだろうと、心がホッと落ち着いた。




「いかがでしたか? 時間の旅は」


「時間の旅?」


 私達は揃えて首を傾げる。


「ええ、今あなた方が食べたトーストは、食べた季節に沿っての思い出や理想を体験させてくれます。きっと何か刺激になったかと思います」


 モカとウィンが偉そうな口を開く。


「よくわからんけど美味かったぜ」


「まあ悪くなかった」


 二人は何も感じていなさそうだったけれど、何かを思い出していたに違いない。


 彼は何を思い出したのだろうか、気になるけれど、とても訊けるものではなかった。




「さて、そろそろ行かせていただきます。随分と時間が経ってしまいました」


 ラテがゆっくりと立ち上がり、モカ、ラテと続いて店の外へ出て行った。


「あ、そうだ」


 彼は机の上に置いたままの紙袋を漁り、マスターに可愛らしくラッピングされたハーバリウムを、お礼ですと言って手渡した。


「これは素敵なプレゼントを。ありがとうございます」


 マスターは微笑んで喜んでいた。


「あ、そうそう」


 今度はカバンの中を漁り、小さな小包のようなものを取り出した。




「これは……翠さんの分……」


 私は呆然としたまま受け取った。


「僕……センスないけど……もしよかったら……」


 彼が話しきる前に、私の感情が飛び出した。


「嬉しい! ありがとう!」


 彼が私の為に選んで買ってくれた事実、それが本当に嬉しかった。


 開けていい? と訊くと彼は黙って頷いた。


 包まれたラッピングを丁寧に剥がすと、雪だるまのようなキャラクターのキーホルダーが入る箱が出てきた。


「ごめん、そんなものしか買えなかったけど……」


 顔の前で箱をまじまじと見つめる。以前、一緒に同じものを買った思い出を大切にしてくれているのだと伝わった。私は言葉では表せられないその気持ちが、何よりも素敵な贈り物だった。手のひらで包み込み、彼に笑みを描いた。




「嬉しい……ありがと……」


 さっきと同じことを言った。他に適した言葉が無かったからだ。


「帰ったらなんのポーズが出たか写真送るね」


 彼は何かを思い出したような顔をして、首元に手を添えた。


「そうだ、メッセージなんだけど……」


 きっと私が色々と言いすぎたせいで気にかけていたのだなとわかる。


「別に返しにくいとか嫌とかは思ってないよ?」


「え! なんでわかったの!? てかそうなの?」


 素直な反応が可愛らしく、ふふっと笑う。




「うん、こっちこそやりづらいかなーと思って何も送らなかったんだ」


 よかったー、と声を漏らす彼に悪戯心が芽生えた。私は彼の顔を覗き込んで、なにがよかったの? と尋ねてみた。


「……マスター、そういえば僕らの世界は今気温が高い時期なのに、どうしてこっちも暑さが残るの?」


 私を無視する彼の姿を見たマスターが口元に手を添えて笑う。私も何も咎めなかった。


「そうですねぇ、この場所の原動力はあなた方にあります。心が温かいあなた方だからこそ、気温は 変わらずにいつも温かいのです。他にもいろいろありますが、長くなるのでやめておきましょう」


 ガチャッと店のドアが開き、モカが顔を覗かせた。




「俺らはもう行くぞ」


 店の窓からウィンとラテも顔を覗かせていた。私達は手を振って別れを告げた。


「僕らも行こうか」


 マスターにごちそうさま、と頭を下げて二人で店を出る。彼に花が咲いているか見たいと言われ、カウンター横に足を運んだ。


「あ……咲いてる……」


 彼の丸い鉢に新たな花が咲いていた。


「お、咲いてるねぇ」


 その横から鉢を覗く。紫、白、黄の三色が美しく存在感を表している。




「私のも咲いてるよ」


 隣の鉢にも二種類咲いていた。私の鉢に咲く、初めての花だった。


「これ、翠さんの鉢?」


「そうだよ。こっちがモカで、これがプチで……」


 私は一人ひとり誰のものかを説明した。どうして形が違うのかまでは話さなかった。


「なんの花だろうね」


「そちらはクロッカスですね。翠さんの方は、胡蝶蘭とポピーです。お二人にお似合いの花です」


 鉢を見ていたのに気づいたマスターが花を紹介してくれた。


「マスター、この花はどうした意味で咲くの?」




「いずれわかりますよ」


 マスターは相変わらず彼に花の意味を教えない。


 またねと互いに告げ、再び雨の降り始めたこの場所から、小走りでそれぞれの出口へと分かれた。


 帰宅後、彼と夜の待ち合わせ時間を決め、夕飯を食べ終えてからベッドに寝転んでキーホルダーの箱開いた。中からは体育座りをする雪だるまだ現れた。相変わらず雪だるまなのか、確信を持てない。


【見て!! これ颯くんが持ってるやつと同じじゃない!?】


 写真付きでメッセージを送り、私は机の上に置いてある筆箱に目が留まり、ファスナーにそれを結んだ。結び終えたタイミングでスマホの画面が光った。




【本当だ! 同じだよ!】


 意識したのであろうびっくりマークの絵文字が文末に添えられていた。


【おそろっちだね笑】


 そう送って画面上の時間を見ると、家を出る時間になっていた。ベッドから飛び起きて急いで着替え直し、部屋を後にした。


 街灯に沿ってゆっくり歩くことおよそ20分。橋横の階段を下りて辺りを見渡すも、彼はまだ来ていないようだ。


 橋の下を潜り、降りた階段とは反対側に回った。重そうなベンチに腰掛け、脚を伸ばして池に反射する月光を眺めて私は考えた。


 もう高校三年生だ。この辺りに住んでいられるのも約半年。それまでに彼が私に気づくことが無かったら……。




 足音が橋の下に響くのが耳に着いた。影から姿を現したのは彼だった。待ち合わせをして約束通り会えることが今の私には充分に幸せな事だ。


「遅刻ですね、颯さん」


 私が怒っているように装うと、彼はごめんと言って顔の前で手を合わせた。冗談、気にしてないよと微笑むと彼は隣へ腰かけた。


「この時間に会うの、初めてだね」


 私は池に視線を向けたまま口を開いた。遠くで蛙が鳴いているのに、とても静かに感じる。


「そうだね……ごめんね、こんな時間に」


「ううん、この時間の散歩、結構好きだから」


 橋の上を向こう側に車が走り抜ける音が聞こえた。タイヤが地面をなぞる音が聞こえなくなると、彼から尋ねられた。




「そういえば、翠さんって、高3だよね? 進路はどうするの?」


 彼もまた、池に反射する大きく欠けた月を眺めている。


「成績も悪くないし、一応AOで行きたい大学受けて、落ちたら指定校推薦かな」


 私の伸ばす脚を真似て彼も膝を伸ばし、私と同じ体制になった。


「そうなんだ。僕も多分指定校になると思う。お母さんが中学の頃から、指定校だと楽なんだけどねって、ずっと言ってるからさ。どこの大学に行きたいの?」


「んー、Y大学かなぁ」


 正直、大学はどこでも良かった。なんとなく名前を知っている大学だから、という大雑把に決めてしまった。それなりに有名らしく、知らない人はいないくらいの知名度と親や先生は言っていた。あまり興味は湧かなかった。


「そ、そうなんだ、やっぱりすごいね……」


 僅かに言葉を詰まらせた彼こそどこに行くのだろうか、気になった。




「颯君はどこに行きたいとかあるの?」


「うーん、まだ全然だよ。考えなきゃとは思ってるんだけどね」


「そっか……」


 半袖なのに蒸し暑く、じんわりと汗をかいてもう夏になってしまったことを知らされた。


 橋の上を再び車が通り、道路を走る音が聞こえなくなってから、彼にこれからの事を話そうと喉を震わせた。


「私ね……大学に入ったら、また引っ越すことになると思うの…………」


 彼はどう思うのだろう。また離れてしまう恐怖と、悲しみが私の不安を掻き立てる。


「…………寂しくなるね」


 私は勢いよく彼に身体を傾ける。彼の目をじっと見つめ、口の中につっかえる言葉を吐き出してしまいたい。私は貴方が好き、だからずっと一緒にいてほしい。そう言えたらどんなに楽だろうか。口に溜まった見えない想いはため息になって漏れ出した。




 肩の力を抜いてベンチに背もたれに重心を戻すと、彼が何か呟いた。


 え? 上手く聞き取れず、その一言に今度は彼から私に身体を捻って上半身を私に向けた。


「この1年、思い出を作ろう。僕にはまだ2年ある。最後の高校生活、翠さんが良ければ、僕と1年で思い出をたくさん作ろう」


 私は彼の言うことを考え直すと、プッと軽く吹き出してしまった。


「私、来年で死ぬの?」


 余命宣告された人に対してかける言葉のようで笑ってしまったのだ。まるで1年間で死ぬから最後に思い出を作ろう、そう言っているようだった。


「あ、ごめんそんなじゃなくて」


 焦って言葉を探す彼に、私は全身を見せるかのようにベンチから立ち上がって微笑んだ。




「ううん。嬉しいよ、ありがとう」


 彼は私の顔を見るなり、照れくさそうに俯いた。


「じゃあ、次はどこに行こっか?」


 次の思いで作りについて彼に尋ねてみる。


「……な、夏祭りなんてどうかな」


「お、いいね! 花火みたい!」


 ちょっと待ってねと、彼はスマホをカバンから取り出し、花火大会の日程を調べてくれた。


「7月30日のだとここから近そうだだよ、あとは近場だと……っていうか30日って明日か!」


「じゃあそこにしよ」


 私はいつも決断が早かった。考え込むのが面倒だったからだ。


「明日だけど大丈夫なの?」




「うん、私は予定ないよ?」


 私達はネットで詳細を調べて、明日にまた会うことになった。


 話がまとまると、学校帰りに雑貨屋さんに立ち寄ったのを思い出した。


「はい、これ。お返し」


 私は彼からもらったキーホルダーと同じものを手に取って見せた。


「これ……」


「お返しだよ、開けてみて」


 彼が箱の頭を破ると、まるで誰かを抱きしめているようなポーズをする雪だるまのキーホルダーが出てきた。




「かわいいー!」


 その愛おしい姿に私の方が喜んでしまった。


「またおそろっちだよ」


「おそろっち……」


 彼はキーホルダーを顔の前で眺めた。私はその姿を見て、不意にもからかいたくなってしまった。


「顔、ニヤけてるよ」


 顔を片手で隠す彼もまた可愛らしかった。


「あはは、私が貰ったやつは筆箱に付けてるよ」


「じゃあ僕も筆箱に付けようかな」


 どうしてか、今日はやけに悪戯心が芽生えた。


「じゃあ授業中も私の事考えちゃうね」


 ニヤリと笑う私を見た彼は、少し泳いだ目で言い返す。




「うん、そうだよ。だからつけようと思うんだ」


 まさか言い返されるとは思ってもおらず、顔に熱が籠るのが自分でわかった。羞恥心から足元にしか目を向けられなかった。


「もうすっかり夜だし、そろそろ行こうか、家まで送るよ」


 黙って頷き、私達は階段を上った。


「ねえ、少し遠回りしてもいい?」


 落ち着きを取り戻した後、彼を覗き込むように訊いた。彼はただ一言、いいよとだけ言ってくれた。私達はそのまま静かな住宅街へと足を運んだ。


「私ね、この辺りの家が好きなの」


「家が?」


「そう。この辺りの家はみんな違って、それぞれ個性があるの。それに、このくらいの時間になると外に出る人は全然いないの」




 道を広く使ってスキップしていると、スーツを着た男性が道の角から姿を現した。完全に目が合ってしまい、そそくさと彼の横に身を寄せる。


 その男性とすれ違った後、彼は悪い表情で私を揶揄った。


「全然人いないんじゃないの?」


 私は何も言わずに彼の肩を軽く叩いた。両手で顔を隠す私を見て、彼がお腹を抱えて声を殺して笑っている。


「笑わないでよ!」


「ごめんごめん、完璧なおちだったから」


 どこかの家の中から子どもたちの声が漏れている。日常を感じさせる、とても幸せそうな笑い声だ。




「僕も住宅街とか、人が住んでいるところが好きなんだよね。知らない町でも、誰かの地元なんだなって考えると、どんな家にも物語があるんだなって」


「わかる。すごくわかる。なんか建設会社のCMみたいな台詞だったけどすごくわかる」


 私の余計な一言に彼が少しだけ声を張った。


「馬鹿にしたでしょ今!」


 あはは、さっきのお返しだよ、そう言って駆け出す私の後を彼が追いかけてきた。しかし30mほど走って、肺の活動量が一気に限界にきた。


「息切れ早くない?」


 そう言う彼は笑っていられるほど余裕そうだ。結構走ったよね? そう訊いて振り返ったけれど、景色が全然変わっていなかった。


「翠さん、部活は? 運動とかしてこなかったの?」


 呼吸を整えながら間を開けて質問に答えた。




「うん……中学校も高校も……勉強ばっかりだったから」


 膝に手を乗せて休み、一度大きく深呼吸をし、息を整える。私達は再び歩き出した。


「颯君はどうなの? 今まで部活とかは?」


「部活は中学校でテニス部に入ってたよ」


「そうなんだ、軟式?」


「ううん、硬式だよ。僕の中学校、なぜか公立なのに硬式テニス部があったんだ」


「そうなんだ、珍しいね」


 生温い夏風が私達の背中を優しく押した。とても心地の良い風だ。


「今は?」


 彼は空を見上げて答えた。




「高校では、テニス部に入って、半年くらいで辞めたよ」


「ふーん、そうなんだ」


 彼がそれ以上に何も言わないから、私も深掘ることはしなかった。


「訊かないの?」


「え? 何を?」


 質問が何に対してのことだかわからない。


「大体この話を誰かにすると、どうして辞めたのか訊かれるから……」


「あーなんだ、そんなことね」


 私はまた進行方向に顔を戻す。


 遠くで名も知らぬ虫がジージーと鳴いているのが耳に入る。


「何かを辞める理由で、ポジティブな理由なんてあんまりないじゃない。引退する人だって、本当は続けたくても歳や環境という壁が理由だし、ましてや中学校で続けてきたのに、高校生の途中で辞めちゃうなんて、あんまり訊かれたくないことが原因そうだし」




 つまらない持論を並べる自分があまり好きじゃなかった。けれど根拠のない自信はあった。


「大人だね、翠さんは……」


「まあ、一応高3だしね」


「スキップするけどね?」


 呆れた顔をして、自然と上がる口角を見せてまた彼の肩を叩いた。


「ていうか、自分から訊かないの? なんて言うってことは、本当は訊いてほしいんじゃないの?」


「……そうなのかな」


 自分のことなのに、とじわじわ笑い出す私を見て彼も笑っていた。


「で、どうして辞めちゃったの?」


 地面を見下げる彼は固そうな口を開いてくれた。


「中学校から硬式テニスをしている人なんてそうそうにいなくて、僕は変に周りから期待されてて……」


 私は一度だけ頷く。




「それがプレッシャーになって、期待通りの結果も出せず、変な噂まで流されるようになって……」


 何も言わない私に話を続けた。


「いつの間にか、僕に期待を持つ人はいなくなってたんだ。だから僕は居づらくなって、辞めたんだ」


 どんよりとした彼に私はようやく言葉を使った。


「なんだ、良い話じゃん」


 彼は呆然としていた。


「だって、そんなことで離れる人なんて、元々近寄るべきじゃないよ。環境によって人は変わるんだから、無理するよりも離れるが勝ちだと思うよ」


 言葉いらずの空気だった。視界の中で目を袖でこする彼は、ただありがとうとだけ言った。私は元気付けられたことが少しだけ嬉しくてふふっと笑ってしまい、話題を変えた。




「花火大会楽しみだね」


「そうだね。花火大会なんていつぶりだろう」


「そんなに前なの?」


 彼は指で数を数えた。


「5年くらい前かな」


「じゃあ小学校6年生くらいの時?」


「うん、確かそう。確かその日は姉が連れてってくれたんだ。妹と三人で行って……」


「美月みづきさん?」


 私はその一言を放った瞬間、口が滑ったと焦りが募る。


「……どうして名前知ってるの?」


 慌てて口を手で隠すも、言い訳が考え付かない。




「名前、言ったっけ?」


 口元から手を遠ざけ、彼の言葉に乗るしかなかった。


「う、うん、言ってたよ。忘れたの?」


 幼い頃に少しだけお世話になっていたから、彼のお姉さんの名前は覚えていたのだ。まさかポロっと口に出してしまうとは自分を油断していた。


 悩む彼は何も言わなかった。気がつくと、道路を挟んだ向かいにアパートが見えた。


「ここで大丈夫だよ。ありがとう、ここまで来てくれて」


「ううん。楽しかったし、こちらこそありがとう」




 信号のある交差点で別れ、手を振ってその日は解散した。


時間が経ち、ベッドに寄りかかってテレビを見ているとスマホに通知が来ているのに気が付いた。


【翠さんって、苗字なんて言うの?】


 そうだ、彼に苗字までは伝えていなかったのだと、私はためらわずに返事をした。


【苗字? 牛嶋だけど? 言ってなかったっけ?】


 次に彼から返事が来たのはまた少し時間が経ってからだった。そして明日の時間や場所について連絡を取ってから、私は眠りについた。


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