第7話 7月29日
7月29日
朝日がカーテンの隙間を潜って私を起こした。のんびりと体を起こしてテレビをつけると、梅雨明けのテロップが画面に映る。寝ぼけ眼を擦り、思考が一時停止する。
「行かなきゃ!」
大急ぎで制服に着替え、自転車を走らせた。今日は夏休みの進路相談と勉強会が学校で行われる日だった。そしてその前にカフェに出向かなくては。
彼とは連絡を取り合っていなかったが、学校のない日は朝に集合するのは言わずとも分かり合っていると考えていた。
日差しがじりじりと私の肌を焼いていく中、タイヤを回し続けた。
雑木林を抜けると、大粒の雨がカフェを反射させる鏡を作っていた。私は濡れぬように大急ぎでカフェのオーニングテントへ走る。その勢いで扉を開けると、席に座るみんなと目があった。彼も既に待っていた。
「あ、もう来てた。ごめんね、遅くなっちゃった」
私は息を切らして声を出すのもやっとだった。膝に手をついて呼吸を整えていると、いたずらっ子でアナグマのウィンが声を張った。
「遅いぞ!」
「ごめんごめん、急いだんだけどさ」
私は肺を落ち着かせると汗臭くありませんように、そんな願いを胸に秘め、リュックを置いて彼の右隣へ腰掛けた。彼はワイシャツを仰ぐ私を見るなり話しかけてくれた。
「制服なんだね」
彼の目線は後ろで一つに結んだ髪にあったため、目が合わなかった。
「うん、この後学校に用があって」
およそ1ヶ月半ぶりに会う彼は何も変わらず安心した。私を見てくれない彼に、今日は少し揶揄ってみようと試みた。緊張はしていたけれど、もっと彼と仲良くなりたい一心だった。
「颯君は今日も早いね。楽しみで早くから来たの?」
「うん、ちょっとだけね」
「ふーん、私に会えるから?」
どんな反応を見せてくれるのか、僅かな期待に口角が上がっていた。
「……そんなんじゃないから」
泳がせる目を覗くと、あからさまに話を逸らされた。そんな姿がどこか可愛らしく見えた。
「そういえばさ、翠さんの髪って染めてる?」
彼の質問の意図がわからず、首を傾げる。
「いや、高校生なのに結構茶色がかってるから、校則とか大丈夫なのかなーって思って」
校則かぁ、と天井を見上げて考える。思い返すとこれといって指導されている人も見たことがなかった。
「髪の毛は元々このくらいの色だけど、若干染めたかな。けど言わないとわからないくらい。校則は……うーんあんまり気にしたことないかな」
彼は驚いた様子だった。他の学校に詳しくない私はその反応が理解し難かった。
「え? 校則とかわからないの? 髪染めちゃダメとか、化粧濃すぎるとダメとか……」
「うーん、私の学校、あんまりそんな感じのないんだよね……」
彼の目を見開いた表情があまりに可笑しく、あははと口元を隠して声を出す。
「僕の学校、校則凄く厳しいよ……? 高校生楽しみ切れないって感じで」
「そうなんだ、私の学校、基本放っておかれるんだよね」
「その制服あんまり見ないけど……どこの学校?」
彼は私のスカートの柄を見て訊いた。けれど私はあまり学校名を答えたくはなかった。私は立てた人差し指を唇につけて答えた。
「んー、内緒」
「そっか、僕はS高ってところ。中学までまともに勉強なんてしてなかったから、偏差値もすごく低くて今じゃ後悔してる」
正直、勉強なんてもうこりごりだったためか、彼が少し羨ましく感じた。
「そうなんだ。勉強なんて、できすぎても大変だよ」
彼はテーブルに肘を置いて私を見つめていた。
「私M高なんだ」
彼の体がピクリと動く。
「さっき、内緒って……」
「うん、颯君が話してくれたから、私も話すべきかなって」
学校名を教えてもらったから私も答えるべきが、礼儀だと思った。それに彼は自分の学校がコンプレックスのようだった。
「……ちょ、ちょっとまってね」
彼は慌てた様子でスマホを取り出して指先で画面を叩いた。
「え!? 翠さん、引くほど勉強できるの……すご……」
その一言に、ダムが崩壊したように嫌な感情が湧き溢れた。目の前にいる人に会うために頑張ったというのに、その本人に否定されているような感触に、心が折られたようだった。
「……ごめんね」
唐突に謝る彼に、俯いた顔が引き寄せられた。
「どうして謝るの?」
「だって、翠さん今、嫌な気持ちにならなかった?」
自分でも気づかぬうちに表情に出てしまっていたようだ。彼に嫌な思いをさせてしまったことに、こちらこそごめんねと伝えた。
「どうして翠さんが謝るの?」
負の感情が止まらない。ここまで頑張ってきたのは、貴方の為なんだよ、そう言えたらどんなに楽か。私は落ち込んだ理由を素直にぶつけた。
「学歴だとか、偏差値だとか、そういったのが嫌いなの。確かに高いと褒められるかもしれないけど、低いと悪いように見てくる人もいるでしょう? だからそんな数字だけで人の判断基準にされてしまうのが嫌なの」
これまで学歴という肩書きを、世間から誉められ続けた経験の本音だった。私が努力したのは名誉だとか、世間体のようなくだらないことではないからだ。
「翠さん、優しいね」
そんなことないよ、ただそれだけ言った。
「けどすごいね。勉強できるのに、勉強苦手な人のことも考えることができて」
「ううん、私も元々は勉強は苦手だし嫌いだったの」
「え? じゃあどうしてそこまでできるように?」
心が押し潰されそうだった。私の頑張りを、彼に認めてもらえていない気がしてたまらない。膨らむ涙袋が破裂しそうだ。
「…………ごめんね、ちょっと席外すね」
私は長い髪の中に埋まるように俯き、外へ飛び出した。お店に背中を向けて扉を閉め、私は扉の窓から見られないよう、一歩だけ出窓の方へずれて座り込んだ。
雨音に私の涙が重なる。零れる涙に、まるで私の瞳は雲だった。思い返すと、私の人生は泣いてばかりだった。恵まれない人はとことん恵まれない、そんな言葉を擬人化したのが私のようだ。
「ウィン!」
モカの張り上げた声が聞こえた。モカのこんな大きな声を聞くのは初めてだ。お店の中で何が起きているのだろうと、気が紛れるとお店の扉が開いた。中から出てくる彼を見上げ、ただその姿を眺める。
彼がキョロキョロとあたりを見渡して私を探している。その姿が、どこか昔の私に重なって見えてしまった。
立てた膝の上に顔を俯せると、そこにいたのか、そう言って私の隣へ腰を下ろした。
「ごめんね」
そう言われて首を横に振る。何も言えない。声を使うと、涙がもっと溢れそうだったから。
「……翠さんが悲しんでるのは知ってたんだ。初めて会った日から、ずっと悲しんでる」
彼は私の感情に気づいていたようだった。彼は続けた。
「僕は鈍感で、翠さんが悲しむ理由もわからないけど、僕ができることがあれば力になりたい」
変わらないその優しさが好きだった。話してしまいたい。私は貴方が好きで、昔貴方に助けられたのは私なんだよ、喉のすぐ奥に言葉が詰まっている。
「だから、話して欲しい」
彼の一言に、マスターの言っていたことを思い出す。本当に幸せになりたいのなら、気づいてもらう必要がある、何となくその意味をようやく理解した。私は幸せになるんだ、闘志を燃やすように、心がゆっくりと立ち上がった。
「…………ない」
振り絞った震える声は、彼の耳に届かない。
「……え?」
私は目尻に涙を残したまま、無理に作った笑顔でようやく声を張ることができた。
「まだ言えない」
気づくと雨は止んでいた。雲の隙間から抜ける光が私達の顔を照らす。
「あ、見て!」
目の先には陽光に照らされた大木に虹が架かっている。まるで天へと続く梯子のようだ。その神秘さを前に、彼は私にじっと目を向けている。
「ねえ、見てってば!」
腕を曲げ伸ばしするとようやく彼がピクリと動く。
大木には桜色の枯れた葉を身につけている。私は何度かこの季節の大木を見てきたが、虹の架かる姿は初めてだった。
ゆっくりと歩み寄ると、彼も私の後を追う。
柵の前まで行くと、風に煽られ枝から切り離された葉が、ユラユラと踊りながら私達の足元で動きを止めた。
手のひらほどの大きさの葉は、季節感を狂わせるような不思議な姿だ。
「綺麗ね……」
口を開くと、彼は見上げたまま言葉を返した。
「うん……初めてこんな綺麗な木を見た」
春風のような生温い優しい空気が私達をイタズラに擽る。
「晴れましたか。外ではゲリラ豪雨でしょうね。そしてまた今年も随分と美しい色になりましたね」
振り向くとマスターが背中に手を回して立っている。
「……これは桜ですか?」
落ち葉を拾い上げる彼がマスターに問うと、マスターは枝先を見上げて答える。
「いいえ、これは枯葉です。あなた方の世界では現在7月だと思います。7月といえば夏と感じられる方が多いと思いますが、我々の世界の暦上ではもう秋なのです」
「だからこれは枯葉。けれど色が季節の反対側となるから春色のこの色。ということですか?」
「その通りです」
この桜色は知っている。彼とマスターが話しているのを横に、私はその彩りに夢中だった。私の思い出が頭の中を駆け回る。微風が髪をふわりと優しく持ち上げた。
「ねぇ、次はいつ会える?」
私に語りかけているのだろうかと、ゆっくりと彼を向いた。私をじっと見つめている彼の言葉に、酷く驚いた。彼の方から誘われるのは、初めてのことだ。私は彼の頭に引っかかる落ち葉を見てプッ吹き出した。
「葉っぱ着いてるよ」
私が自分の頭頂部に指を差すと彼は頭に着いた落ち葉を手に取った。
「そうねぇ、梅雨が明けたから、次は……」
私が答える前に、立て続けに質問をぶつけられた。
「どうしていつも季節の変わり目とかなの?」
私は少し考えてから、自分の本心を伝えた。
「……初めてってさ、新鮮でしょ? 初めての遊園地、初めての高校生活、初めての季節。季節の変わり目にしているのは、今年の初めての季節を、一緒に過ごしたいなぁーって思ったから」
それに貴方は初恋の相手だから、その言葉だけが伝えきれられなかった。
「今日の夜、また会えない?」
彼の口からの思いもよらぬ一言に、私は驚く表情を見せてしまう。
「うん、まあ大丈夫だけど……。とりあえずはお店の中に戻ろっか」
作り笑顔を彼に傾けた後、店内へと戻った。
「お、どうだ? 泣き止んだか?」
ウィンらしい一言に私はしらばっくれる。
「え? 泣いてないけど? ね、颯君」
アイコンタクトを送ると、微笑みながら察してくれた。
「うん、外に出たら綺麗な夕日が出てきてたから、それを見てただけみたい……」
なーんだ、と残念がりながらラテ達と話の続きをしているウィンを見て、話達は目を合わせてコソコソと笑った。
「では、そろそろお食事を持って参りますね」
手をパンッと叩き、マスターが空気を変えた。
先に戻って5分ほど待つと、マスターはトレイに人数分のジュースを持って厨房から帰ってきた。グラスをテーブルの上に置き終えると、両手をお腹に添えた。
「こちら、『半月とマジックアワーのメロンソーダ』になります」
透明なアロマフロートには夕日に染められたような強調性のある赤と、優しげなオレンジ色、そして底に沈んだ空色が混ざらずに分裂している。
メロンソーダの上にはバニラアイスに金箔が掛けられておりその姿は輝く半月のようで、キラキラと月明かりのような光を放っている。さらにその横には、1日の終わりを告げるような太陽をイメージされたチェリーが乗せられている。
メロンソーダは、まさに夏の太陽と月が混ざり合う空模様だった。
「マスター、今日もすごいね」
ギュッと空を詰められた飲み物に、心が躍る。
「食べるのがもったいないくらい綺麗です」
彼がそう言うと、どうぞ召し上がって下さいと言って厨房に戻って行った。きっとこの後何か食べ物を出してくれるのだろうと察した。
彼は突然身をかがめて椅子の下から紙袋を引っ張り出した。
「颯君、それは?」
「これは、マスターに渡そうと思って。お金も渡さないのは申し訳ないから、せめてものお礼と思って」
彼の相手への思いやりや優しさに、素敵ね、とだけ言うとウィンが口を開いた。
「そんなもんいいのに。ただならただでもらうべきだぜ」
ウィンへ顔を向けると私達は驚き、彼から声が漏れた。
「え!? もう飲んだの!?」
グラスの中には僅かに液体が残っているだけで、空になっていた。口の中からチェリーの柄を取り出し、グラスの中にポイっと入れるウィンを見て私は彼とウィンの相性の良さにクスクスと顔を手で隠しながら笑ってしまう。
「せっかくマスターが作ってくださったのに、味わって食べましょうよ」
ラテがウィンに注意をしていると、モカが口を開いた。
「なかなか美味かったぜ」
次に私達はモカへ目を向けると、モカのグラスは、一滴も残さず空だった。
私は彼の唖然として開く口を見てあははと吹き出してしまう。釣られるように彼も笑っていた。
ようやく笑いが収まった頃、私たちも飲みましょう、と言って、ストローからメロンソーダを吸い込んだ。
口の中から全身に冷たさが広がり、指先までメロンソーダを歓迎した。
「美味しい!!」
私と彼は目を合わせて同じ言葉が重なった。
見た目から想像した味とは異なって、とても甘いメロンソーダだった。
半分ほど飲み終え、チェリーの種を口の中で探し出す。
「あ、これタネないよ」
口を隠して話すと、彼が私のグラスを見て目を見開いた。
「見て!」
夕焼け色だったメロンソーダは、赤とオレンジ色が消え、夜空のような深い青色へと姿を変えている。
「僕のはまだオレンジなのに……」
カメレオンのように突如色を変えたメロンソーダに気を取られていると、マスターが戻ってきた。
「太陽が沈むと夜になる。これは当たり前ですよね。このメロンソーダにとって、チェリーは太陽なのです。つまり、メロンソーダは夜になったということです」
見惚れる彼に、私は気づかれないように横目でじっと見つめていた。濁りのないその綺麗な瞳が好きだなぁと心がつぶやいた。
気づくと溶け始めたバニラアイスが底の方に沈んでいき、半月の沈む夜空のようになっている。
私のものを真似て彼がチェリーを口にするも、食べかけのアイスは半月のようにはなれなかった。
「先に言うべきでしたね」
そう言ってマスターはまた人数分の皿を配り始める。置かれた皿の上を見ると、うわぁと感動が喉の奥から漏れ出した。
「こちら『季節の朝食』になります」
中央にプラスと書かれたように切り込みの入るトーストが置かれている。4部分に分かれた各位置には、色がつけられていた。
ピンク、緑、黄、白。春夏秋冬を示していることがすぐにわかった。
「ピンクはさくら、緑はスイカ、黄はタマゴ、白は砂糖を主な原材料としており、一年を味わっていただけると思われます。」
マスターの説明を聴いている間、モカとウィンはすでに食べ始めていた。
いただきます、と手を合わせ、トーストを口に運ぶ。私は春の部分を最初に食べ始めた。
サクサクと焼きたての音を立てながら胃袋へトーストが入り込むと、温かみが身体の疲れを癒してくれたような気分だった。
しかしどうしてか、幼稚園の頃の、あの日を思い出してしまった。頭の中に、意思とは反してアルバムが流れるように思い出してしまう。
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