第2話 5月7日

~2年後~


5月7日




 カフェを知ったあの日以来、私は定期的にあの場所を訪れていた。彼とはまだ出会っていないけれど、いつか出会えると言うマスターの言葉を信じて、私は辛抱強く待っていた。これまでも10年近く待っていたのだ。それが少し長引いたと考えれば、辛いことではなかった。


 そしてあの場所を訪れる者は、私同様に心に大きな傷を負ったものだということも分かった。


 今日はたまたま、カフェへ忘れ物を取りに向かっていた。昔、どこかの古本屋で見つけた、花の辞典だ。カフェには早い時間に行かなければ、昼間は閉まっているからマスターと会うこともできない。




 早朝6時を過ぎ、自転車に跨った私はペダルを踏み進めていた。橋の近くにある駐輪場に自転車を停め、そこからは歩いて行く。


 雑木林の道を抜け、建物の隙間を抜けると、雨水がしとしとと音を立てて私の身体に付着する。傘も持たずに来たため、私はカフェから飛び出るオーニングテントの前へ駆け抜けた。


 店の入り口に着き、お店の出窓から顔を覗かせると、マスターしかいないようだった。ドアノブのない扉をガチャッと音を立てて入ると、マスターはこんばんはと挨拶をくれた。


 カフェの店内席は、大きな丸テーブルと、その真ん中に枝先が天井に届くほどの植木、それを囲うようにいくつか席があるといった内装だ。




「こんばんは。昨日、私本を忘れたと思うんですが……」


「お預かりしていますよ。そちらのテーブルの上です」


 ありがとうとお礼を告げて去ろうとすると、マスターに言葉で引き留められた。


「何か食べていきますか? お腹が空いていないのであれば、お茶でも」


「うーんそうね、じゃあ飲み物だけいただいてもいい?」


「かしこまりました」


 一つ、頭を下げてから厨房に入るマスターを見送り、私は店内席に腰かけた。誰もいない店内は、雨音のBGM以外は何もなくとても静かだ。頬杖を立てて本を読み進めた。店内に優しく広がるコーヒーの香りが心地よい。




「お待たせいたしました。『再会のラテ』になります」


 私の前に置かれたラテにはふわふわの泡で花が描かれていた。


「すごい可愛い! これは……何の花?」


「こちらはシオンの花になります」


 小さな花びらを飾った二輪の花が、まるで私に語り掛けるように描かれている。とてもリアルだ。


「素敵! 飲むのがもったいないくらい!」


「ありがとうございます。私は他にやるべきことがあるので、一度失礼します」


 マスターは、はにかんだ表情を浮かべると再び厨房へと戻った。


 カップから零れそうな白い泡は、絶妙なバランスを保って溢れずにいる。そっと唇を縁に付け、隠れたラテを飲み込むと、花のような香りが嗅覚を刺激した。まるで花を飲んでいるようだった。




 マスターはどうしてシオンの花を描いたのだろうか。疑問は浮かんだが、私は気にしないことにした。ただ外から聞こえる雨音のパレードのような音楽と、優しい香りを堪能する。


 上唇に付着した白い泡を舌で舐めとる。誰も見ていないからできたことだ。


 こうした一人の時間に浸ると、ついつい考え事をしてしまう癖があった。花言葉は誰が考えるのだろう、幸せとは結局何なのだろう、そんな哲学的なことを考えては、答えを出せないまま次のことを考える。人に訊いては、馬鹿にされることが多かったことから、いつしか口に出すのをやめていた。


「頬杖は姿勢に悪いですよ」


 厨房から帰ってきたマスターは私の隣へと座り、目線の高さを合わせた。




「つい癖になっちゃって。ねぇマスター、マスターは人をバカにすることってあるの?」


「知らぬことがあることは恥じるべきことではありません。むしろ深く知ることができる機会ですので良いことですよ」


 私はその言葉を機に、マスターへ問いかけた。


「じゃあ、一つ聞きたいんだけど、人の人生に価値はあると思う?」


 マスターはこんな質問にも真剣に向き合ってくれた。


「もちろんです。生まれてから亡くなるまで、無価値な瞬間は存在しません。その人がいたからこそ、誰かの人生に影響を与えるものです」


 その深い言葉に追い打ちをかけるように再び言葉が放たれた。


「私自身も貴女と出会えたことに喜びを感じています。だからこうして私はコーヒーを提供して需要と供給を賄っているのです」


「素敵な考えね」


 次の一口で、私はカフェラテを飲み干した。カップの内側に僅かな泡が余韻のように張り着いていた。




「明日は誰か来るの? 全員で食事をしたいものね」


「明日はプチの他に三名、もしくは四名が来て下さると思いますよ」


 この場所を知る者が全員揃うことはあまりなかった。各々にも予定があるのだろう。


「そう。マスターも一緒に食べることはないの?」


「はい、私はただのオーナーですので」


 微笑みかける表情に、私はそれ以上説得するつもりはなかった。


 空になったカップが下げられると、何もない空間に寂しさだけが残った。私は数ページ、キリの良いところまで本を読み進め、ヒノキの香りが漂う詩織を挟んでそっと表紙を畳んだ。


 体重を支えていた椅子から身体を離し、テーブルの下へ隠すように背もたれを押した。


 その音を聞いたマスターが厨房から戻り、見送るように声を掛けてくれた。




「お帰りですか?」


「ええ、ごちそうさまでした。美味しかったです」


「この後、おそらくですがゲストが来てくださいますよ?」


「うーん、会いたいけど今日は帰ります。まだ家でやることがあるので」


「失礼しました。ではまたお待ちしております」


 私は明日またごちそうになりますと言ってすぐに店の外へと出た。一応確認する月の鉢には、やはり今日も花が咲いていない。いつも通りの事だから、特に気にもせず私は家へと向かった。


 雨を落とし続ける空模様には、どんよりとした暗い空だけが広がっている。


 建物の間へ足を運び、その影に姿が隠れると、背中側でマスターが誰かに話しかけるような声が聞こえた。誰かが来たのだろうと、私は振り返らずに帰宅して花の辞典を開き直した。


 本を読み進めて気づいたことが、マスターはゲストと呼んでいたことだった。私の知っている人じゃない、新しくあの場所を知る人が増えるのだろうとイベリスのページでふと理解した。

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