私が贈る準イベリス

夜月

第1話 5月21日

 中学校の卒業式からおよそ2か月半、私は高校生となった。僅かに思い出の中の彼がこの辺りにいるのではないかと期待を残し、自転車で学校へと向かっている最中だ。相変わらず心に空いた穴は不安と焦りを掻き立てる。一つの大きな希望が失われた人生は、とても先が見えたものではなかった。


 学校までの道のり、レインコートで雨を弾きながらペダルを漕ぎ、いつも通り大きな池を跨ぐ橋に差し掛かる。雨の日は大通りを避けてこの道を通るのが、無意識に自分なりのルールのようになっていた。




 歩道を走っていたが、背後からくる自動車が水溜まりを私に浴びせ、その勢いでタイヤを押し滑らせて盛大に転ばせた。幸いにもケガはなかったが、レインコートは使い物にならないくらいに破れている。


 その時、私の中で何かが壊れた。どこか吹っ切れ、全てがどうでもよくなった。学校も、将来も、今も捨ててしまおうと思った。頭を守っていたレインコートがめくれ、雨粒が髪の毛を湿らせていく。


 いっその事、この橋から飛び落ちてしまえば楽になるだろうか。破れた箇所からスカートに雨水が染み渡る。




 橋に手をかけ、下を覗いても、恐怖が無い。


 ああ、ここで、こんなことで私の人生は終わるのだな、と胸の奥の自分がそう呟いた。橋の欄干へ乗せた両手に力を入れ、身を乗り出そうと腕に重心を傾けたとき、池の奥にある林のトンネルのようなものに目が移った。あんなところに、人が通れるようなところあっただろうか。


 両手から力が抜け、私は橋をなぞるように歩き出す。


 ゆっくりと橋横にあった階段を下り、雑木林に引っ張られるようにゆっくりと近づく。




 木々に囲まれた道の奥は昼前にも関わらず真っ暗で何も見えなかった。こんなところ、誰が通るのだろうか。


 不気味で人気のなく、どこか寒気さえも感じるこの先に、私はゆっくりと足を運ばせていった。次第に雨水は滴ることを忘れ、木々のトンネルは本当にコンクリートのトンネルのように足音を反響させていく。私は歩き続けた。ローファーが地面を叩く音だけが耳に触る。


 雨音が消えたころ、僅かだが光が見え始めた。薄暗く、光に誘われるように歩き続けた。




 ようやくトンネルを抜け、光が目の奥を刺激した。私が辿り着いたそこには、大きな木がそらに向かって立ち上がっている。周りには柵が仕切られ、立ち入ることを禁じられているようだ。大木へ時間をかけて近づき、振り返った私は黄色とオレンジの建物の隙間が、雑木林の道と繋がっているのだと確認できた。大木へ向け直した視線をゆっくりと上げていくと、目を疑う光景が、穴の空いた心を震わせた。




「どうして……夜なの……?」


 見上げた天にはとても夜とは言い難いほど荒々しく、飲み込まれそうなほどの輝かしい宇宙が広がっている。数えられないくらいのほどの多くの星々と、その周囲を支配するように大きな満月が存在感を放っている。レインコートを着ている私に対して、雲一つない空模様だ。


 私はあの月になりたいと思った。あの月になれば、彼は私を見つけてくれるかもしれないと、そんなことを心が感じた。こんな時にも彼を想ってしまう自分が、美しく醜いと考えてしまう。呼吸さえ、億劫だった。




「綺麗ね、とっても」


 背中よりも奥からぶつけられた声に反射的に振り返った。辺りを見渡すも、誰も見当たらない。


「ここよ、もっと下」


 目線を下ろすと、真っ白な小さな猫が私を見つめている。他には誰も見当たらない。しゃがみ込んで子猫の頭を撫でながら辺りを見渡すが、やっぱり誰もいない。


「話しかけているのは私なんだけど」


「っ!? ……今、あなたが喋ったの?」


 声は子猫から聞こえてきていた。撫でていた手をどけてビー玉のようなその瞳をじっと見つめた。




「悪い? 猫が喋ったら」


 少し怒り気味な子猫は私をじっと見つめて耳をピンと立てている。


「いや、ごめんなさい、少し驚いちゃって……」


 驚きはあったけれど、意外にも冷静な自分にも驚愕していた。


「ところで、どうしてあなたそんなにびしょびしょなの? 人間って、体が濡れないようにしたがるじゃない」


 水滴の滴る髪の毛を見て猫は首を傾げた。


「これは、その……」


 目を逸らすと、白い猫とはまた別の声が私の耳に入り込む。




「お待ちしておりましたよ。今晩はとても綺麗な月が現れてくれましたね。しかし、満月でないのが少々残念です」


 大木の陰から話しかけるその人は、月を見上げている。男性だろうか。


「あれは満月じゃないんですか?」


 男性は天を見上げたままゆっくりと一呼吸おいて答えてくれた。


「満月は昨晩でしたので、本日の月は若干かけてしまっています」


 そう話すと、男性は私と子猫のもとに歩み寄る。木陰から月明かりの下に現れたその人を見て私は体の力が抜け、しゃがみ込んでいた脚が崩れ、地面にお尻をつけて座り込んでしまった。


 私が話していた男性は、私と同じくらいの背丈の大きな猫だった。体は白く、顔にうっすらと灰色掛かったその猫は、海と宇宙を合わせたような、吸い込まれそうになるほど綺麗な瞳をしている。




「驚かせてしまい申し訳ありません。私、当カフェのオーナーをしております。マスターとお呼びください」


 一礼した後に、口を開けて言葉も出せない私にマスターはタオルを差し出してくれた。善意を受け取るように私がタオルを手に取ると、差し出した手のひらを伸ばしたままにしている。


「立ち上がれますか?」


「……はい」


 私は誘われるようにマスターの柔らかな手の平を掴んで体を起き上がらせた。ふわふわの毛ともちもちとした肉球の暖かみが、本物の猫だということを確信させた。




「貴女の席をご用意しておりますので、ぜひお立ち寄りを」


 私は明かりの灯るカフェに向かうマスターと子猫の後を追うように歩き始めた。大木を囲うように作られた建物の多くはほとんどがボロボロで、人気を感じさせない。しかしマスターと子猫が向かう、場違いのように清潔感のある白壁の建物には、オレンジ色の柔らかな光が中から漏れ出している。


 店の前にはカウンターのようなテラス席が用意されていた。椅子の高さが様々で、ピョンと飛び乗った子猫の席はとても背が高い。




「私は、どちらの席に……」


 いくつかある席に戸惑っていると、子猫は垂れ下がる尻尾をユラユラと揺らしながら、隣においで、と言ってくれた。マスターは何も話さずに一度店の中へと入ってしまった。


 木製の椅子を引きずり出し、私は足の短い椅子に腰を下ろした。私の背丈に丁度良い高さだ。


 マスターから渡されたタオルで濡れた髪の毛と肌の雫を拭きとっていると、子猫は木製のテーブルに腕を乗せて言葉を使った。


「私はプチ。あなた、名前は?」


「私は……すいです……」


 名前を聞いたプチと名乗る子猫は、満面の笑顔を見せてくれた。


「かわいい名前ね。あなたもマスターに名前を貰ったの?」


「マスターに……名前を……?」


 首を傾げると、丁度店から何かを持ってマスターが出てきた。




「いいえプチ、この方はカフェにに初めての来店ですよ」


 マスターは片手にトレイを持っていて、空いた手を胸元に寄せ、軽く頭を下げた。


「改めまして、ようこそ、『時節カフェ』へ。当店のオーナーをしており、スタッフは私のみとなりますが、どうぞごゆっくり」


 傾けた体を戻すと、マスターはさくらんぼが一つだけ入った、痩せ伸びたグラスを私達に配った。


「これは?」


 私がマスターに訊くと、プチが自慢気に話す。


「マスターのマジックはすごいんだから。ちゃんと見ててね」




 そう言ってさくらんぼをぱくりと食べるプチを真似て私も口の中に隠すように入れた。すると底から持ち上がるように変化するグラスの色を見て、自然と目が見開いてしまった。


 凝らして見ていると、、どこからか注がれた暗い紫色の飲み物はグラス8分目で動きを止めた。


「……すごい」


 思わず声が漏れてしまう。


「どうぞ、『ブルーアワーのぶどうジュース』です。きっと貴女の乾いた心を潤わせてくれると思いますよ」


 マスターの言っていることが、やや理解し難いが、私は喉の奥にジュースを流し込んだ。


 色の割にはしっかりとぶどうの味が口の中へと広がり、濃すぎて喉が渇く、ということもなかった。




「どうして泣いてるの?」


 私はプチに言われて気が付いた。頬を流れ落ちる温い水滴は、雨粒ではなく私から零れ出た涙だった。


「あれ、私……どうして……」


 拭いきれない涙が私の涙腺を崩壊していく。


「相当お辛かったようですね。大丈夫です、ここに貴女を否定する者も、拒む者もおりません。ゆっくりで良いので、言葉にして吐き出してください」


 マスターの口調は優しかった。とてもゆっくりで、心を落ち着かせてくれた。


 私は崩れかけていたダムが決壊したように涙が溢れてしまった。呼吸がしづらいほどに、零れ落ち続ける滴を拭い続ける私に、プチは何も言わずに、小さな手の平で肩を撫でてくれている。




 私の呼吸が整ったころ、プチが私に言葉を優しく掛けてくれた。


「大丈夫よ、大丈夫」


 ただそれだけを言い続け、その可愛らしい声のおかげで私の心は静けさを取り戻せた。


「ほらね、言ったでしょ? 大丈夫は、魔法の言葉なんだから。昔、私の大切な人が教えてくれたの」


「さて、翠さん、貴女の事を教えていただけますか?」


「私の……事……」


 マスターは落ち着いた私を真っ直ぐと見つめ、暖かな表情で問いかけた。


「この場所に招かれる者は、必ず悩みを持っています。貴女も、プチもその一人と一匹です」


 招かれた、というマスターの言葉が引っかかった。私は誰かに誘われた記憶もなければ、たまたまこの場所を知っただけだ。




「招かれたのではなく、偶然にもこの場所を見つけた。そうですね?」


 マスターの言葉に、ぎくりと胸を刺されたようだった。私が頷くと、マスターは続けた。


「すべての出会いは偶然の連続であり、偶然が運命である。出会いとはそうではないでしょうか。私が招かれたというのは、あなたの気まぐれな偶然のことですよ」


 マスターの使う言葉の組み合わせが、難しいようだったけど、なんとなく伝わってしまった。


「出会いは……偶然……」


 私はこれまでに抱えていた悩み、想い、これまでの人生をすべて話そうと決意した。


「……昔、幼い頃に私を助けてくれた人がいたんです。幼稚園でいじめられていた私を、助けてくれた人が……」


 マスターとプチは何も言わずにただ話を聴いてくれた。私は話を続ける。




「近所に住んでいたその人とは、小学生に上がるころ、私が引っ越してしまって……」


「ようちえん? しょうがくせいって?」


 首を傾げるプチに、私は動物相手に難しいことを話しすぎたと少し反省した。


「人の世界というものには、学ぶ場所があり、そのことですよ」


 マスターが簡潔に説明してくれ、私はありがとうございますと一つお礼を言って続けた。


「それで、どうしてもまた会いたくて……けれどどうすれば良いのか私にはわからなかったの。だから当時住んでいた家の近くの高校に入れば、もしかしたらまた会えるかもしれないって思って……。そこで調べたら近くの学校はとても頭が良くなくちゃ入れないと知って……」




 再び涙で視界がぼやけ始めてきたのを察したマスターが、新しいタオルを持ってきてくれた。


「雨水を吸ったタオルでは落ち着きませんよね。失礼しました」


 私はまた感情を静まらせ、続きを話した。


「私はその学校に入って、その近くに住むことを決めたの。それに、もしそこにまだ住んでいて、違う学校だとしても、編入試験が楽になると思ったから。だから私は、部活も、友達と遊ぶ時間も捨てて、全部勉強にかけてきて……。けれど、彼はもう、どこかへ引っ越してしまったみたい……。馬鹿ですよね、その可能性があるかもしれない事にも気づかないで……」




 こんなに誰かに話をしたのはいつぶりだろうか。私は抱えていた想いを全てぶつけてしまった。きっと呆れられるだろう。


 マスターは何も言わずに店の中へと入っていった。こんな話に付き合ってくれただけ感謝したかった。ため息を小さく吐くと、プチの手が私の腕に触れ、振り向くと手招きをしている。私は体を傾けてプチの身体に耳を近づけた。




 小さな白い可愛らしい手が、ぎこちなく私の頭を撫でた。


「大丈夫よ、頑張ったんだもんね。こうこう? とか私にはよくわからないけれど、頑張ったならそれで今は大丈夫よ」


 何も言わずに私はプチの身体をギュッと抱きしめた。プチは何も言わずにいてくれた。胸の中に溶け込んでしまいそうな暖かく小さい身体に、全てを受けとめてもらえた気がした。


「ありがとう、プチちゃん、話したらスッキリしちゃったから、もう大丈夫だよ」


「ね? 大丈夫って魔法の言葉でしょ? あとプチって呼んでね」


 優しく微笑むプチに、私の乾いた心はどこか潤った気がした。




「話の途中で抜けてしまってすみません。軽食でもどうかと思いまして。翠さん、朝食の方はもうお済で?」


 マスターが再びトレイを片手に戻ってきた。私は朝から何もお腹に入れていないことに気づき、ありがたくいただくことにした。マスターはコトンと音を立ててお皿を二枚配ると、私に言葉を浴びせた。


「こちら、『花びらのサンドイッチ』になります。先ほどは何も言わずに離席してしまい失礼しました。貴女のお悩み、確かに承りました」


「悩みを……承った……?」


 どういう意味だろうと、疑問に思っているとマスターはサンドイッチの説明を始めた。


「夏らしい花びらを少々混ぜましたので、スッキリするかと思いますよ」


「夏……?」


「ええ、この場所の暦は貴女方の世界と反転しています。この場所の現在の暦は冬、つまり貴女方の世界の暦は夏ということになります。他にも、色や昼夜、天気なども反転しますので、ご来店の際はお時間などにご注意ください」




 なぜ反転しているのか、そもそもこの場所は何なのか、私は色々と考える点があったが、何も訊かずにお皿の上に手を伸ばした。


 いただきます、そう言って三角にカットされたサンドイッチに噛り付いた。ハムやレタス、トマトなどが挟まれているにも関わらず、口の中がとてもスッキリとするような感覚だった。口の中から嗅覚を刺激する花の香りに、まるで味覚で香りを楽しませてもらっているようだ。食べ物とはまた違った匂いだというのに、どうしてか不快感がなかった。




「おいしい……それにとっても良い匂い……」


 花を材料として使用したと言っていたが、どういうことか、夏の日差しを避けるように、木陰に座っているような心地良さも感じられた。


「サンドイッチに使われている花は……」


 マスターが話そうとするとプチが声を張り上げて遮った。


「ヒマワリね!」


 少し驚いたマスターは笑顔で、その通りですと答え、話を続けた。


「ヒマワリもそうですが、他にも、貴女にふさわしい花を使用しています。きっと元気になりますよ」


 私は、プチとマスターの雑談に夢中になってしまっていて、いつのまにか何に落ち込んでいたのかすらも、忘れてしまっていた。


「そもそも、その彼とはどうしてまた会いたいの?」


 プチの汚れ一つない純粋な眼差しが、私の記憶を掘り返させる。




「彼には……何度も助けられたの。一人ぼっちの私に声をかけてくれたり、ケガをした時は家までおんぶしてくれたり……」


 私は遠い、とても古い記憶を頭の隅から引っ張り出した。


「あと、約束をしたの。大きくなったらまた、会いに行く、また一緒に遊ぶって……。子どもの頃の約束なんて、たかが知れてると思うけれど、私にはとっても大切にしたい約束だったの……。あ、ごめんね、こんな話して」


 また暗い顔をしてしまっていると自分で気づいては、咄嗟に二人に謝ってしまった。


「お気になさらず、とても良いお話ですよ、翠さん」


「そうよ、子どもでも約束は約束だわ。ちゃんと覚えてるなんてやっぱりスイは素敵な女の子だわ」


 ありがとうと、それだけ言って鼻からゆっくりと大きく息を吸った。プチは何も言わず、ただ私に寄り添ってくれていた。




「あとは……」


「あとは?」


 首を傾げて待つプチに私はもう一歩踏み込んで話そうと覚悟した。


「その……彼は……初恋の人なの……」


 逸らした視点の近くで、プチの耳が大きく立ち上がるのが視野に入る。


「スイ、あなた本当にかわいいのね」


 子猫なのに頬杖をつくプチがどこかおかしく、零すように笑ってしまった。


 サンドイッチも食べ終わったころ、マスターはまた店の中へ入り、戻ってきたと思ったら何か少し大きなものを持っている。ガラスのツボのようなものだろうか。




「それは、何ですか?」


 マスターは自分に押し込むように、とても大切に抱えている。


「こちらは月の鉢になります。貴女にとってとても大切なものになりますので、落とさぬように慎重に扱って下さい」


「月の……鉢……」


 マスターが私の前に鉢を置くと、鉢について説明をしてくれた。


「貴女の悩みを解決してくれる花が咲きます。おそらく、しばらくの間は咲かぬかもしれませんが、きっと貴女が求めている答えを教えてくれることでしょう。また、貴女の世界の土を混ぜており、この鉢に咲く花の色は反転しませんのでご安心を」


 プチは嬉しそうにテーブルに身体を乗り出して尻尾を立てている。


「私のも半月なのよ! 一緒ね! けど私のとは向きが違うかしら? ほら、あそこに置いてある鉢よ」




 プチの差す方向に目を向けると、テーブルの横に、私の座高より少し低いくらいの棚があり、鉢がいくつか並んでいる。半月のようなものもあれば、三日月のようなものもある。


 こちらは、と話し始めたマスターに口を挟んでしまった。


「下弦の月ね」


「ご存じでしたか」


 それなりに教養が染みついていた私は、上弦と下弦の違いもはっきりと分かった。


「素敵なものをありがとう、マスター」


 私は鉢を大切に持ち上げ、棚の三段あるうちの一番上の段にそっと置いた。どんな花が咲くのだろうか、私はなんだか楽しみが一つ増えたようだった。


「マスター、お水とサンドイッチと鉢はおいくら?」


 席に着き、私は時間を気にしてお会計をお願いした。


「ん? あれ……あ!」




 席のあちらこちらを触るように目を泳がせる。私は自転車の籠にバッグを入れっぱなしだったことに気が付いた。


「ご安心ください。当店はお代を頂いておりませんので」


 少し焦る私を前に、マスターが喋る。


「どうして……?」


 マスターはニコッと優しさを形にしたように微笑んだ。


「貴女の人生の助けになるのが、私の役目ですので」


「でも……」


 私は罪悪感から、席から立ち上がりにくい。


「そうですね、ではこうしましょう。これからここで出会う者とは名前を偽って下さい。正確には、貴女の思い出の中の彼が現れましたら、その人にだけは本当の名前を教えないでください」




 そんなことをする理由がわからない私は素直に疑問をぶつけた。


「どうして……そもそも彼がここに来てくれるの? それに名前を教えた方が私だってわかってくれるじゃない」


「そうよマスター、私はスイって名前可愛くて好きなのに」


 プチも割り込んで味方をしてくれた。マスターは天から落ちる月明かりを見上げて、綺麗な目を細めて答える。


「貴女の想う彼はきっと来てくれます。先ほど話した、偶然が彼を呼んでくれるでしょう。その時まで待つことしか今は出来ません」


 マスターは一拍置いて続けた。


「そして名前ですが、彼に思い出してもらうには、彼自身が気づく必要があります。貴女から教えるのではなく、彼自身が。そうでないときっと、貴女の為にはならないでしょう」




 どこか根拠のない理由に納得がいかなかったが、マスターの発言には自信があるように聞こえた。


「どうして私の事を思い出してくれないの? 私は確かに10年前、彼とは親しい仲だったはずよ?」


 マスターは鋭く美しい瞳で私をじっと見つめては、再び胸を張って口を開く。


「思い出というものは引き出しに似ています。貴女はその思い出をどの引き出しにしまったのかわかりきっているので、彼の事をすんなりと話せるのです。しかし、もし彼が貴女との思い出をどの引き出しにしまったのかわからなくなってしまっていたら? その引き出しは彼にしかわかりません。貴女が手を貸したところで、彼を紛らわせてしまうだけなのです」




 どこか説得力のあるその言葉の連続に、私は肩の力が抜けてしまった。


「そうなんですね……。私は何と名乗ればいいんですか?」


 マスターは私とプチの背後にある大木を見つめ、顎に手を添えて考える。


「”みどりいろ”なんてどう?」


 ニコニコとプチが嬉しそうに口を開いた。


「え?緑色?」


「そうよ、あなた、とってもみどりいろが似合いそうだもの。“スイ”ほどじゃないけど、可愛らしい名前だと思うわよ」


 ニコニコと、猫でもやっぱり女の子だなとわかるような愛おしい姿に、胸が温まる。


「マスター、じゃあ、“ミドリ”なんてどう?」


 マスターは顎に手を添えたまま、深く唸った後、そうですね貴女が良いのならば、と言ってくれた。




「これからよろしくね、ミドリ!」


「うん。プチも、ありがとうね。マスター、また来てもいい?」


「もちろん、お待ちしておりますよ」


 私は二人にお礼を言って、踵を返してこの場所を後にした。入ってきたトンネルのような、建物の隙間から、再び暗い道のりに足を運ぶ。


 ローファーの音が響く。次第に雨音も聞こえ始めていた。私はレインコートを被り、池の前に出て空を確かめた。


「やっぱり、まだ朝だし、雨だなぁ」


 雑木林の暗い道を振り返るも、やはり暗すぎて奥がわからない上に、誰もこの先に行こうなんて思わないだろうなと感じる。


 橋横の階段を上ると、自転車が歩道の端に寄せられていた。誰かがどけてくれていたのだろうか。


 私は一度帰宅して、今日はもう休んでしまおうと、自転車を走らせた。学校をさぼるのは人生で初めてだったけれど、今朝の私とは違い、どこか、とても生きている心地がしていた。

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