第3話 5月8日

5月8日




 カフェに到着するも、テラス席から溢れる違和感の正体は、椅子の数だった。いつも私が座る席は店に向かって右端なのに、その更に右側に椅子が用意されていた。


「こんばんは、みんな」


「こんばんは、ミドリさん」


 挨拶を返してくれたのは左から2番目に座るイノシシのラテだった。その左側には弟のモカ、ラテの右側には狸のダッチが座っている。


「今日も素敵な夜日和ね。プチ、どうして席が多いの?」


 私がいつも通りプチの横に座りながら問うと、店からマスターがマグカップを持ってきてくれた。


「こんばんは。こちら特別な意味はありませんが、ココアになります。落ち着かせてくれますよ」


 そう言うマスターは私の隣の席、新しく椅子の置かれた場所に置き、指を揃えてその席を指した。




「申し訳ございませんが、本日より翠さんの席はこちらになります。お手数ですが、ご移動をお願いしてもよろしいですか?」


 私は言われるがままに移動したが、席が一つ離れ、私だけ省かれたような気持ちだった。


「昨晩、翠さんが帰宅した後、新たなお客様がお見えになりました。本日そのお方がご来店されますので、翠さんとプチの間に座っていただこうと思います」


 私がこのカフェを知った後に、ダッチが新しくこの場所にきた。その時のような軽い席替えのようなものだった。


「プチ〜お別れはいやだよ〜」


 震わせた声で手を伸ばすと、すぐ近くにいるじゃない、と冷め切った返事だけが返された。それにみんなは笑っていた。




「驚くお気持ちはわかりますが、まずはこちらへ」


 マスターは遠くを見つめて誰かに話しかけ、振り向かずとも誰かが来たのがわかる。今度はどんな動物が来てくれたのだろうと、プチに伸ばした手を引っ込めて横目で確かめると、心臓がドクンと大きく鳴った。


 優しげな表情、細めの体型、薄く茶色掛かった目の色、間違いなく彼だと記憶の奥底と体全体がそう感じた。突然の再会に胸の奥が戸惑っている。言葉を探すも、見当たらない。


「チッ、人間かよ……」


 人間嫌いなモカが彼を拒んでいる。私は彼から横目で向ける視線を離せずに固まってしまっている。私の体は凍ってしまったようだった。




「やめなさいモカ。失礼ですよ。うちの弟がすみません」


 ラテがモカを注意する声が聞こえる。体をどうにか動かさなければ。


「ミドリ……大丈夫……?」


 小声で話しかけてくれたプチのおかげで、ようやく体が動きを取り戻したが、彼から外した視線は湯気の立つココアを見つめて再び固まってしまう。体が思うように動いてくれない。ようやく出会えた事に頭がついてきてくれない。


「どうぞ、お座りになって下さい」


 彼は恐る恐る私とプチの間の席に座った。緊張しているのか、特に言葉を使わずにいると、マスターが声をかけた。




「大丈夫ですよ、あなたを攻める方はいらっしゃいません。モカも、本当は歓迎していますよ」


 頷く彼を横目に見るが、声をかけられない。あんなにも会いたがっていたのに、いざ突然出会ってしまうとどうすれば良いのかわからない。


「申し遅れました。私、当店『時節カフェ』のオーナーをしております。マスターとお呼びください」


 マスターはこの人が私の話していた彼だという事に気づいているのだろうか。気づいていて欲しい、ココアを一口飲む私は、そう小さく願っていた。


「時節カフェ……」


 彼がポツリと呟き、私はココアの甘さで焦る心が落ち着いた。そして咄嗟に言葉が喉から飛び出した。




「マスター、これとてもおいしいです」


 ほんのりと後から伝わるミルクの味が、懐かしさを生み出している。騒ぎ立てていた心の雨音はいつの間にか止んでいた。彼は何も言葉を使わない。探そうともしていないようだった。再び横目で確認すると、彼は私を見ていたようだった。目が合う一瞬そう感じたが、すぐに逸らされてしまう。私はマグカップを口元に運んだ。


「お飲み物をお持ちしてよろしいでしょうか?」


 顔を覗き込むようにして伺うマスターに、彼はただお願いしますとだけ答え、その時私の体が何かに照らされた。影の伸びる方とは反して顔を向けると、あまりの美しさに、うわぁ声が漏れてしまった。




「すみません、何かついてますか?」


 私を見つめ、頭部をさする彼を見て私はふふっと笑みが溢れた。


「君じゃないよ、ほら」


 満点の星空、そして大きな満月を指差すと、彼はそれを見て身を固めてしまった。まるで全てを失い、諦めるべきだと感じた当時の私のように、ただ天を見上げて。


「天気に恵まれて良かったです。ただ、満月でないのが少々残念です。」


 空のグラスをトレイに乗せてマスターが戻った。彼には何を差し出すのだろうか。彼の前に置かれたグラスはコトッと音を立てただけで何も起こらない。


「あれは、満月ではないのですか?」


 彼はまっすぐとした視線でマスターに疑問をぶつけた。




「満月は昨日でしたので、残念ながら少しばかり欠けてしまっています」


 目を凝らさないとわからないほど僅かに欠けていたのが、マスターに言われて初めて気づく。完璧だと思われた月に裏切られたような気分だ。


「なんだ、満月じゃなかったのね。」


 肩の力が抜けた私に、彼は声をかけてくれた。目を見て話してくれた事に、心から喜びが湧き上がる。


 しかしココアで落ち着いた私は意外にも冷静だった。


「あれもあれで綺麗じゃないですか?」


「確かに綺麗だけれど、ほら、なんていうんだろ。白は真っ白だから美しいじゃない?」


 完璧でなければ美しくない、と言うわけでもないけれど、満月には30日に一度の美しさがある。時間をかけて光を集め、また失っていくのだ。私はその刹那が好きだった。




 私の言葉に彼は納得したような反応を見せていた。


「まあ実際見惚れていたから、本当に綺麗だとは思うよ」


 作ったような笑顔しか私は見せられなかった。彼と出会えて心から嬉しい気持ちはあったけれど、私だと気づいてもらえていない事実に寂しさが残っている。


 そして彼は、あまり笑わない人になっていた。その理由は定かではないが、作り笑顔が見抜かれぬよう、話を逸らさなければいけないような気がした。


「ところでマスター、この子に何を持ってきたの?」


 グラスに視線を移し、満たされない中身を問いかけた。




「『入道雲と通り雨のレモン水』です」


「入道雲と通り雨?」


 首を傾げる彼に、プチは口元に小さな手を添えてクスッと笑った。


「最初は驚くわよね」


 プチは私を気遣ってくれたのか、気をそらしてくれた。


「私プチと言います。マスターに名前を付けてもらったの。ここにいるあなた達以外はみんなマスターから名前を貰っているの」


「あなたたち?」


 再び首を傾げる彼に、プチはまたクスっと笑った。


「あなたの隣の女の子よ」


 ああ、と納得する彼に、やっぱり気づいてもらえていない事実に胸の奥が縮んだようだった。




「そろそろかな?」


 目を凝らすプチに、彼は真似るようにグラスに意識を向ける。


 グラスの上に現れたそれは、もくもくとだんだん大きくなり、ふたをするように手のひらサイズの柔らかな空色の雲ができた。彼は言葉も放たずに見惚れていた。


 雲からはいつの間にか水が滴り始めている。ぽちゃぽちゃとした音が、全員の注目を浴びている。


 頭を低くし、横から眺める彼の横顔は当時のままだった。10年以上も前のことなのに、こんなにはっきりと覚えている。ようやく出会えたというのに、とても遠い存在に感じるのはどうしてなのだろう。雨音に涙を誘われているようだった。


「……雨だ」


 その一言に、頬が緩む私はプチと微笑が重なった。彼の純粋で素直な表情が私を苦しめる。どうしてなのだろうか。


 グラスに7割ほど水が溜まると、雨は止み、じわじわと消えていく雲の中から輪切りにされたレモンが縁の部分に現れた。まさに入道雲と通り雨のレモン水だと納得できる。




「どうぞ召し上がって下さい」


 微笑むマスターを見て彼はグラスを唇に傾けた。


「……おいしい! すごくおいしいです! これどうやって作ったんですか!」


 自然な笑顔に場が和む。マスターの創作物には人の感情を動かす力があった。


「それはよかったです」


 マスターがニコッと笑う。


「ですが、作り方は企業秘密なので」


 続けて話すと、左手の短い人差し指を口元に添えた。


「そうですよね、すみません」


 彼は続けて、疑問をぶつけた。


「ところで、どうして雲が青かったんですか?」


 雲は普通白であり、このグラスに現れた雲の色に疑問を持ったようだ。私自身も過去に同じようなことを訊いたことがあった。




「それはあなた方が住んでいる場所と、この場所では、色や季節などが反転してしまうのです」


「……どうしてですか?」


「空は青い、雲は白い、海はしょっぱいなど、そんな世界があるなら、逆の世界もあるものですよ。この世界ではあなたの今まで生きてきた中での固定概念は、あまりないとお考え下さい」


 私も最初にマスターから受けた説明だ。彼はポカンとしていて、理解が追い付いていないようだった。


「だから今は夜なんですね……。ではどうしてこの場所の夜は、僕の世界の夜と変わらないんですか?」


 それはですね、とマスターが話しかけるとモカの大きな溜息と、グラスで机を叩く音が鼓膜を震わせた。




「いちいちめんどくさい奴だな。マスター、なんでこんなやつを招いたんだよ」


「こら! やめなさい!」


 人間が嫌いなモカだけれど、私はモカと仲が良かった。というのも、モカは自分の存在が他人に認められていないと感じていたようで、私が彼の気持ちや態度を受け入れると意外にもあっさりと親しくなれたのだ。


 彼は少し怯えた様子だった。


「モカ、ここにいる者たちはみな、同じく悲しみの悩みを持つ者なのですから、あまり種で差別せず、まずは受け入れてみましょう」


 マスターはまっすぐモカを見つめている。


 チッと舌打ちをし、席から腰を離すと、そのままモカは住処へと繋がる出口に歩き始めた。




「どこへ行くのですか」


 兄のラテが問うが、今日は帰るとだけ言い残して、そのまま私は四足で走り去る姿を見送ることしかできなかった。


「大変申し訳ありませんでした。私の方から後で叱っておきますので」


 彼の前へと歩み寄り、ラテは頭を下げて謝った。同じ生き方をしていても、兄弟の性格というものは大きく異なっている。


「いえいえ、全然お気になさらずに……」


 彼は気にしていないことを、両手と顔を横に振って伝えてた。きっといつか彼もモカと仲良くなれるだろうと、根拠もない自信だけは私の中であった。だから私が今口を挟むべきではないと思ったのだ。




「あの子も昔はあんな風ではなかったんです」


 ラテは私に初めて会った時と同じ話をし始めた。一度喋ると意外にも口数は多くなるタイプなのだ。


「すみません、申し遅れました。私、ラテと申します。他の皆さん同様にマスターから名を頂きました。そして弟、モカは昔いろいろなものに興味を持っていました。そこで人間の畑に踏み入ってしまい、そのことが人間にばれてしまい。後日、複数の人間たちが私達の母と他の兄弟を殺してしまいました。私とモカはなんとか捕まらずにすんだのですが、その日以来、モカは人間に恨みを持って生きるようになってしまい……」


 マシンガンのように話すラテに、空気が重くなる。




「すみません、嫌なことを思い出させてしまって」


 彼が謝るとラテはまた申し訳なさそうにして頭を下げた。


「いえいえ、こちらこそこんな話をしてしまってすみません。もちろん、あなた方のような優しい方もいるとわかっておりますので、お気になさらないでください」


「ところで君は何の悩みを持っているの?」


 ラテが席へ戻ると、私はようやくしっかりと向き合う覚悟を決めた。ココアも残りが少ない。


「あ、ごめんね、自己紹介がまだだったね。私はミドリ。羽に卒業の卒で、翠」


 膝の上に手を置いて体を彼に向け、座り直す。ちゃんと笑顔は作れているだろうか。緊張で手が小刻みに震えているのが自分でもわかる。柔らかな微風がベージュのスカートを揺らして足をくすぐった。




「羽に……卒……」


 彼の反応に期待が膨らんでしまう。首を傾げる素振りをするが、思い出して欲しいという気持ちがどうしても強くなってしまう。


「どうかなさいましたか?」


 マスターが口を挟む。


「……いえ、どこかでその字を昔見たことがある気がして……」


「……そうですか。思い出というものは引き出しのようなものです。今はきっとどの棚の、どの段にしまったか、手探りで探している状態なのでしょう。きっといつか思い出せますよ」


 頷く彼に、胸が一瞬だけ存在感を増した。彼のことは知っている、けれど初めて出会ったような態度を取らなければ、伝えるのではなく思い出してもらわなければ、そう自分に何度も言い聞かせ、10年以上前に教えてくれた彼の名前を訊き返した。


 あっはい、と言って私方へ体を向けてくれた。体を向け合うと私の緊張はさらに鼓動を急がせる。隠れてしまいたい、逃げ出したい気持ちもある。落ち着いた心は再び騒ぎ立てている。私はちゃんと笑えているだろうか。




「僕ははやてです。立つ辺に、風です」


「颯君ね、よろしく。あと敬語じゃなくていいよ。なんか話しにくくなっちゃう」


 初めて会うような素振りを見せなくてはいけないことに、どこからか悲しみが生まれた。けれどどうしても距離を近づけなければと、首元をくすぐる髪を耳にかけた。


「あ、はい。わかり……わかった」


 そうだ、彼も悩みを持ってここに来たんだと思い出す。何かヒントになるかもしれない。私は前屈みになって彼の顔を覗き込んだ。


「で、颯君の悩みとは?」


「悩み……正直、特に悩みなんてないのですが……」


 うーんと唸って、顎に手を添えて考えている。その姿も愛おしい。しかし答えは出なかった。




「僕は今特に困っていることもないし、誰かに相談したいこともないし」


 隠しているのだろうか、それとも本当に自分でもわからないのだろうか。私も困惑してしまう。


「もしかして悩みを抱えている人達だけがここに招かれるのですか?」


 顔だけマスターに向ける彼が訊く。


「ご名答です。そして招いたのも私です。招いた理由ですが、あるコーヒー店つながりで貴方を知り、是非この店にもご来店していただきたいなと思いました」


 その一言に私も驚きから眉が少しだけ持ち上がった。マスターは彼を見つけてくれたようだ。長い年月だったけれど、願いを叶えてくれたマスターには感謝しかない。




「直感を頼りに歩いていると、この場所を見つけた。合っていますか?」


 質問に少し驚きつつ、彼がはいと答えると更に続けた。


「すべての出会いは偶然の連続であり、偶然が運命である。出会いとはそうではないでしょうか。私が招いたのは、あなたの気まぐれな偶然ですよ」


 私も最初に聴いた言葉だ。当時は難しかったが、今では理解できる。私は深く頷いた。


「ところで颯君は不思議に思わないの?」


「何が?」


 彼はよく首を傾げる。この小さな行動すらも緊張を促される。




「ここに来るときの入り口、どうしてここに繋がっているのかとか……」


 私は気持ちがバレないよう、肩からずり落ちそうなデニムのアウターをかけ直す。彼が声を張って答えるものだから、私の背筋が伸び上がる。


「あ! そうだ、それも不思議に思ってたんだった!」


 とても無邪気で気さくな反応と表情に、笑みが声となった。


「この世界にはどうやって移動できたんですか? ……というよりも、ここはどこなんですか?」


 彼は眉頭を近づけて前のめりになった。




「そうですねぇ、ここは地球の中にある宇宙、といったところでしょうか


「地球の中の宇宙?」


 マスターがまた難しい話をしようとするので、私は残りのココアを飲み物を流し込み、カップを空にした。


「あなたたちは普通、地球という星の上を歩きますが、逆もしかりで、ここは地球の下側に当たります。地底とはまた異なりますが、裏世界のような存在です」


 彼が理解しきれていない反応を見せるも、マスターは続けた。


「また、通常の地球の反対側に位置しているので季節感、色、空などもあなた方の世界とは異なります」




「季節感……?」


 マスターの言葉が引っかかったようだ。私自身も、彼とは次から、季節を理由に会う約束をしようと考えが浮かんだ。


「ええ、今あなたは何月を生きていますか?」


「えっと、5月です」


「ならばその反対、今この世界は11月の季節となります」


 マスターは中央の大きな木へと目を移し、続けた。


「あの中央の大木、あちらがこの世界の季節を表してくれています。11月なので、今あの木には葉がないのです。そしてあなた方の季節で言う春と秋には見ものですよ」


 マスターはまるで大木に話しかけるように語った。その横顔は、真っ直ぐな目をしていて、迷いがない。




「そろそろ何かお食事をお持ちいたしますね。皆さま少々お待ちを」


 ニコッと笑い、一礼した後に店内へとマスターは姿を消した。


「そうだプチ、またあのおじいさんのところに行ったんだって?」


 どこかか弱い声の持ち主は、狸のダッチだ。人見知りなダッチは口を開き始めるのが遅かった。


「そうよ、悪い?」


 プチは胸を張って口元をクイっとあげ、どこか少しだけ不機嫌になった。


「ううん、いつまでも感謝の気持ちを忘れない君が素敵だなと思ったんだ」


 ダッチは、か弱そうな声とはギャップに、とても男の子らしい一面を持っている。




「あら、ダッチちゃんったら、いいこと言うじゃない」


「だから僕は男だってば!」


 たわいも無い会話に、私もラテも心が和む。しかし彼はキョトンとしている。まだ何も知らない彼には妥当な反応だった。


「プチはね、前にカラスに襲われていた所をおじいさんに助けてもらったんだって。で、その人に今でもお礼をし続けてるんだって」


 彼はゆっくりと頷いて、へぇと声を吐く。話の続きをダッチが繋ぐ。


「で、今でもここから4駅も離れた場所に花を届けに行ってるんだよ」


「4駅も!?」


 彼はびっくりすると声が大きくなる人だった。私は彼の驚きに、驚いてしまう。




「余計なことを言わないでよダッチ!」


 怒ったプチがダッチの背中を鈍い音を立てて叩いた。


「まあまあ、ダッチの言う通り、素敵ですよ」


 ラテがプチを宥めるように両手を小さく仰いだ。


「伝えられない想いって、無惨だわ」


 頬杖をついて、ため息を漏らすプチに彼は疑問を吐いた。やっぱり初日は質問が多くなるのは当然かと、彼について訊きたい私は半ば今日を諦めた。


「というか、どうして僕たち違う生き物なのに話が通じるの?」


「この空間は不思議なことばかりなんだ。こうして話せるのも、不思議なパワーってやつなんだよ」


 ダッチが両手をめいっぱい広げて話していると、マスターが円盤の形をした木製のトレイを持って戻ってきた。その上には白い小皿が人数分乗せられている。




「はい、ここは皆さまが生まれた環境とは大きく異なります。どのような力なのかは私も詳しくは存じ上げませんが、心で会話していることは知っています」


「心で?」


 彼が言葉をぶつけると、マスターは小皿を配りながら続けた。


「はい、会話というのは言葉だけでは成り立ちません。視線、表情、態度、他にもさまざまなものが関係しますが、特に大切なのは心なのです」


 小皿と小さなスプーンを配り終えると、短い人差し指をピンと立てて続ける。


「言葉は心が原動力として現れます。つまり会話を成立させる言葉は元を辿ると心に辿り着くということです。この世界では、外の世界とは違い、言葉ではなく心で会話しているのです。そのため言葉が異なっていようと、会話が成立してしまうのです」


 私もこの話は初めて聴いた。難しい話を頭で理解しようとするも、ぼうとしてしまう癖が出た。




「つまりは、僕らは言葉ではなく心をぶつけ合っている。テレパシーのようなものですか?」


「ご簡易していただきありがとうございます。イメージとしてはそのように捉えていただいて結構です。それぞれ心の声をプチには猫の形、ダッチには狸の形、ラテとモカにはイノシシの形、そしてお二人には人間の形として変換され、聴こえるのです」


「難しいなぁ。けどすごいのは伝わりました」


 頬杖をついて、簡単にだけど少し理解できた。


「そして皆様にお配りしたこちら、星屑と満月のフルーツゼリーでございます」


 小さな透明な小皿に入れられたのは、綺麗なネイビー色をしたゼリーに、金箔が混ざり、それを囲うようにリンゴ、ミカン、桃やブドウなどの様々な果物が入っている。そして一番に輝いていたのは、天に沈む月がゼリーに反射していて、まるで月がゼリーの中に紛れているようだ。


 そのゼリーはまるで僕達の頭上にある夜空だった。




「あ、すみません、僕お財布を今日持っていなくて……」


 彼は焦った様子を見せる。


「ご心配は無用ですよ」


 ニコリと笑うマスターに、言葉を繋ぐようにダッチが口を開いた。


「この店、対価ないから大丈夫だよ」


「え!?」


 目を見開く彼の表情は素直だった。


「まあ、マスターがいいって言うならいいじゃない」


 でも、と彼が受け取りを断ろうとするとマスターはニコリと微笑んだ。




「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 スプーンを両手で持っていただきます、と呟くと彼もスプーンに手を差し伸べた。彼も同じようにしていただきますと言い、スプーンをゼリーの中に差し込んだ。


 口の中でゼリーを砕くと、サイダーのような味がした。しかし甘すぎず、さっぱりとするような、とても食べやすいものだ。深い青色をしており、その割には苦みや食べにくさなどがない。初めての味だった。


 全員がゼリーを食べ終えるとマスターは左手首に着けている時計の針を確認し、そろそろお開きにいたしましょうと話した。




「本当に何も払わなくていいんですか?」


「皆様とお話ができて楽しい時間を過ごすことができました。それだけで充分です。またいつでもお越しください」


 彼の言葉にマスターは再びニコリと笑った。とても素敵で不思議な人だと改めて感じる。


「あれは渡さないの?」


 テーブルに乗せた腕に体重をかけるプチが口を開いた。


「あ、そうそう、ありがとうございますプチ」


 マスターが店内に戻り、再び戻ってくると月の鉢を抱えている。私やみんなのものとは形が違う。満月の形だ。


「これは?」


 コトッと音を立てて彼のテーブルの前に置いた。




「こちらがあなたの『月の鉢』になります」


 私はその形を見て、心が沈んでいくのがすぐにわかった。


「鉢?」


 マスターは鉢について説明をする。


「あなたの悩みを解決してくれる花が咲きます。直接は解決してくれなくとも、いずれは役に立つことでしょう。しかしご安心を。皆様に馴染みがあるよう、花の色はそちらの世界と同じものが咲きますので」


 理解しきれていない頭の中が見て取れる。


「えっと……どうしてここに咲く花は色が逆にならないのですか?」


ふり絞ったように出した質問にマスターが答える。


「そちらの世界の土を混ぜてありますので……この鉢と土は言わば二つの世界の組み合わせのようなものです」


 へー、と声を漏らすとマスターが鉢に添えていた手を離した。




「では、よく見ておいてくださいね」


 顔を鉢に近づける彼を見て、暗くなる気持ちを誤魔化したくなってしまった。


「わっ!!」


 彼の方を優しく叩いて、あははと笑う。どうしても心を騙したかったのだ。


「びっくりしたぁ……」


「あ! ほら、見て!」


 プチが声を上げた。


 鉢に目を戻すと、小さな芽が出てきた。私も花が咲く瞬間を見るのは初めてだった。鉢の12時の位置だ。芽はみるみるうちに大きくなる。




「成長が早い……」


 1分もしないうちに芽は大きな葉を創り、小さな花を複数咲かせた。ピンク、赤、オレンジ、黄、白など、一度に多くを彩った。


「ほう、これは珍しい」


 マスターが顎に手を添えて花を覗き込む。


「何が珍しいんですか?」


「この鉢には大体、様々な花が咲くのですが、一むらの中でこのように多くの色を咲かすのは私もほとんど見ません」


 へーと声を漏らす彼は何も知らない。この鉢には、鉢の持ち主のことを想ってくれる花が咲くことを。




「あなたは愛されてるわね」


 プチは寂しげな表情を浮かべた。私を見ていたのか、彼を見ていたのかはわからない。


「そしてこちらは、カランコエ、ですね」


「カランコエ?」


彼が訊く。


「ええ、この花の名ですよ」


 この花は知っている。そして花言葉も。


 この花は、”幸福を告げる”という意味がある。彼と出会えたことを意味しているのだろう。まるでこの鉢と私の心が繋がっているようだった。




「こちらは私が責任を持って見守ります。ご安心ください」


 マスターは体を横に向け、鉢の並ぶ棚に手を伸ばす。


「あちらに皆さまのものとご一緒に飾って下さい」


 彼は言われるがままに立ち上がり、私の鉢の隣へ置いた。私の鉢にはまだ花が咲いていない。


「じゃあまたねだね、颯君。あ、ID交換しようよ」


 彼が席に戻り、私はこのチャンスは絶対に逃さまいとポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。


「ごめんなさい、スマホは普段持ち歩かなくて……」


 スマホを持ち歩かないなんて今の時代に本当だろうかと疑う気持ちが隅にできた。私と連絡先を交換したくないだけなのか……。




「そっか、じゃあ次いつここに来る?」


「次……ですか?」


 困った顔をしているのを見て、胸が苦しかったが、絶対に引き下がってはいけないと自分が言い聞かせる。


「そう! 次! またここで会おうよ!」


 彼はとても悩んだ様子だ。少し強引すぎだろうか。


「じゃあ、梅雨に入った日にここで会おうよ」


 戸惑う姿を見て、不安が募る。また困らせてしまったようだ。


「もし来られなくてもいいよ。そしたらまた考えるから」


 落ち着いた声を出して、自分の焦る気持ちを隠した。


「ありがとう。できるだけ行けるようにはするよ」


浅く頭を下げる彼を見て、話を変えなければと動揺してしまう。そうだ、彼はいくつなのだろう。幼い頃の記憶だから大体同い年としか考えていなかった。




「というか颯君って、何年生?」


「えっと、高2です」


 落ち着いた雰囲気の割に、意外にも歳下だった。


「お、じゃあ後輩君だね」


「え? 翠さんは何年生?」


「高校3年生です! 敬いなさい!」


私は三本のピンと立てた指の腹を見せると、彼が驚いた表情を見せる。


「ええ! 一個差! あんまり変わらないじゃん!」


「生まれて一年の差は大きいぞー」


 話しづらくないだろうか、距離を置きたくないだろうかと心配はあったが、とにかくそれらしい態度を取らなければ。




「いえ、そうではなくて、もっと大人な方というか、大学生くらいの方かと思ってました……」


「え! 私そんなに若く見えない……?」


 やはり彼は私に気づこうともしていないのかと様々な悪い思考が頭を巡り、眉が自然と近づき、身勝手に傷心したのが表に出てしまう。


「そうではなくて、とても雰囲気が大人だなと感じて……」


 大人かぁ……と声を漏らして、一旦落ち着きを取り戻せた。


「まあ許して差し上げよう後輩君」


 胸の前で腕を組み、とにかく元気な姿を見せるべきだと心の中で何度も唱えた。


「あ、ありがとうございます」


 彼は微笑していた。その優しげな目に、私も安心した。




「じゃあ私はそろそろお先に行きますね」


 ラテが帰ろうと席を立った。彼との話の最中、ダッチとヒソヒソと話しているのは見えていた。きっと何かを察してくれたのだろう。じゃあまたねと、ダッチも続いて席を後にする。プチはまだ席から離れず、私達の会話を食べるように見ていた。ゆっくりと頷くその白い毛並みに、私は曖昧な気持ちに終止符を打った。


「梅雨入りの日、放課後ここに集合ね! あ、学校ない日だったらお昼の12時に集合しよ!」


 パンっと胸の前で音を作って話を締める。彼は渋々承知してくれた。


「じゃあ私も、そろそろ行くね」


 テーブルに手をついて立ち上がり、私は月明かりを浴びるように見上げた。もし神様がいるのなら、私はどう感謝を伝えれば良いのだろう、そんな事を胸に秘めた。


 大木を過ぎたあたりで振り返り、念を押した。




「じゃあ約束、忘れないでね」


 小さな黒い鞄と傘を片手に、空いた方の手を振り踵を向けて歩き出す。きっと大丈夫、そう思うしかなかった。


 建物の隙間へ踏み入れ、雑木林の道から抜けると空から滴る雨が池に波紋を作り続けていた。


 腕に掛けていた傘を開いた瞬間、私は喜びが溢れて走り出していた。彼に会えた、ようやく願いが叶ったと、落ち込んでいたさっきが嘘のようだ。


 自然と口角が上がってしまう。十数年の年月、待った甲斐があった。諦めなくてよかったと胸の内の私が爆発しそうなほどだ。




 橋横の階段を駆け上がり切ると、私は息を切らして足を止める。少しだけ落ち着いた。


 水溜りも気にせずに突き進む私の靴は、気づいた頃には乾いた箇所が無くなるほどにぐしょぐしょだ。


 彼と再会できた今日という日が、私の過去で2番目に輝いた忘れられない時間となった。

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