第2話 サンルームで朝食を①

 ————アラームが鳴っている。

 規則的な電子音にゆっくりと意識が覚醒する。アラームはまだ鳴ってた。この音はたぶんミアのアラームだ。レイはそもそもアラームをかけないし、巻奈はたぶん早朝に起きてエルとアールのお散歩にでも行ってる。

「ふぁ………」

 大きく伸びをしてから起き上がる。特に予定はないから二度寝してもよかったけれど、目が覚めちゃったから眠れそうにない。あと喉も乾いた。ベッドから立ち上がって部屋の扉を開けると、ちょうど目の前の部屋からレイが顔を出したところだった。

「おはよ、ユウリ………」

「あれ?レイのアラームだったの?」

「うん。今日、買い物行きたくて」

「声かっすかすだよ」

「朝弱いんだってば………」

 シルバーの髪があちらこちらに跳ねているレイがごしごしと目をこすりながら掠れた声で訴える。夜型だからと言い張って昨日も随分夜更かししたんだろうなぁ。それならこの時間に起きて買い物に行こうといているのは偉いって褒めるべきなのかも。

「それ、軍にいた時どうしてたの?」

「上官に引くほど殴られた」

「それでも寝起き悪いままなの逆にすごいね」

「私は私のやりたいように生きる」

「かっこいい………のかな………?」

 誰に何を言われても自分の姿勢をぶらさないところはすごい。我儘で扱いづらいとも言うけれど、物は良いようだ。最近は短所も言い換えれば長所になるって言うみたいだし。

「ミアはもう起きてるんだっけ」

「блядь………」

「何言ってるか分からないけど絶対スラングでしょ」

 もにゃもにゃと目をこすってまだ半分しか覚醒していない様子だ。しょうがないから片手を引っ張って階段を下りるのを手伝ってあげることにしよう。受け身がとれるって言っても階段から落ちるのは可哀想だしね。

「お、二人とも今日は早いね。Morning!」

「ミア、你早ニーザオ、じゃなかった。おはよう」

「Утречка………?」

 一階のキッチンで立ったまま水を飲むミアにひらひらと手を振って、リビングのソファーにレイと並んで腰かける。並んでって言っても、レイは引っ張られるままに動いてるから私に引きずられてる感じだ。ローテーブルの上にテレビのスイッチがあったから、それを手に取って適当に朝のニュース番組をつけた。

「今日花粉すごいってさ」

「えぇ、きっつ………あ、ちょっとレイ、寝ないでよ」

「んんん」

「え、起きたんじゃなかったの?」

「まだ眠いみたい」

 ずるずると横倒しになってソファーに倒れたレイの髪を適当に撫でて整えながら、ぼんやりとテレビの画面を見つめる。晴れかぁ、レイが買い物に行くなら私も一緒に連れて行ってもらおうかな。

「面白いニュースやってた?」

「別に。動物園でトラの赤ちゃんが生まれたって」

「今日も日本は平和だなぁ」

「平和じゃないと困るよ」

「そうだね、平和最高」

 お皿に載せたトーストを持ってきてカーペットの上に座ったミアがきちんと手を合わせて「いただきます」と口にした。所作はできるだけ丁寧に————できる限り普通に。それがここで暮らしていくために私たちが決めたことだ。私たちが、私たちらしく生きるために。

「ユウリ、何考えてるの?」

「え?」

「すごいぼんやりした顔してたから」

「朝ごはんをパンにするかご飯にするか悩んでる」

「巻奈が昨日炊いたご飯が余ってるよ」

「じゃあそれ食べようかな」

 日本に来てから初めて食べたけれど、白米はすごく美味しい。ベトナムでも少しだけ食べたお米とは全然味が違うのだ。漬物はまだちょっと苦手だけど、納豆は克服したし海苔は最高。一回食べだすと止まらなくなるのが難点だ。

「白米ってあったっけ?」

「炊飯器の中にあるよー………あ、巻奈が帰ってきた」

 建付けの悪い玄関の引き戸をがらがらと引っ張る音と、板張りの廊下が軋む音。分かりやすく誰かの侵入を伝えてくれるのは助かるけど、音がうるさいからそろそろ油をさしたほうがいいのかも。色々と手は加えてるけど、もともとの家は築百年のオンボロ住宅なのだ。まだまだリフォームしたい場所はたくさんある。

「ただいま~、あれ今日は早いんだね、二人とも」

「ばうっ」

 お散歩から帰ってきた巻奈が私たちに目を向けてニコリと微笑む。足元にはエルとアール………二匹ともそっくりのドーベルマンだけど、青い首輪がエルで赤い首輪がアール。もそもそとパンをかじっていたミアが、片手をひらひらと振った。

「お、帰ってきた?おいでエル!」

「うわ起きた」

 突然覚醒してソファーに横になったまま大きく手を広げるレイ。そこに向かってエルが猛ダッシュして勢いよく滑り込んでいった。

「あははは、こいつめこいつめ」

「わふわふわふ」

「あーあーあー」

そのままべろべろと顔面を舐められてレイがもみくちゃになっている。エルもアールも超大型犬だからその気になればレイの頭を嚙み砕けそうだけど、そこはきちんと手加減してじゃれているので彼女の頭がスイカみたいに砕ける心配をする必要はない。それにエルも楽しいみたいで、しっぽを千切れそうなくらい振ってるし。

「エルー、手加減してあげてね」

「巻奈はもう朝ごはん食べたの?」

「ううん、今から。ミアは白米?よそってあげようか?」

「ありがた~い」

 キッチンに歩いていく巻奈の後ろをアールがついていく。エルとアールはとても賢いから片方が巻奈のそばを離れる時は片方がつきっきりになるのだ。

「レイは………あんまり朝食べれないんだっけ」

「後でプロテイン飲む」

 ————それはいつも通りの朝だった。きっとこの後ストレッチして、お休みだから食べ物を買いに行って、ちょっと贅沢にアイスなんて買っちゃたりして。日常はあっという間に崩れるものだって、私たちは十分に知っているはずだったのに。


 ふ、と突然ミアが顔を上げて玄関の方に目を向けた。

「————誰か来た」

「え?」

「音がする………ほら」

 言葉と同時に壁に掛けた電子時計の数字が突然赤色に変わって、全員でそれを見上げた。この家には侵入者を感知するシステムを組み込んである。私たち以外の誰かが敷地内に入ればすぐにわかる仕組みだ。

「………レイ、」

「分かった、私が出る」

 ソファーにあぐらをかいたレイはもうぼんやりしてなくて、伏せた目に青色の瞳が物騒に輝いていた。私もゆっくりとソファーから降りて、ローテーブルの下に手を伸ばす。ミアもテレビのリモコンを握り締めたし、エルとアールは巻奈の足元に近寄った。四人の体勢が整ったことを確認してから、レイがゆっくり立ち上がって板張りの廊下を進みだす。

「レイ、気を付けてね」

「分かってるよユウリ。私が死ぬとこ想像つくか?」

「それもそっか」

 小首を傾げてこちらを振り返ったレイに少しだけ笑って、再び表情を引き締める。ちょうどそのタイミングで、玄関に着けられたチャイムが鳴った。

「………チャイム鳴らすあたり、ちゃんとした人だね」

「うん、まぁそれはそうだけど」

「何が起きるかは分からないからね」

 引き戸を開けるレイの後ろ姿から目を離さないまま、三人で会話を続ける。相手の姿が見えないから、少しでも情報を想定して動きやすくしたい。

「はーい、どちらさま?」

 次の瞬間に何が起きても良いように。レイの体が吹き飛ぶかもしれないし、この家自体が吹き飛ぶかも。身構えている耳に届いたのは、落ち着いた男の低い声だった。

「………レイラ・ドストエフスカヤか?」

「どうしてその名前を」

 それはここで呼ばれるはずのない、レイの本名だった。レイラ・ドストエフスカヤ。ここに住み始めた時に偽装した住民票は「鹿山玲」という日本名にしたのに。

「久しぶりだな、元気にしていたか」

「っ、」

 そこからのレイの判断は素早かった。一歩後ろに下がってレイの足が引き戸を蹴り飛ばす。がん、と大きな音を立てて、引き戸が本来開かない方向、外側に向かって倒れていった。訪問者が扉の前に立っていれば、倒れてきた扉でしたたかに頭をうちつけた強烈な攻撃だ。攻撃と防御を同時に成立させるレイの反射神経がなせる技、だったのだけれど。

「うわっ、」

 倒れていく扉ががん、と横に投げ飛ばされた。古民家の扉と言っても、木製の扉だからそれなりの重量はあるはずなのに難なく片手で放り投げられてしまうなんて、そんなこと。

「待て、攻撃するな」

 次の攻撃に備えて体を低くして足を払おうとしたレイの体がぴたりと止まる。倒れた扉の向こう側には、光を遮って立つ二メートル近い巨体があった。

「サッチ・シモンズ捜査官だ。君たちに話したいことがあって来た」

 男————私たちがかつて所属していた組織の長官が、憮然とした顔で小さな玄関に仁王立ちしていた。



「………で、ここになんの用だよ、サッチ」

「日本では客人にお茶も入れないのか?」

 長い足を持て余すように正面のソファーに座った大柄な黒人————サッチの目の前に、大きな音を立てて湯呑が置かれた。少し視線を斜め上にあげると、いい笑顔の巻奈がお盆を片手に首を傾げる姿が。うーん、これはキレてる顔だ。

「どうぞ、粗茶ですが」

「ソチャ?」

「ただのお茶です、召し上がれ?」

 微笑む巻奈の足元では低い唸り声を上げるエルとアールが構えている。彼女が一声号令を出せばサッチは恐らくあっという間に喉を食い破られるだろうけど、その時は私たちの家も爆破されるはずだ。だってサッチ、さすがに一人で乗り込んでは来ないだろうし。困った、さてどうしたものか。

「単刀直入に言う、仕事の話だ」

「仕事~?」

 私の横に座って、ローテーブルに足を上げたレイが片方の眉を吊り上げた。

「仕事だってさ、私たちに。へぇ、仕事。残念だけど私たち、他の仕事があるんだよな」

「ほぉ………シンは商社だったか」

「………今はハタ秦優李ハタユウリ

 この人、どこまで調べて来たんだろう。お茶に手をつけないまま鋭い目でこちらを見下ろすサッチを見ながら考える。昔からこの長官は威圧的だ。あと大柄な男がいるせいで部屋の密度が上がって落ち着かない。

「詳細は、」

「言わなくていいよ」

 話し出した言葉を無遠慮に遮ると分かりやすく眉間にしわが寄った。

「聞いても仕事を受ける気はないからな。下手に機密情報を聞かされたんじゃたまらない」

「………これは、」

「命令だ?そうだよね、あなたはいつでも私たちに命令する。、ね」

 —————でも、それも私たちがサッチと世界を救っていた頃の話だ。今は状況が違う。

「軍はやめた。傭兵もやめた。なんかよく分からない治安維持組織もね、綺麗さっぱり足を洗ったの」

「ユウリの言う通りだよ。仕事の依頼はSNSでもインスタでも受け付けてない。あぁ、私のインスタ知らないっけ」

「知らなかったな、ぜひフォローさせてもらおう」

「ふふっ」

 巻奈が咄嗟に口を抑えたものの、小さな笑い声はちゃんと耳に届いた。「ちょっと巻奈、笑わないでよ」と小さな声でミアが不機嫌そうに呟く声も聞こえる。これはサッチに一本取られた。

「とにかく。レイが依頼を受け付けてないのと同じで、私もミアも巻奈も………エルもアールも、ここにいる生物は誰も仕事なんて求めてないわけ。つまり一昨日来やがれくそ野郎ってこと」

「………なんだその言葉は」

「ジャパニーズの罵倒だよ。ゲットホームってこと」

「ミア、手も口も汚いよ」

「あ、ごめんつい」

 両手の中指を天に向けたミアに対し、サッチはぴくりとも表情筋を動かさない。嫌な沈黙が家の中を支配して………うん、このへんが潮時だな。

「昔のよしみで中に入れたけど、別れの挨拶はこのくらいで十分?」

「………」

「立てよサッチ。何を言おうと私たちの生活は揺らがない」

 夢みたいな生活を送りたい。なりたい私たちになりたい。そのためにできることはなんだってしたし、今の生活が気に入っている。今さら昔の上司が来て恫喝されようとも、私たちは自分のやりたくないことはもう一度だってやりたくないのだ。

「………サッチ、悪いけど帰って」

 巻奈の言葉が最後通告になって、サッチはゆっくりとソファーから立ち上がった。もともと天井の低い家だから、二メートル近いサッチの巨体もあってとても窮屈そうだ。

「お帰りはあちらですよ」

「がう」

 巻奈が手で指示した方に向かってゆっくりと歩いていく後ろ姿が小さくなる。考えてもないハプニングだけど、上手く乗り切れてよかった。ミアの機嫌が悪くてうっかり殺されるなんてこともなかったし、レイが怒って首を切り落とすこともなかったし、巻奈………は、この後もしかしたら何かデジタルタトゥーでも刻もうとするかもしれないけど、それはまぁしょうがない。後でカフェにでも行って今日のテンションを持ちなおそう。

「—————君たちの生活を脅かすつもりはない」

 サッチが玄関扉を開けてから、足を止めてぽつりと呟いた。それに反応したエルとアールが唸り声を上げる。帰ろうとした瞬間に戻ろうとしたサッチは既に招かれざる客だ。だから番犬は当然のようにすごい勢いで走って。

「あ、」

「ぐぅ」

 —————身を守るために前に出したサッチの腕に噛みついた。

「エル、アール!変なもの食べちゃダメ!」

「巻奈!突っ込むポイント違うよ!」

「えええ、サッチ大丈夫!?」

 確かに気に食わない上司だけれど、さすがに食われてしまえとは思っていない。慌てて立ち上がって声をかけると、低いうめき声が漏れた。

「………すまない。君たちのことを使い潰すつもりはない。傷つけるつもりもこの生活を取り上げるつもりもないんだ。でも、君たちにしか頼めない仕事がある」

「いや、そんなことより腕、」

「………聞いてあげようぜ、ユウリ」

 慌てる私たちをよそに、レイだけはソファーに深く腰掛けた体勢から動かずに、腕から血を垂らすサッチと食いついて離れない猛犬を見つめていた。

「私たちの家に入るのに、腕一本置いてくなら大した覚悟じゃん。いいよ、話だけは聞こうか」

「………ありがたい、ドストエフスカヤ」

 そういえば、サッチはたまに戦場に出ることもあったけれど。どれだけ負傷をしても決めたことは絶対曲げない男だった。

「君たち四人の力が必要だ。すまない、助けてほしい。世界を救ってほしいんだ」

「………」

「もちろん報酬は弾む。この仕事が終わったら今の生活に戻れることをきちんと約束しよう。どうか、頼む」

「………はぁ」

 無言で頭を下げるサッチの後ろ姿を見て、ふむ、と顎に手を当てる。後ろに立っていたミアと巻奈に目を向けると、無言で小さく首を振られた。やっぱりそうだよなぁ。

「とりあえずこっちにおいでよ、サッチ。怪我の手当しないと」

 話を聞くくらいはしないと罰があたっちゃう、って日本では言うらしい。

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