■花酔のタペストリィ
翌朝、僕は約束通り咲の家まで車で迎えに行った。
同居している彼女の曾祖母――吉乃さんと、猫――精霊のふくに挨拶をしてから、東平家をあとにした。
スーパーで買い出しをしてから僕の自宅に向かうと、玄関に入った咲はそわそわとした様子で辺りを見渡している。
「どうしたの?」
「えっと……男の人の部屋に入るの慣れてなくて、緊張しちゃって」
僕は瞬きをしたあと、思わず笑みをこぼす。
「もうっ、笑わないでください!」
「ごめんごめん。かわいいなと思って」
顔を赤くした彼女は、「西橋さんのそういうことろ、ズルいです」と呟いてから、キッチンへ向かった。
手伝おうかと申し出たところ、見られると緊張するからと断られたため、僕は仕方なく居間でテレビでも見ることにした。
たまたまつけた情報番組では、有名な藤棚がある園で花が見ごろを迎えていると伝えている。
『藤はツルが強く、一度巻き付くとなかなか離れません。その姿から「決して離れない」という花言葉が生まれたんでしょうね』
リポーターの説明になるほどと頷きつつ、次の休みは咲と藤棚を見に行くのもいいかもしれないなと考えた。
咲が作ってくれたオムライスは美味しかった。
実のところ僕はオムライスが特別好物というわけではなく、あれこれメニューを選ぶのが面倒だから頼んでいただけだった。
でも本当のことを伝えてがっかりさせたくなかったし、何より僕が頼んだものを彼女が覚えてくれていたのが嬉しかったのだ。
昼食後ソファに腰かけていると、咲は所在なさげにうろうろしている。
「こっちに座ったら?」
自分の隣を指し示すと、素直に腰を下ろした。でも明らかに緊張している顔は、こっちまでうつってしまいそうなほどで。
「いきなり襲ったりしないから大丈夫。それくらいの分別はあるつもりだよ」
笑いながらそう言うと、真っ赤になった彼女は視線を彷徨わせている。
「……どうかした?」
今日の彼女は何かが違う気がした。恥ずかしがりやなのは元々だけど、それだけじゃない「迷い」のようなものを感じるのだ。
「あの……西橋さん」
「うん?」
一度俯いたあと、意を決したような目が僕を捉えた。
「月子さんって誰ですか」
思わず彼女の顔を見つめた。こちらを見つめ返す瞳は、不安げに揺れている。
「……どこでその名を?」
「この間、植物園で知らない女の人に声をかけられたんです。長い黒髪の綺麗な人で……西橋さんの知り合いだって言ってました」
「……それで?」
「西橋さんと付き合っているのかって聞かれて……。そうですって答えたら、その人凄く驚いてました」
咲は再び俯くと、消え入りそうな声で言う。
「『旅都は月子さんのことを忘れられずにいると思ってた』って言ってたから……」
膝の上に置かれた彼女の手が、強く握りしめられている。僕はさてどこから話すべきか、思案した。
こんなときでも冷静に考えようとしてしまう自分に、少しだけ呆れつつ。
「その人が言っていたことは認めるよ。僕は月子のことを忘れたことはない」
「じゃ……じゃあどうして、私と付き合っているんですか」
傷ついた瞳で見つめられると、今すぐ抱きしめてあげたい衝動に駆られる。僕は咲の手を取ると、静かに伝えた。
「彼女は……月子は亡くなったんだ。五年前にね」
「えっ……」
僕は月子が研修医時代の同僚でかつ、恋人だったこと。ゆくゆくは結婚を考えていたことを包み隠さず話した。
「ただその頃はお互い、仕事が忙しくてね。ゆっくり話もできない日々が続いてた」
大学病院での研修は激務を極め、家に帰ることすらままならない同僚が何人もいた。特に月子は生真面目で頑張りすぎるところがあったため、今思えばずっと無理を重ねていたのだろう。
「でもあの頃の僕は余裕がなくてね。目の前のことに精いっぱいで、彼女の心身が悲鳴をあげていることに気づいてあげられなかった」
そんなある日、月子が救急で運ばれたと連絡があった。
「僕は慌てて彼女が運び込まれた病院へ駆けつけたけど……間に合わなかった」
過労から来る肺炎をこじらせ、運ばれたときは既に意識がなかったという。
おそらくぎりぎりまで我慢していたのだろうと、担当した救命医が気の毒そうに言っていたのが今でも忘れられない。
「僕がもう少し早く気づいていたら……きっと月子は死ななかった。人の命を救うために医者になったのに、僕は一番大切な人の命すら護れなかったんだ」
あの日、自分の心は一度死んだのだと思う。
己に失望し、あれほど熱心に取り組んでいた医師の仕事すら、どうでもよくなっていた。
「その後僕は大学病院を辞めて、いったんは医師の道を捨てた。もう一度この道に戻れたのは、院長のおかげだよ」
「垣生先生が……」
咲の言葉に、うなずいてみせる。
「きっかけは僕が乗った電車に、院長が乗り合わせていたことだった。その日たまたま車内で急病人が出てね。すぐ近くにいた僕が介抱したんだ」
医師を辞めたつもりだったのに、その時は無我夢中だった。騒ぎを聞きつけ別の車両から助っ人に入ってくれたのが、垣生瑛介医師だったのだ。
「僕の対応を見て、医療関係者だって気づいたんだろうね。どこの病院に勤めてるのか聞かれたんだけど、その時は『もう医師は辞めたんです』って言うしかなくてね」
何かしらの事情があると察したのだろう、垣生医師は「ここで会ったのも縁だし、今度食事でも」と名刺を2枚渡してきた。1枚は彼本人のもので、もう1枚はどこかの店のものらしく店名と住所や連絡先が書かれてあった。
「戸惑う僕に院長は『僕はいつも昼をここで食べているんだ。おじさんのお節介と思ってね。嫌なら捨ててくれていいから』と笑って去っていってね。今思うと院長らしいんだけど、当時の僕にはちょっと衝撃だったよ。あんな誘われ方したのは初めてだったから」
それだけに垣生医師のことがずっと心にひっかかり、悩んだ結果、この件があってから一ヶ月後、彼が通っている店に赴いたのだ。
静かに耳を傾けていた咲が、微かに視線を上げた。
「……あの時の西橋さんと同じですね」
「うん?」
「垣生医院を飛び出した私を追いかけてくれたとき。西橋さんが垣生先生と同じように手を差し伸べてくれたから、私も前に進めたんです」
「ああ……そうだったね。今思えば自分がしてもらったことを、君に返そうとしたのかもしれない」
その時は無意識に取った行動だったけれど、ペイ・フォワード(親切の循環)というのは案外自分が意図しないところで生まれているのだろう。僕よりずっと彼女の方が、循環の輪へ飛び込んでいく帆を持っているのは間違いないけれど。
「それで、垣生先生とはどんな話をしたんですか?」
「院長はちゃんと僕のことを覚えててくれてね。医師を辞めることになったいきさつについても耳を傾けてくれた」
今でもあの時の光景をはっきりと覚えている。話を聞き終えた院長は、僕の顔をじっと見つめてから「君のせいじゃない」と静かに告げた。
”月子さんをそこまで追い込んだのも、君から余裕を奪ったのも、今の研修制度が過酷を極めるせいだ。それは個人でなんとかなるものじゃない。
自分を責めるなとは言わないが、課題と責任の分別を見失ってはいけないよ”
垣生医師の口調に同情や憐憫の気配はなく、だからこそ僕は彼の言葉を冷静に受け止めることができたのだと思う。
「その時院長に言われたんだ。『あの日見た君は、立派な医師の顔をしていた。そんなもんなんだよ、天職っていうのはね。自分の意思なんてまるで無視したように、向こうから使命がやってくる』ってね」
”もし君がまだ自分のことを許せないというのなら、僕のために働いてくれないか”
突然の申し出に驚く僕に、院長は「別にこれは親切じゃなくて、僕が君と仕事したいと思ったからだ」と言いおいて。
まあ今うちの病院が人手不足なのも事実だけど、と笑った顔はどこか少年のような無邪気さがのぞいていた。
「その時僕は思ったんだ。ああ、この人だって。この人の元でなら、もう一度やり直せるんじゃないかってね」
あの日流した涙は、死んでしまった僕の一部が、再び鼓動を始めた証のように思えた。
その後僕はより専門性を高めるための後期研修を総合病院で済ませてから、改めて垣生医院で雇ってほしいと頼んだ。
一度志を捨てた自分が人の命に向き合う以上、中途半端でいるわけにはいかないと思ったから。
「院長はそんなに気負わなくていいって言ってくれたけど、僕なりの誠意でもあったしね」
きっと月子を喪った痛みは、生涯消えることはないのだろう。だから僕は痛みを抱えたまま、前に進むことにした。
もう二度と、大切な人を見失わない。己の使命から目をそらさないと、心に誓って――
「僕が仕事のときに黒い服を着るのはね。あの時の決意と月子の死を忘れないためでもあるんだ」
すべてを聞き終えた咲は、俯いたまま沈黙していた。やがて目元をぬぐうと「ごめんなさい」と呟く。
「私……西橋さんがそんな辛い経験をしていたことも知らないで、勝手にショック受けてました。ほんと恥ずかしいです」
「僕が言わなかったんだから、知らないのは当然だよ。こっちこそ不安にさせてごめん」
彼女は何度もかぶりを振ると、顔を上げて僕の目をまっすぐに捉えた。
「私、西橋さんのこと幸せにします」
「え?」
「絶対、幸せにします。だから……ずっと離れないでくださいね。そうすれば見失わないから」
そう告げる彼女の顔は真剣そのもので、僕は目の奥が熱くなるのをごまかすようにおどけてみせた。
「……なんだかプロポーズされたみたいだな」
「えっ!? あっ……さすがに早いですよね」
だいぶ斜め上の返答に、思わず吹き出してしまう。顔を赤くした彼女は「そんなに笑わなくても……」と頬を膨らませながらも、どこか嬉しそうに言った。
「でもいいです。西橋さんの笑った顔が見れたから」
たぶんこの時の僕は、さまざまな感情が入り乱れてだいぶまずいことになっていたと思う。
平静を保てなくなった顔を見られたくなくて、とっさに咲を抱き締めた。彼女の髪に鼻先をうずめながら、やっとの思いで告げる。
「……ありがとう、咲」
細くしなやかな髪からは、甘い花のような香りがした。
「私こそ、話してくれてありがとうございます」
僕の背に添えられた咲の手は温かくて、僕は涙腺が緩みそうになるのを堪えるのが大変だった。
その後、僕たちは他愛のない話をしたり、映画を観たりして過ごした。
幸せな時間というものは、例外なくあっという間に過ぎていく。時計を見ながらそろそろ咲を帰らせなければと考えていると、隣に座る彼女が黙り込んでいるのに気づいた。
どうしたのか尋ねようとしたところで、ためらいがちな声が届く。
「……西橋さん」
「うん?」
「その……たまには分別無くしたって、いいんですよ」
こちらに向き直った咲は、おずおずと僕の目を見あげた。
「大切にしてくれてるのは嬉しいんですけど……あまり子ども扱いしないでほしいです」
耳まで赤くするさまを見て、ようやく彼女が言わんとしていることに気づいた。
胸の奥が急に火が付いたように熱くなる。
「あ……ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど。ちょっとしたはずみで、怖い思いさせるんじゃないかと思って」
「大丈夫です、西橋さんなら怖くないですから」
そんなにまっすぐ見つめられたら、今にも理性が吹き飛んでしまいそうだ。僕は湧き上がるものを押さえつけながら、彼女の髪をそっと撫でた。
澄んだ瞳が、僕をとらえて離さない。軽く唇を重ねると、細い肩が微かに反応した。
柔らかな頬を両手で包み、今度は甘く長いキスをする。花の香りに酔いしれるように、彼女を感じた。
「……今日はここまでにしておこうか」
「えっ……でも」
微かに震えている彼女の肩を抱き寄せた。こんなにも緊張しているのに、応えようとしてくれているだけで十分だった。
「咲、僕らはゆっくりいこう。そのほうがきっと合ってる」
僕の腕の中で、彼女は小さくうなずいた。こわばっていた身体がほどけていくのが、体温と共に伝わってくる。
「西橋さん……旅都さん」
少しだけ体を離し、視線を上げた彼女は、はにかんだような笑みを咲かせた。
「大好き、です」
僕はまた理性が吹き飛びそうになるのを我慢しながら、大人な微笑を返す。
――ああ。もう。
君の笑顔には、何をやったってかなわない。
いつだって僕は君の思うがままだってことを、悔しいから今は黙っていよう。
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