『拝啓、桜守の君へ。』番外編:藤―ふじ―「決して離れない」

久生夕貴/富士見L文庫

■暗月のメランコリィ

 城崎博也は近頃、うんざりしていた。

 自分が帰宅したのを見計らったかのように鳴るインターホン。モニターの先で漆黒の目を持つ男が軽く手をあげた。

「城崎、僕だよ」

 扉の前でため息をつく。なぜこの男は性懲りもなくこの家にやってくるのか。

 城崎はもう一度ため息をつくと、嫌々ながら玄関へ向かった。

 居留守を使ったところで、こいつに通用しないのはわかっている。下手をすると中で倒れているかもと管理人を呼びかねない(実際一度やられた)。

「なんだよったく」

 寝ぐせ頭をかき回しながら扉を開くと、感情の見えない双眸がこちらを捉えていた。

 この取り澄ましたような顔が、いちいち癇に障るのだ。


 西橋旅都。


 城崎はこの男のことがはっきり言って嫌いだった。

 研修医時代の同期の中で、最も優秀で将来を期待されていた有望株。

 医師として天性の才があるも、決してそれをひけらかそうとはせず、おまけにイケメンと来たら、妬みを通り越していっそ嫌いになった方が気が楽だった。

 実際この男に対して友好的な態度を示したことなどないし、むしろ邪険にすらしてきたはずだ。にも拘わらずなぜか旅都の方は城崎を気に入っているらしく、研修医時代はたびたび絡まれ嫌がらせを受けているのかと本気で疑ったものだ。

 とある出来事をきっかけに旅都が大学病院を辞めてからは、交流も途絶えてほっとしていた……はずだったのに。

「まさか後期研修の頃から引っ越してないとは思わなかったよ。もっと広いところに住めばいいのに」

 何度も来ている部屋を見渡しながら、旅都はのんびりと呟いた。

「狭い方が落ち着くんだよ。大体忙しくて引っ越す暇すらないしな」

 とはいえこの男に来られるくらいなら、早々に引っ越しておけばよかった。城崎は今、己の惰性を心から悔いている。

「あ、これ差し入れ。城崎好きだったよね。おいしい棒納豆味プレミアムバージョン20本セット。スーパー5店舗くらい回ってやっと見つけたよ」

「お前のそういうところほんと気持ち悪いな」

 旅都が隣町で町医者をやっているのは、風の噂で聞いていたけれど。

 想定外だった、4か月前の再会。これが城崎の運命を決定づけた。なんかもう、この男からは逃れられる気がしない。

「というかお前、何しに来たわけ」

「何って、城崎に会いに来たんだよ」

「俺まあまあ忙しいんだけどね? これから明日のオペの資料読み込まなきゃなんないし」

「別に邪魔するつもりはないから、僕のことは気にしないでいいよ」

「いや普通に気にするだろ」

 城崎はわざとらしくため息を吐きながら、涼し気な表情で書棚を眺める旅都を睨んだ。相変わらず、こいつは何を考えているかわからない。

「……そういえば、あれからどうなんだよ」

「何が?」

「この間の患者とひ孫だっけ。お前が付き添ってた」

「ああ、二人とも元気にしてるよ。城崎のオペのおかげだね」

 嫌味ではなく、本気でそう思っているであろう言い方がムカつく。大体あの手術が成功したのは、こいつが患者をどこかへ連れ出し、帰ってきたら何故か容体が著しく改善していたためだ。

 城崎は一度口をつぐんでから、気になっていたことを迷いつつ切り出す。

「あの咲って子……お前の彼女なんだろ?」

「あの時はまだそうじゃなかったけどね」

「ふん……まあ、よかったんじゃないの。月子のことずっと引きずってるよりは」

 あの頃の旅都は、さすがの城崎ですら見ていられなかった。

「あれから何年経った」

「もうすぐ5年になるかな」

「そうか。もうそんなになるか」

 この男がかつての恋人を亡くし、大学病院を辞めてから。

 あのまま医師を辞めてしまうと思っていただけに、復帰したと聞いたときは少しだけほっとしたものだ。

 たとえいけ好かない相手でも、この男に医者は天職だと思っていたから。

「とはいえ、ずいぶん若い女に手を出したもんだな。見たところあの子まだ学生だろ」

「いや……手は出してないよ」

「は? 彼女だって言わなかったか」

 旅都は微妙な表情でこちらを見やる。

「そういう意味では手を出してるけど」

「えー……あー……そういうこと……」

「彼女まだ20歳だからね。さすがにいろいろ気を遣うべきかなと……城崎はどう思う?」

「お前……彼女いない歴=年齢の俺にそれ聞く?」

 意表を突かれたように瞬きをした旅都は、考えるように小首を傾げたあと。

「経験の無い城崎の方が彼女の気持ちもわかるかと思」

「ほんともうお前帰れよ」


◇◇


 半泣きの城崎に「頼むから帰ってくれ」と言われ、僕は仕方なく彼の家をあとにした。

 口こそ悪いが、城崎は本当にいいやつだ。今夜もなんだかんだ言って、僕の話を聞いてくれたし、悪態をつきながら気にかけてくれたりもする。

 その他大勢と違って、彼の言葉には忖度も気遣いもない。本音で話してくれる友人を得るのがどれほど難しいか、この年になれば嫌でもわかる。

 城崎の方は僕のことがあまり好きではないようだけど、そんなことはどうでもよかった。友人関係に好き嫌いは些末なことだからだ。


 スマホが震えたので画面を開くと、恋人の咲からメッセージが届いていた。

 今日あったことを一生懸命伝えようとする文面を読むと、自然と顔がほころぶ。僕は彼女への通話ボタンを押し、反応があるのを待った。

「今電話大丈夫だった?」

『はい、どうしたんですか?』

「うん、ちょっと君の声が聞きたくなって」

 電話の向こうで照れたように笑う声が聞こえる。きっと今日も、花のような笑みを咲かせているのだろう。

 他愛無い会話をしていると、彼女の声のトーンが一段上がった。

『あっそうだ。西橋さんオムライス好きですよね? 私たくさん練習したので今度作らせてください』

「じゃあ明日会ったときにお願いしようかな」

『はい!』

「どっちの家で作る?」

 一瞬の間があった。

『えっと……西橋さんの家でいいですか?』

 了承の旨を伝えて、通話を終える。そういえば咲が僕の家に来るのは、あの雪の日以来だ。といっても、滞在時間のほとんどを彼女は眠っていたわけだけれど。


 ふと見あげると、夜が始まって久しい空には星が瞬いていた。今夜は新月らしく、月明かりがないぶん、星がよく見える。

 ――そういえばあの時も、こんな空だった。

 まるで月子が僕の前から消えてしまったみたいで、必死になって月の姿を探したけれど、見つけることはできなくて。

 涙で滲んだ星空は、絶望の闇へと誘い込む悪魔にすら見えた。


 記憶の波を断ち切るように、甘やかな香りがどこからか流れてくる。

 確かこの匂いは藤の花だと、咲が言っていた。植物が好きな彼女の影響で、自分もずいぶん花の種類を覚えたものだ。

 優しい香りが彼女の笑顔を呼び起こし、温かさが胸に広がっていく。その感覚をもう少し味わっていたくて、瞳を閉じる。


 自分はもう二度と、誰かを好きになることはないのだろうと思っていた。

 実際幾人もの女性に好意を寄せられ、つき合ってみようとしたこともある。けれどどんなに彼女たちを受け入れようとしても、自分の中の何かが拒んでしまう。

 このまま一生独り身でいるのだと納得し始めていた矢先、彼女――東平咲と出会った。


 初めて咲を見たとき、なぜか違和感を感じた。

 なにがと言われれば、言葉にするのは難しい。けれど自分の中にある直感のようなものが、彼女の持つ「何か」に惹きつけられてやまなかった。

 気がつけば声をかけていたし、自分から連絡先まで渡していた。ここ数年の自分を思えば、信じられない行動だった。


 咲は不思議な人だった。

 出会って最初に話したことは、「精霊」が視えるという話。感受性が強く人の痛みに敏感で、僕には到底理解が及ばないような行動を起こす。

 でも彼女との話はなぜか楽しくて、会えばまた次も顔が見たくなる。今思えば、この時すでに僕は彼女にすっかりハマっていたのだろう。

 

 ――私の失恋話を聞いてほしいんです

 

 ある日咲が口にしたこの言葉が、僕の中で大きな転機を呼び起こした。

 彼女から聞かされたのは、なんのことはない、よくある三角関係の話だ。それなのになぜか僕は、焦燥感に駆られ落ち着きを失った。

 平静を装うためにコーヒーカップの底を見つめたりしたけれど、頭の中は彼女の想い人に対する嫉妬心で埋め尽くされていた。

 そのときようやく、咲のことが好きだと自覚した。自分の中にまだこんな感情が残っていたことに驚いたし、戸惑いがなかったわけじゃない。

 それでも自分の気持ちを認めた途端、彼女を手に入れたいという欲求が眠りから覚めたように湧き上がり、僕はたびたび平常心を失った。

 さすがに嫌われただろうと思っていただけに、彼女が受け入れてくれたと知ったときは、危うく放心状態になるところだった。


 ざあっと風が吹き抜け、静穏の海から浮上した僕は目を開けた。

 再び空を見上げると、満天の星空が落ちてきそうなほどに近く感じる。咲が見たらきっと、あの星々と同じくらい瞳を輝かせるんだろう。

 そう考えたところで、つい苦笑が漏れる。

 いい年して自分でも呆れるくらい、僕はいま彼女に恋をしている。

 そして同時に、恐れてもいた。

 もしまた失うようなことがあれば――今度こそ僕の心は完全に死んでしまうだろうから。

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