第8話 現実
俊介の制止を振り切って帰国したとき、もう雪於の心は決まっていた。責任を取って恵美と結婚するという。恵美は恵美で、申し訳ないと言いつつ、もう雪於の妻気どりなのだった。
「それでいいの?」
と雪於に訊くのは酷だったろうか。
「他にどうすればいいの」
雪於は、うつろにつぶやくだけだ。
このままでは、雪於はダメになる。
睡眠薬が手放せない雪於が、心配でならなかった。
「こんな生活、もう」
春に口にした、あの言葉。
もう耐えられないということなのか。
会いたい相手はもちろん信行だ。
私は信行からの連絡を待ち続けた、雪於と恵美が結婚し、春菜が生まれても。
信行さえ、その気になってくれれば。三組に一組が離婚する時代だ、ちゃんと話し合って離婚し、二人でやり直すことはいくらでもできる。
日々そんな思いが募り、先日、私は思い切って信行の実家に電話してみた。意外にも、すぐに信行に取りついでもらえた。
「姉さん」
以前のように、信行は私をそう呼んでくれた。
折り返し電話します、と、自分の携帯から電話がかかってきた。
「ユキへの思いは変わっていません。でも、結婚してしまったからね」
「知ってたの」
雪於も私も、通知はしていないのに。
「恵美さんから葉書が届いたんです」
「ごめんなさい、ユキちゃんの子供ができてしまい、結婚することになりました、許してください」
そんな手書きのものと、真っ赤な太文字¥字で「結婚しました!」と印刷された通知、ピンクのハートをちりばめ、「来年には、パパとママになります」。
どちらも信行の父から手渡された。これで目が醒めただろうと言われたそうだ。
なんと念入りな、と私は舌を巻いた。
これでは信行は現実を受け入れるしかない。
夜も眠れないほどのショックを受け、やがてすべてを諦めた。家業を手伝うと父に告げ、解放された。
「情けないんだけど」
と電話の向こうで信行は言った。
子供の頃、強圧的な父が怖かった。大人になり腕力でも負けなくなったのに、いざ父親の前に出ると、非力な子供に戻ってしまい、抵抗できない。
「同性愛は病気だ、治るまで外には出さん!」
祖母が生前に使っていた部屋に押し込められた。一階の和室で防犯のため窓には鉄枠がはめてある。トイレ付ユニットバスもある部屋で、監禁にはうってつけ。ドアには外から鍵が追加され、三度の食事の時だけドアを開けてもらえる。
「ひどすぎる」
「まさに囚人生活だったよ」
信行は苦笑した。
「今は自由なんでしょ、雪於に会ってやって」
「だって結婚して子供もいるし」
「もうこんな生活耐えられない、ノブくんに会いたいと雪於は言ってます」
私の言葉に、信行は黙りこんだ。
「眠れなくて睡眠薬を常用してるの、あの子を救えるのはノブくんだけ」
それでも答えは返ってこない。
「正直な気持ちだけ聞かせて。雪於を今でも愛してる?」
「はい。でも」
もうどうにもならない、と暗い声が聞こえた。
「聞くまでもないことだけど」
壁の時計を見上げて私は言った。
「信行さんの実家に告げ口したのも、恵美だよね」「そういうこと」
「なんでそんなこと」
すると恵美は私の顔をまじまじと見つめ、
「あんたのこと大嫌いだもん。あんたを苦しめるためなら、なんでもやる」
信行と会えなくなれば雪於は苦しむ。雪於が苦しめば、私はいっそう苦しむ、それが恵美の目的だったのだ。
「悔しかったでしょ、私にユキちゃんを盗られて」
私は唇を噛んだ。
そうだ、悔しい。恵美が憎い、八つ裂きにしてやりたいほどに。
「あんたは絶対にユキちゃんの子を産むことはできないんだもんね」
悪魔の哄笑が聞こえた。
携帯が振動し、着信を伝える。
待ちに待った相手からだ。
「姉さん」
信行の切迫した声。
「いま。病院の前に着きました」
「ノブくん。ああ、よかった」
安堵で全身から力が抜ける。
恵美は立ち上がり、
「もう帰ってもいいよね」
不敵な笑いを浮かべた。私は恵美をにらみつけ、
「離婚するよね」
「はいはい」
「春菜の親権は、こちらに」
「わかってる。じゃあね」
ひらひらと手を振り、恵美は、さっきの言葉を繰り返した。
「あんたなんか大っ嫌い」
私はエレベーターの前に急いだ。到着を告げるランプが点灯し、ドアが開く。
「ノブくん!」
四年ぶりに目にする、雪於の恋人の姿《《》》。息を弾ませて、
「ユキは?」
「まだ意識が戻らないけど、心配ないわ」
「よかった」
手で顔を覆い、ソファに身を預ける。
私が連絡したのが日付が変わるころ。三時間あまり、車を飛ばして信行は駆けつけてくれた。
「俺がバカでした」
信行は涙声だ。
「こんなことになって初めて、どんなに雪於が大切か、思い知りました」
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