第7話 使用人と貴族の屋敷
「リキナ、時々甘いにおいがする」
横を歩く相棒は唐突にそう言った。
魔物の装備を換金するために立ち寄った集落を発ってから、四日も過ぎたある日の昼だった。ついでにそこで作物を荒らす魔物を倒して、その肉を分けてもらっていたので、今のところ資金にも食料にも困ってはいない。しかしながら、山脈の麓に鬱蒼と広がる樹海をひたすらに歩き続け、それなのにいつまでたっても抜けられない今日この頃。そんな退屈な現状が、彼女をついに狂わせてしまったらしい。
「ばれてしまっては仕方がない……」
俺は外套の小物入れを探ると、
「実は俺の体からは干し餅が湧き出てくるのだ」
そう言って俺が取り出した乾燥菓子をミユゥはつまみ上げると、口に入れて噛む。
さく、さく、さく、ごくん。
「ありがとう。でもそういう話じゃなくて」
「しっかり食べてから言ったね。うん、なに?」
ミユゥは俺の冗談に口を挟むこともなく話を続ける。手慣れた対応をされ始めていることに深い悲しみを覚える。
「体からするにおい。自然にあるような感じの」
「お菓子とは別の香りとなると……自分ではわからないものだね」
心当たりもない。自身の体臭は認識しにくいと聞く。手の甲を嗅いでみたりしている俺にミユゥは顔を寄せてきて、首筋の辺りで鼻を鳴らした。髪が触れてちょっとくすぐったい。
「花みたいなにおい」
それなら、
「ああ。石鹸かもね」
俺は背嚢を下ろして、紙に包んだ石鹸を取り出した。黄色がかった乳白色で、つるっとした表面は河原の石のようである。ミユゥの両手に乗せると、ふんふんとにおいを嗅いだ。先ほどの干し餅にも似ているので、
「これだ。食べ物?」
「じゃないよ。体の汚れとにおいを落とすのに使うんだ。灰と油、土とかを水と混ぜて固めたやつ。香りはまあ俺の趣味というか、花とか果物なんかの汁を加えてみたんだけど……」
いる? と訊いてみようとしたところで、ミユゥが神妙な顔をして手のひらの石鹸を見つめていた。
「リキナ、綺麗好きだよね」
「え、そうかな」
個人的にはあまり片付けられないほうだと思っている。こうしてなんでもかんでも持ち歩くから荷物が重くなるのだし。
ミユゥは体を向こうに向けた。動作を隠すためだろうけど、しっかり見えていることは黙っておく。あれは……襟の中を嗅いでいる、のかな。
「よく手と顔を拭いたりしてるし、こういう物も使ってるし」
確かに汚れていると集中力が落ちそうなところは頻繁に洗うようにしている。しかしこう、変に潔癖だと思われているかと思うと、なんだかお坊ちゃんのようで恥ずかしい。
ミユゥがこちらに向き直る。石鹸を返されるのかと思って手を出すと、なぜか二歩分ほど距離を取られる。腕を伸ばすと同じだけ離れる。なにか気にしているんだろうか、訝しみながらも、
「気に入ったなら、いる?」
頷いたミユゥは力強く石鹸を握りこんだ。あんまり触ると溶けるよ。
「ソレルが言ってた。町の若者は『女子力』を競うのが流行してるって」
「じょしりょく……」
俺はその独特な単語を復唱する。意味は分かるけれども、ミユゥの言い方にはなんだか覚悟が詰まっている。
「きっとこういう部分で、リキナは強い女子力を持ってる」
「つよいじょしりょく……?」
「私も鍛錬すべきか……」
決意したような目で虚空を見上げ、女子力鍛錬の険しい道のりを睨むミユゥ。
「あの、ミユゥさん。魔力か筋力みたいなものだと思ってません?」
血と汗の滲むような訓練を想像してやいないだろうか。誤解を解くのには時間がかかりそうである。
それでも旅は続く。歩を進めるうちにひらけた林道のようなところに出て、その道沿いに行くうちに明らかに整備されたような広い道路へと変わっていった。町が近いか、産業で往来が多いのか。答え合わせは道の前方から近づいてきた。
周囲を十人ほどの護衛に守られた馬車である。二頭立て、四輪の立派な囲いの箱には、それなりの地位の人がお乗りのご様子。苔のはげた土の上をがたごと鳴らして進む馬車の一行は、道の端へよけた俺たちを横目に通り過ぎる。
「むむ? んん~~~?」
かに思われたが、箱に付いた窓からこちらを覗いていた目が細められ、なにやら唸ったかと思うと、「止めてくれ!」と中から聞こえて来た。主の声に御者がどうどうと馬を操り、足を止めた馬車の窓から姿を見せたのは、俺の顔見知りだった。
「リキナくんではないか? ギランドベル家の!」
細い口髭を生やした中年男性が喜色満面に俺に呼びかける。俺は驚き、その次に全力で走り出して逃げてしまおうかと思ったが、その内心を悟られないように最初の驚きを顔に貼りつけたまま答える。
「……バマエフ卿。こんなところでお会いするとは」
「それは私の台詞だよぉ。ははは、ご父君はお元気かな?」
「ええ、まあ……」
父の状況など知らないし、元気だったとしてもその気力を俺の出奔への怒りに充てているところだろう。愛想笑いに細めた目でこっそりと横を見る。空気を読んでか、ただ俺たちのやり取りを見守っているミユゥに、心中で謝罪する。これから起こるであろう個人的な面倒に巻き込んでしまうからだ。
案の定、バマエフ卿はこのようなお誘いをなさる。
「私は今、この近くの別荘に滞在していてね。ぜひご招待しようじゃないか!」
前を行く案内の使用人のほうを窺いながら、ミユゥは落ち着かない顔で俺の裾を引いた。
「さっき門を通ったけど、いつになったら家に着くの」
俺もなんとなく小声で返す。
「えーっと……一応ここも屋敷の敷地内で、前庭に当たるのかな」
別荘は樹海の端にあった。森の迷路の出口まで近づいていたことを安心する一方で、端とはいえ王都から離れた山麓の僻地にわざわざ別荘を建てるバマエフ卿の物好きさに当惑する。
左右の木々と、頭上を通り過ぎる鳥を見て、
「……森じゃなくて?」
「まあ、そうとしか思えないよね……」
多少手入れはしてあるように見えるので判別できなくもない。たぶん庭師も連れてきているか、管理者を普段から住まわせているのだろう。久々に会ったが、バマエフ卿の放蕩な趣味は変わりないらしい。
屋敷の本館に辿り着く。素早く視線を巡らせて状況判断に努める様子はいつものミユゥだが、見慣れないものが多いのか明らかに目が足りていない。
「……」
「どうしたの?」
「床が全部柔らかい」
「絨毯だね」
「……」
「どうしたの?」
「壁にびっしり模様が」
「壁紙だね」
俺も故郷でそれなりに見慣れたはずの文化ではあるが、ここまでのこだわりぶりには呆れてしまう。
「バマエフ候セキンドラの別邸へ、ようこそおいでくださいました」
「お食事の準備をしておりますので、こちらで今しばらくお待ちください」
廊下の中ほどにあった両開き扉の前で、長身の女性が二人、出迎えてくれた。給仕と思しき彼女たちは扉を開けると、恭しく頭を下げる。
客間に通され、ようやく使用人の目がなくなったことでミユゥが一息ついた。俺も長椅子に腰を下ろさせてもらう。
「悪いね。家同士が付き合いがあって、断りにくくてさ」
「それはいいけど……こういうところ、初めて入って」
眩むどころか目が潰れそうなほど絢爛な建築である。気疲れするのも無理はない。
「バマエフ卿はやり手の投機家でもあってね。ここもたぶん、所有する土地の一つなんだと思う」
戸が叩かれ、客間に台車が運び込まれる。さきほどの二人とは違う小柄な少女が、一礼してこう言った。
「失礼します。お茶をお持ちしました。よろしければ……」
と、そこで壁の端に目をやる。
「あの……お掛けにならないのですか?」
「気にしないで。ここが落ち着くので」
壁際に腕を組んで立ったままのミユゥがそう言う。言葉では強がっているが、さっきはどう見ても恐ろしくてとても座れないという顔をしていた。確かに椅子に張られた革の模様もちょっと目に痛い。
「? ではこちらにお茶を……」
そうして茶器を乗せた車を机の横まで移動させたところで、少女は俺の顔を見た。その眼がみるみる開かれ、
「もしかして……リキナ様?」
その呼び方に、俺もかつての記憶と今の認識とが合致した。太い三つ編みを左肩に垂らして、いつもはにかんだような少女。
「……ルルーナ? ルルーナか!」
給仕の少女、ルルーナは驚いたように口元に手を当てていたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「はい! ルルーナです! またお会いできるなんて……」
「きみこそどうしてここに? 懐かしいね、俺が学院に入って以来か」
さっきもしたような会話だが、こちらのほうは嬉しい再会である。ルルーナも昔と変わらない明るさで、
「今はセキンドラ様にお仕えしてるんです。ここへは避暑へのお付き添いで」
彼女は手際よくお茶の準備を進めながら訊いてくる。
「学院はもうご卒業されたんですよね。リキナ様もご旅行ですか?」
「ん、まあそんなところ」
後ろめたいところがあるので歯切れが悪くなってしまう。覚悟を持って出てきたはずなのに、いざ出自を知る人物と出くわすとどうにも答えづらい。
話を変えるわけでもないが、ミユゥのほうを見た。
「紹介するよ。ルルーナは昔、俺の家で働いてくれてたんだ」
使用人として、俺や家族の身の回りの世話をしてくれていた。俺が学院の寮に入ってからは手が空いてしまって、別の雇用主を見つけたとだけ聞いていたが、よもや知り合いの家だったとは。世間は狭い。
今度はルルーナにミユゥを紹介する。
「ミユゥはメムーロで知り合って、いま一緒に旅をしてる」
ミユゥは壁から離れて、「どうも」と挨拶した。ルルーナも笑顔を返したが、少し不安げに辺りを見渡したあと、
「ご一緒に。……お二人でですか?」
そうだよ、と頷くと、ルルーナはぎこちなく口を動かして「そうなんですね」と言った。
束の間思い出話に花を咲かせたあと、料理ができあがったと食堂へ呼ばれる。昼食には少し遅いが、俺たちへのおもてなしなのだろうからご相伴に与るとしよう。
十年近く前、まだ俺が十歳になるかという時期の記憶ではあるが、バマエフ卿は話好きな人だった。その記憶は覚え違いではなく、また年月が経とうともお変わりは無かったようで、会食の場は常に彼の上機嫌な話し声が絶えなかった。俺は話を遮らないように気を張りつつ、適度に相槌を打つ。
「王都の外でお目に掛かるとは思いませんでした」
「事業はもうほとんど息子に任せているからねえ。今は気楽な隠居生活だよ」
「なるほど、それでこちらに」
食卓の長机の短辺には、当然主人であるバマエフ卿が座している。俺はその斜め向かいに当たる、長辺の角近くで食事をしている。長方形の食卓はどこまでも縦に長く、軽く数十人は座れそうなものだが、列席しているのは俺の二つ隣の椅子のミユゥを含めて三人だけである。そのたった三人をもてなすために、忙しなく使用人たちが動いている。
上品に盛り付けられた煮魚を切り分けながら、ちらりとミユゥの様子を窺う。俺たちとは少し離れた席で、見慣れない料理に四苦八苦している。配膳しに来た人に小声で「これ、どうやって食べれば……」と訊いたりなどしている。それに気づいたルルーナが気を利かせて、丁寧に作法を教えてくれていた。彼女に任せていれば良さそうだ。
「リキナくんは外遊かね? そういえば、ギランドベル卿からは近況を聞いていなかったが」
来るだろうとは思っていたが、話を振られると緊張する。なるべく平静を装いながら、
「各地を巡って、魔法薬の素材に関わる生物や植生などの研究をしています。どのようなものにも実地調査は不可欠ですから」
あらかじめ考えておいた、それらしい文言を口にする。嘘をついては角が立つが、心からの動機をそのまま話すわけにもいかない。
というより、理解してもらえないだろう。
「ほお、それは……ん、学院の運営に回ったということかな」
案の定、バマエフ卿は曖昧な表情で咀嚼している。
「いえ、学院に所属はしていません。個人的な学術研究ですね」
「む? 学院は卒業したのではなかったかね?」
「ええ。ですから私個人の活動です」
彼は目を丸くしたまま顎を動かし、ごくんと飲み込んだあと。
「ははは! 変わったことをしているな! 久々に会ったが、そんな面白い子だったか、きみ!」
解釈はどうあれ、とりあえずは笑ってくれたのでほっとする。バマエフ卿自身、活動的な人ではあるから、それほど不審には思わなかったようだ。俺はさも苦労したというように眉を下げて笑顔を作る。
「父はいい顔はしませんでしたが」
「それはそうだろうとも。学院を出てからも勉強を続けるとは、よほど熱心と見える」
そして彼は俺の隣へ視線を移すと、
「そちらの女性は? その研究に同行しているのかな?」
当然の疑問である。話題に上ったミユゥは緊張したように食器を皿の上で止めている。俺はすかさず、
「道中で出会いまして。一人ではなにかと不安な時世ですから」
ミユゥの背が丸くなっていく。食事ならまだしも、知らない裕福そうな人に話を振られるのは気まずいらしい。俺の回答で卿は満足したようで、「そうともそうとも」と頷いた。
「私も息子に言われてね。護衛を含めて二十人ほど引き連れてきたものだから大所帯になってしまったよ。別荘なのだからそこまで手はいらないと言ったのだがね」
使用人が二十人というのはじゅうぶんに豪華すぎるが、町を一歩外に出れば魔物は溢れている。用心に越したことはない。侯爵という立場を考えると、僅かに不安すら覚えた。
「天候も安定しているうちに、森を抜けようかと考えています」
俺がさりげなく言った内容は、しかし目ざとくつかまえられてしまった。
「そう言わずにしばらく留まっていきたまえ。部屋はいくつもあるからね」
そんな気はしていたので、俺は笑顔の裏で溜息を漏らした。
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状況に流されるままに巨大な屋敷へと招かれて、食事の席でリキナが慣れた様子で談笑していたのは覚えているが、槍使いはいまだ自分が適応できていないことを認識していた。食後に通された個室はこれまでに泊まったことのあるどの宿屋よりも広く、機能の想像もつかない謎の装飾に満ち満ちている。落ち着くことなどできず、長旅の埃で塗れた格好でいることにも居たたまれなくなり、ミユゥは部屋を出て裏庭を目指した。
目指さなければ探せないほどに広い屋敷である。ようやく見つけた庭らしき場所で、ルルーナと鉢合わせた。
「あら? ミユゥさま、どうしてこちらに?」
ルルーナは布の入った籠を抱えていた。リキナが言っていた、「家で働いていたから知り合い」という言葉の意味を掴みかねていたが、先ほどからの様子からようやく「家の管理をするためだけに雇っている人員」であることがミユゥもわかってきていた。遠い世界だ、と感じながら、彼女は答える。
「井戸があったら、靴とかを洗おうかと……」
「まあ、お洗濯でしたら私たちにお任せください! 新しいお召し物もご用意しましょうか?」
「いえ、そこまでは」
慣れない対応に戸惑いながらミユゥは首を振る。当然のもてなしという顔をしたルルーナは首を傾げている。
そこで、思いつくことがあってミユゥはこう切り出した。
「あの。洗濯とか掃除とか、得意なんですか?」
「ええ、八つの時からギランドベル家にお召し抱えいただいて、長らく使用人として働いていますから。はじめは失敗ばかりでしたが、リキナ様にはお優しくしていただいて……」
ルルーナははにかんで、籠の洗濯物を撫ぜる。その籠に触れるほどずいと近寄って、驚くルルーナにミユゥはこう言った。
「それ、手伝わせてくれませんか」
「え?」
裏庭から通じている使用人室にミユゥは通される。休憩していた二人の女性は、客間への案内をしてくれた長身の二人だということにミユゥは気づいた。そばかすのあるほうがタプラ、えくぼのあるほうはモニと名乗った。
「私、器用じゃなくて。狩りに関すること以外で、身の回りのことを上手くやることができないと感じてるんです」
「つまり、その練習をしたいと?」
ルルーナの言葉にうなずくと、ミユゥはこう続けた。
「最近流行っているらしい力を鍛えたいんです。女子力というのを」
「じょしりょく……」
使用人三人の声が重なる。なぜか密やかな響きを持ったその単語がいかなる効果をもたらしたかは定かではないが、タプラが言った。
「いいね、面白そうじゃん。やっぱり全ての基本は掃除よね」
「待ちなよ。あんたが着てる服も洗濯しなきゃ働けないじゃない。まずは洗濯からよ」
なによ。なんだよ。なぜか睥睨し合う二人をよそに、「なんでもやります」と既に気合いを入れ始めているミユゥ。相性の悪い先輩二人を苦笑いで見た後に、ルルーナはこう提案した。
「着るものといえば、ミユゥさん。動きやすいように、こちらの服に着替えませんか?」
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使用人だけでは話し相手が足りないらしく、退屈しているらしいバマエフ卿の相手をしてはや一時間。ではなぜこんなところに来ているのかと問い詰めたくなるのをこらえながら、お手洗いの為に中座して屋敷の廊下を歩く。
そこで妙なものを目にした。
「……ん?」
箒を手にした女性たちが床を掃いているのだが、その中になぜかミユゥがいる。彼女はこちらに気づくと、黒い裾をはためかせて寄ってきた。ルルーナもついてくる。
「ミユゥ、なにしてるの?」
「ルルーナさんに頼んで、鍛えてるところ」
「鍛える?」
なんのことやら。得意げに息を鳴らすミユゥは、彼女たちと同じ使用人服に身を包んでおり、丁寧に白い頭巾や前掛けも付いている。
「次の場所行くよ!」
後ろで呼ぶ声にミユゥは「はい!」と威勢よく返事をする。駆けていく後ろ姿を見て、楽しそうだからいいか、と俺は笑った。
「まあいいか。ルルーナ、お願いしていい?」
ルルーナは嬉しそうに頷いた。
「ええ、お任せください!」
そして彼女は少し俯くと、
「……あの、リキナ様。しばらくご滞在されるのですか?」
「ん、まあバマエフ卿のご提案だしね。俺たちも休みたかったし、しばらく居させてもらうよ」
跳ねるように顔を上げてルルーナは笑った。
「ご用がありましたら、なんでもお申し付けくださいね!」
そう言って、元気よくぱたぱたと歩いていった。その姿を懐かしく思いながら、俺も「仕事」をしに食堂へと戻った。
「あぁー……──」
絞りつくした気力が声と共にさらに抜けていってしまう。寝台で寝転がって俺は大きく息を吐いた。
話すこと自体は不得手ではないが、家同士の付き合いのある相手だと気を遣うことも多い。特に家の意向を押し切って出奔した身としては、なにが父に伝わるかわかったものではないので常に思考を全力で回転させていた。このままだと気を抜いたら寝てしまいそうだ。
「風呂はいろ……」
のそのそと準備をして浴場へ向かう。途中でルルーナとすれ違ったので、「バマエフ卿は?」と訊いた。俺たちは客ではあるが、さすがに屋敷の主が浴場を使う順番としては先だろう。
「ご主人様はお休みになられました。リキナ様はお風呂ですか?」
「ああ」
あれだけ人に喋っておきながら自分はもう寝たのか。おのれ自由人。いや、俺が言えたことではないか。
「あの、えっと……リキナ様……」
ルルーナが前掛けの裾を掴んで、もごもご言っている。どうかしたのかと耳を傾けてみると、
「おっ……おせっ……な、その…………」
「押せ?」
彼女は顔を真っ赤にして、
「イエ、ナンデモナイデス……」
と後ずさりでそのまま廊下の闇の中へ消えていった。転ばんようにね。
聞いていた浴場の前まで来ると、ちょうど扉代わりの幕の中からミユゥが出てきた。
「ん」
「あ。先に入ってたんだ」
彼女は答える代わりに、俺の前に腕を突き出した。
「うん?」
「嗅いでみて」
「ええ?」
大々的に人の腕を嗅ぐのもいかがなものかと思いながら顔を寄せる。かすかな花の香り。これは、
「石鹸?」
「うん。使ってみた」
湯上りで頬が上気しているのもあるだろうが、ミユゥの顔は満足げに見えた。気に入ったならよかったが、彼女は「強くなった気がする……」と言いながら去っていった。なにか違うような。
夜中にふと目が覚めて、水でも貰おうかと部屋の外に出た。
廊下はどこまでも暗く長く、自分以外の気配を感じないのが不気味だった。どうしてか呪文が思い出せなくて、光の魔法も使えなかった。
歩いていると、壁に肖像画が掛かっているのに気づいた。歴史ある名家の当主のようで、荘厳な衣装に身を包んだ男性の肖像が、顔を変えながらずっと先へと続いている。なぜだかそれを見たくなくて、顔を伏せながら早歩きで進んだ。
「お前は逃げた」
ある画の横まで来た時、確かに声が聞こえた。見れば、厳めしくこちらを睨む男性が一人、再び責めるように口にする。
「責任から逃げ出した。身勝手で幼稚で、どこまでも愚か。なぜ逃げた」
「……父上……」
俺は後ずさり、さらに先へ歩く。
逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。
父の絵からは遠ざかっているはずなのに、声はどこまでも追ってくる。逃げたことを責められながら逃げ続け、ようやく静寂が訪れて諦めたかと思ったら、最後にこう聞こえた。
「いずれ、その報いを受けることになる」
廊下の突き当たりに来ていた。その壁には、同じように誰かの肖像画。
おそるおそる見上げると、顔が無かった。目も鼻も口もない、ポロムのほうに塗りつぶされた平らな顔。しかしその体格も、髪型も、それはよく知る誰かのような。
俺は、ここに入るべきが誰かを知っている。
顔のない俺の腕が伸びてきて、俺の肩を掴んだ。逃れようともがいても、後ろから別の男たちの手が背を押して、絵へと引きずり込まれる。
息ができない。
「リキナ」
静かに名を呼ばれて、俺は飛び起きた。
乱れていても、確かに呼吸が可能なことを認識してから、俺は深く息をついて横を見る。いつの間に入ってきていたのか、寝台の横に屈んでミユゥが俺を見ていた。
「うなされてた」
「ああごめん……そっちの部屋まで聞こえてた?」
「たまたま部屋の前を通ったら聞こえただけ」
それはよかった。人の家に泊まって騒がしくしては恥ずかしい。
「ああ……普段野宿してるときは夢は見ないんだけどな」
久々にまともな寝床にありつけたと思えばこの夢見の悪さとは。昔を思い出すような会話を昼間さんざっぱらしていたせいかもしれない。
ミユゥは寝台に背をもたれさせ、腰を下ろした。
「私もある。変わると、落ち着かない」
枕が変わると、というだけの話ではないらしい。彼女はこう続けた。
「でも、変わるのが悪いことだとは思わない。初めて知る仕事とかを教えてもらって、そう思った」
少しだけ振り返って、ミユゥの顔がこちらに向く。
「もちろん、初めて知る魔法のことも」
「うん。……そうだね」
俺はもう少し身を起こすと、人差し指を立てて呪文を呟く。
「〈ルクス・アエグレ〉」
蝋燭よりも弱い橙色の光が指に灯る。ミユゥの瞳に光が映った。
「これは光の魔法。そのままだと眩しいから弱めてあるけどね。暗いところを照らすのに便利だけど、実は夜のほうが成功率が低い」
「どうして?」
聞き返してくれたので、俺も説明がしやすい。
「魔法で創るものは、自然界に存在する状態に左右されるからね。昼間は太陽の光が当たり前にあるけど、夜は灯りも少ない。その状態に比例して、魔法でも夜は光を創りにくいんだ」
「へえ……不便だね」
「だろう? 肝心な時にうまくいかないんだ」
ミユゥは、不思議そうにあたたかな光を見つめて言った。
「でも、リキナはうまくできてる」
そうかな、と言った俺の顔は、変なふうに笑っていたと思う。
うまくいっているといいな、と思った。
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