第6話 甲冑と骨の剣

 食い込んだかに見えた穂先が横に滑る。ミユゥの突きは騎士の脇腹の虚空を切った。

「ちぃっ!」

 敵の剣を受ける前に彼女は油断なく『戻し』を行い、体ごと槍を退いた。相対する騎士の全身を守る鎧は埃にまみれてはいるが、いまだその性能を保っている。同じく両刃の剣も本来の持ち主の手を離れて久しかろうが、見られるのは少しの刃こぼれ程度で、必殺の威力を失ってはいない。

 手を離れたとは表現したものの、元の持ち主は鎧を脱いで捨てたのではなく、中に入ったまま溶けて消えてしまったわけだが。

 ミユゥが顎に流れる汗を右肩で拭う。

「手強い……ポロムのくせに」

「中の核が突けないと倒せないからねえ」

 面頬の奥の暗闇から、半固体状のぬめりのある頭部組織がちらりと覗いた。

 大陸全土、環境を問わず生息する魔物ポロムは、ほとんど無制限と言っていいほどその生態を派生させていく。俗称『甲冑ポロム』もその一つで、戦場で倒れた兵士の全身鎧の隙間から軟体を活かして潜り込み、人間の身体を髪の毛から骨まで跡形もなく消化してしまう。そのまま人型へと戻ることで、中身のない亡霊兵士の誕生というわけだ。

 鎧の右手首が、糸で吊り上げられたかのように不自然に持ち上がる。そのまま、型もなにも無いがむしゃらな動きで剣を振り回して突進してきた。

 俺は後退して魔法で防御すべく杖を振る。しかし、ミユゥは間合いを合わせるように槍を下段に構えたまま一歩も動かず、敵の剣と一合、打ち合った。

 斬り上げを迎え撃つ低い突き。ミユゥの槍は敵の攻撃をいなすと、その勢いを殺さず穂先を半回転させて上段に持ち直され、甲冑の首元に刺さった。お見事。

 鎧の喉当てがへこむ。人間なら喉が潰れて即死だろうが、甲冑は後ろに数歩よろめいただけで、倒れようとはしなかった。ポロムは体こそ脆いが、臓器などといった弱点がない。小さな核を破壊しなければ響かないのだ。

「リキナ。なんとかできる魔法はない?」

「手っ取り早いのは、巨大質量で潰すか、鎧ごと熱して沸騰させるか……。でも、なるべくそのまま手に入れたいよね」

 そう。速攻兵の槍と後衛の魔法が揃って、それなりに状況に対応できる自負さえあった俺たちが、こうも悪戦苦闘しているのには理由がある。

 魔物が身に着けた武具を出来るだけ傷つけずに入手して、高く売りたいのだ。

 全身鎧など、よほど戦備えの充実した城などでしかお目に掛かれない。中身のポロムさえ倒してしまえばよいのだが、ただ倒すだけではいけないというのが困りものなのである。

 ソノトフを出て数日。旅路が谷に差し掛かったところで、この甲冑ポロムと遭遇した。付近に冒険者組合はなく、当然依頼を受けてもいないから討伐する義理はないのだが、迂回するには面倒な地理で、なおかつ売れば価値の出る物を魔物が纏っていたものだから、こうして戦っている次第である。

 ミユゥが敵から視線を外さずに言う。

「じゃあ、なるべく傷つけずに倒す魔法で」

「無理を言うねえ」

 やるけど。

 最近、ミユゥの魔法への期待値が無闇に高まっているように感じる。なんでもできるわけではないとは都度言っているのに。

 さて。核を潰すとなると、やはり甲冑の守りが障害となる。中身を引きずり出すには、どうあれ鎧を外さねばなるまい。一番広い継ぎ目は、上半身と下半身を繋ぐ腰の部分だろう。

「よし。ミユゥ、三十秒くらい時間稼げる?」

「稼ぐだけでいいの?」

「剣を弾いてくれたらもっと助かる」

「わかった」

 それだけ聞いて、ミユゥは単身、魔物の前に進み出た。我ながら説明不足もいいところだが、彼女の聞き分けの速さには助けられる。

 俺は杖を低く構えて、呪文を詠唱した。

「〈ファルセ・メテオリクム・フェルム〉」

 杖の先に、鈍い銀色の物質が形成され始める。しかしその速度は、砂に落ちた水滴が滲むかのように緩やかだ。やはり金属は時間がかかる。

 その間、ミユゥは魔物が俺に近寄らないように巧みに立ち回っていた。彼女の槍の柄は木なので、剣を受ければ斬れてしまいかねないが、これを穂先だけで受けることで確実に躱しきっていた。騎士の形こそしているがポロムなので、敵は剣術を扱うわけではない。それを差し引いても武器を持った魔物というのは危険だが、倒すだけならきっと彼女一人で事足りるだろう。

 だから俺の仕事は、時間をかけて手段を増やすことだ。銀色は薄く横に広がり、いよいよ凶器としての姿を現していく。

「──出来た! ミユゥ、行くよ!」

 準備を待っていたのであろう、ミユゥは俺の言葉を聞いて強く踏み込むと、敵の剣の根元を払った。力負けした武器は甲冑の指を離れて宙を舞っていく。

 腕が上がり、がら空きになった胴がまさに狙い目。「かがんで!」と伝えると、ミユゥは素早く地面に伏せた。

 俺の前にあるのは、湾曲した巨大な三日月形の刃。その幅は人の背丈をゆうに超える。隕鉄の大鎌は地面に平行に滑るように飛び、ミユゥの頭上を通り過ぎた。

「わっ」

 標的はそのまま直線上、甲冑で常にも増して動きの遅いポロム。刃はそのへその辺りを薙ぎ、魔物の胴を上と下に離れ離れにした。

 腹から上の鎧がふわりと浮かんで、地面に転がる。既に立ち上がったミユゥはそちら側に核があることを見つけると、断面から槍を突き込んだ。真っ二つにされてもうねうね動いていたポロムが脱力し、緩やかに溶けていく。戦闘終了。

「どうだい?」

 中身を失った甲冑まで近づいて見てみる。ミユゥが胴鎧を持ち上げてみせた。

「ちょっと腹のほうが削れてる」

「あー……仕方ないか。継ぎ目を狙ったつもりだったけど」

「売るには十分だと思う」

 そう言うミユゥの興味は鎧よりも別にあるようだった。後ろの岩壁に食い込んでいる刃を槍で叩く。

「これ、なに?」

「隕鉄だよ。鎧も鉄製だから、氷だと押し負けることもあるかと思って」

「へえ……こんなものも魔法で作れるんだ」

 感心したように撫でたりしている。

「時間がかかるから普段はやらないけどね」

 戦闘の現場で悠長に完成を待っている暇はない。俺も生物に向けてこの魔法を撃ったのはこれが初めてだった。時間に見合うだけの威力はあるが、これなら他の魔法でも代用できる。

「鉄だと遅いの?」

「鉄に限らず、岩とかの鉱物は全般的に時間がかかる。魔法での物質の生成速度は、自然界での発生速度に比例するんだ」

 ミユゥの顔に疑問符が浮かぶ。わかりやすい例で言うと、

「例えば、氷が自然にできるのはどんな時だと思う?」

「水があって、周りが寒い時。私の村だと、冬は家の中に溜めておいた水も時々凍ってた」

 そういえば、彼女は寒冷な山間部の出身だった。

「湖も凍ったりするらしいね。環境にもよるけど、およそ一晩……早ければ数時間もあれば水の温度は下がり、氷が生まれる。これは魔法で創れる物質としては、かなり早いほう」

 魔法ともなれば一瞬だ。そんな理由から、物理的攻撃力の伴う魔法として俺は氷を好んで使っている。

「ところが、岩、鉱物や金属となるとそうもいかない。どれも地中で長い時間を掛けて形成されるものだからね。魔法で創る場合も、種類によっては数分から数時間かかる物まである」

 そこらに転がる石ころも、大昔の生物の死骸が地層に積み重なり圧迫され変質し、俺たちの人生よりも長い長い時間を掛けてようやく今の形になったものだろう。魔法は時間の先取りであると言うが、元々の時間が重ければ先取りにもそれなりに時間を要するのだ。

「確かに、戦いには使いづらい」

「ああ。いずれにせよ本物には敵わないさ。だから──」

 よっと、と鎧の兜を拾い上げる。

「価値あるものは、ありがたく活用させてもらわないとね」

 今回は、換金物としてだけれど。




「ミユゥは鉄の防具は着けないの?」

「動きが重くなるから……」

「すんごい盾とか持ってる人いるもんね。でっかいやつ。俺には無理そう」

 担いだ麻袋をがしゃがしゃ鳴らしながら歩を進める。分担して運んでいるものの、鉄製の鎧はかなり重い。地図によればそろそろ集落が見えるはずなので、そこで早く手放してしまいたい。買い取ってくれる店はあるだろうか。

 石や岩ばかりの風景にも飽きてきたころに、その住宅群へ辿り着いた。村とも名乗り切れないような家々の集まりである。煙突から煙が昇ったりはしているものの、いまいち活気はない。ところどころ、半壊し打ち棄てられたような建物さえあった。

「組合もなさそうだね。宿があれば一泊くらいしていきたいところだけど……」

 すると、ある家の前に積まれた土嚢の陰から、小さな子どもたちが数人わらわらと出てきた。わあ。

「おにいちゃんたち、冒険者?」

「そのおっきい袋なにー?」

「剣見せて、剣!」

 あっという間に囲まれて、口々に話しかけてくる。手には玩具なのか、木の棒を持った子が多い。残念ながら俺たちのどちらも剣士ではないけれども、とりあえずかがんで挨拶してみる。

「こんにちは。君たちここに住んでるの?」

「そうだよ。どっちから来たの?」

「ソノトフのほうから」

 すると、一人がこう言った。

「魔物にあわなかった? でかいたぬきみたいなやつ!」

「狸?」

 道中いくらか魔物は排除したが、そんな特徴に覚えはない。

「いいや? この辺りにいるの?」

「最近出てきて、荒らされてるんだよ。畑の食べもの食っちゃうの」

 それは困った話だ。しかし子どもたちの面持ちは暗くはなく、むしろ元気に棒を振りかざした。

「だからけいびしてるの! おっぱらえるようにって!」

 なるほど。それで集まって隠れていたのか。実際に魔物が現れれば危ない気もするが、大人に伝える役割も担っているのだろう。子どもたちは嬉しそうに、有り余る意欲を振り回した。俺はばしばしと木の棒で足を叩かれながら、

「それは偉いね。俺たちも見つけたら追っ払うの手伝うよ。そうだ、この集落に武具屋ってあるかな? あイタイいたい、脛は痛い」

「あっちの角を右に行ったとこ!」

「ありがとう、行ってみるよ。君たちも気をつけてね」

 わー! と声を上げながら子どもたちは駆けていく。悲壮な様子が見られない当たり、人的被害は少ないのだろうか。俺は肩の袋を担ぎ直した。

「じゃ、持ってってみようか。……どうしたのミユゥ、さっきから黙って」

 横を見ると、固まったような表情でミユゥが立っている。両手が行き場を無くしたようにお腹の辺りの微妙な位置まで上がっていた。極めて険しい顔で、

「その。子どもって、話すのが速くて……」

 ああ……。

「……まあ、次があるよ、うん」

 答える意気込みはあったらしいが、質問が矢継ぎ早すぎて追いつかなかったということらしい。俊足の槍兵は、やはりこと弁舌においては首位を譲るらしい。




 武具店というより金物屋という趣だが、壁際にはいくつか武器も陳列されていた。炉を背にした親方は、俺たちの持ち込んだ物に目を輝かせた。

「こいつは立派だぁ! 全身用の板金鎧なんぞ久しぶりにお目に掛かった」

「北の谷でポロムが身に着けてたんです」

「じゃあ先の魔王……いや、五代目あたりの遺物だな、これは。あの谷のあたりはよく戦場になる」

「買い取っていただけます?」

「もちろんよ。鑑定に時間をくれ」

 話がうまく纏まり、足取り軽く踵を返す。店内の壁に掛けられた剣を眺めて待っていたミユゥに話しかける。

「ミユゥは剣は使うの?」

「あまり金属の採れない土地だったから、村で剣を見たことがなかった。だからメムーロに来て、剣を使う冒険者が多くて驚いた」

「なるほど、それで槍使いに」

 冒険者の武装に歴史あり、というやつだ。出身地の土地柄というのもあるのか。確かに槍ならば金属部分が少なくて済む。会ったばかりの時に持っていた装飾の無い簡素な槍、もしやあれは既製品でもなく手作りだったりして。

「剣を持ってもいいけど……資金に余裕ができたらかな」

「なら、鎧がいくらで売れるか楽しみだね」

 ミユゥの槍は直線の棒状で、柄も刃も細くて軽い実用主義を極めた代物。これでざくざくと魔物をなぎ倒していくのだからすごい。そんな彼女が剣を握ればどうなるか、正直ちょっと見てみたい。

 ちなみに、戦闘では滅多に使わないものの、俺も刃物はいくつか持ち歩いている。冒険者なら野草などの採取には不可欠だし、野営や料理や魔法薬づくりやら、用途に合わせた道具は重宝するのである。鋳物で有名な都市もいつか訪れてみたいものだ。

 戸口の石畳を一人の足音が叩いた。ふと見やると、瑠璃色の髪をした若い男性が静かに入ってきて、目が合う。互いになんとなく会釈したのち、彼は店の奥に進んでいった。

「店主。直しをお願いしていた篭手はあるだろうか」

 鎧を検めていた親方が手を止め、応対する。

「おう、終わってるぜ。ちょっと待ってくれ、いま別のお客が入っててよ」

 他に客の姿は見えないので俺たちのことだろう。声を掛ける。

「鑑定は急ぎませんので、お先にどうぞ」

 出来た物を渡すだけなら早く終わるだろうし、実際そう急いではいない。しかし男性は落ち着いた口調で、

「いや、店にいたのはそちらが先だ。順番を変える道理はない」

 その遠慮に、ミユゥも口を挟んだ。

「時間は潰せるし、別に構わない」

「しかし俺が訪れなければ延びることのなかった時間だ。そのような無駄を被らせるわけには……」

 腰は低いのに譲る気配がない。淡々とした口調といい、なんとなく誰かと似た融通の利かなさがあるな、とこっそり隣を盗み見る。悪い人ではなさそうだけども。

「喋ってる間に持って来ちまったぜ。ほらよ、ラウツ」

 気がつけば店主は店の奥から一双の篭手を抱えて戻って来ていた。ラウツと呼ばれた青年に「だそうですよ?」と俺は笑いかける。彼は店主と俺たちを交互に見た後に、

「すまない、恩に着る」

 ぐ、と頭を下げた。ここで食い下がるといったことまではしないようだ。

 男性は篭手の修理を頼んでいたらしい。両手に嵌めて感触を確かめている。

「緩みとかはねえか?」

「問題ない」

 俺はここで初めて、彼の背負った剣を凝視する機会を得た。

 鞘はなく、肩の帯に簡易的に留めてぶら下げるような形だ。奇怪なのはその外見で、まるで巨大な生物の脊柱のようである。白く、文字通り骨ばった椎骨が繋がり合ったような支柱から、両側へ鋭い錐のような『肋骨』が何本も伸びている。湾曲していないのを見ると、魚類の骨格に近いだろうか。ただの骨と違うのは、肋骨の先端どうしを薄い刃が繋いでおり、直剣の姿を成していることだろうか。

 意匠の凝った剣だ。ぼんやりと眺めていたところ、ぱちり、と目が合った気がした。

 こちらからはラウツ氏の後頭部しか見えないが、確かになにかと目があったのだ。

 同じように剣に目を引かれていたミユゥに訊いてみる。

「ねえ、今……」

「ん?」

「……いや、なんでも」

 勘の鋭いミユゥが気づかなかったのであれば、俺の気のせいだろう。

 剣士は支払いを済ませると、速やかにそこを離れた。俺たちへの気遣いだろう。店主が挨拶とばかりに去り際の彼に問う。

「今日も捜すのか?」

「山道で待ち伏せる。どうにも入れ違いが多いからな」

「俺たちは助かるけどよ、無茶はすんなよ?」

「ああ。確実に倒す」

 そうして工房を出て行った。親方は目をしばたたいてから頭を掻くと、俺たちに向き直った。

「さて、あんちゃんたちはもうちょい待っててくれや」

 俺はふと気になって、

「あの、今の方、なにか探してるんですか?」

 店主は渋面になる。

「最近食料が魔物に荒らされててよ。たまたま集落に寄ったあの兄ちゃんにそのこと話したら、『俺が倒す』っつって留まってくれてるんだよ」

 子どもたちに聞いた狸とやらのことだろう。会話から察するに彼はまだ魔物を発見できていないようだ。

 ふむ。

 俺が考え込んだのを見て、ミユゥが言う。

「手伝うの?」

「まあね。幸い集落は広くないし……ちょっと出てくるよ」

 店を後にする。一周して戻ってくるくらいの時間はあるだろう。




 用を済ませると、道端で子どもたちに囲まれて固い顔をしているミユゥに遭遇した。槍の柄を引っ張られたりして「危ないから……」と困っている様子。しばらく見ていてもよかったが、とりあえず助け船を出す。

「そっちも終わったの?」

「ん、まだ時間がかかりそうだから外で待っててもいいって……その、危ないよ、ほら」

 あしらい方からも不慣れなのがわかる。小さい子というのは躊躇いなく地面に寝転がったりするから、うっかり動いて傷つけないように気をつけているのだろうか。

「こっちも網にかかるのを待つだけだよ」

 ようし、と俺はその場に腰を下ろして、

「お絵描きでもして待ってようか。みんな、その魔物ってどんな顔してるの?」

 えっとねー、と競うように子どもたちはしゃがんで、石ころで地面に線を描き始めた。地面と言っても、この辺りは剥き出しの岩ばかりなので、その表面を削って白く線を残すようなことになる。子どもの頃、同じように石造りの庭に落書きをしたことを思い出す。思い思いの狸(らしきもの)の絵を批評し合っているうちに、時間が過ぎていく。

 陽が傾きかけてきて、子どもたちは散ってそれぞれの家路へつく。作物を狙う魔物であれば夜に現れるだろうか、と考えたその時、結界に巨大な動きを感知した。

「来た」

 俺が走り出すと、ミユゥもすぐに続いてくれた。

「方角は?」

「北西、集落の端だ」

 集落は険しい岩壁に囲まれている。かなりの高さのはずだが、飛び降りてきたのだろうか。人家に到達しないうちに対処すべく、先を急ぐ。

 あとは、捜すまでもなかった。反応があった場所に着くと、その魔物は嫌でも目に入るものだった。なぜなら、

「でっ……か!」

 どぎつい草色の体毛に覆われた四足獣。足先や目の周りが黒いのはまさしく狸の特徴だろうが、なにより圧倒されるのはその体躯。四つん這いの状態でもちょっとした家より大きい。

「どういう魔物?」

 腰を落として槍を構えたミユゥが問う。

「ごめん、わからない……。まずは攻撃を凌ぎながら見極めよう」

 足場は岩。崖を背にした魔物を相手に、俺たちは対峙する。なるほど、あの大きさなら崖など階段のようなものだろう。走られたらとても追いつけないだろうから、人里に届く前にここで食い止める。

「〈サジタ・グラシズ〉!」

 まずは一発、顔に向けて牽制。氷の矢は魔物の左頬に命中し、砕けて血を散らした。少し拍子抜けしながら、続けて攻勢に移ろうとしたところで、大狸は唸り声をあげる。

 牙を剥き出しにし、大きく口を開いた。金属を擦り合わせるような鳴き声を発したかと思うと、

「う……あっ……!」

 頭蓋を圧し潰されたと錯覚するほどの痛みが走る。脳内で反響してなにも外の音が聞こえない。ミユゥは躱したようだったが、彼女が大きく口を動かしてなにかを言っているのは見えていても、内容が聞き取れなかった。

 ただの叫び声ではない。音は本来放射状に広がっていくはずである。正面の直線上にいた俺にだけ効果があり、横に逃れたミユゥはその攻撃を回避している。指向性を持たせ、凝縮させたような威力を持つ。つまりは、魔法。

 〈ムルス・イグニス〉と口を動かす。自分の声も耳が詰まったように不快にくぐもっていて、正しく発音できたか不安になったが、魔物と俺たちの間を横切るように炎の壁が立ち上がった。彼我を分断する障害をとりあえずは確保する。

「音波、魔法だ……!」

 ようやく痛むのをやめた頭を振って俺は言った。

「音波魔法?」

「空気の振動を飛ばす魔法、下手に食らうと鼓膜が破れる」

「防ぐ方法は」

「……あんまり無い……」

 俺の情けない返答に、さすがのミユゥも複雑そうな苦笑いを浮かべた。事実なのだから仕方がない。

 人間に限った話ではあるが、魔法は規格化された道具である。どのような術者であれ、基本的には同じ呪文を唱えれば同じ効果が出る。魔法言語で形成する呪文の意味が具体的であればあるほど魔力消費も小さく、成功率も高い。裏を返せば、抽象的な言葉には全く効果が生まれないのである。「敵を殺す」という意味の呪文を唱えたところでなにも起こらない。”殺す”にしても”死”にしても、例えば失血死ひとつ取ってもその実例は様々だ。首を切られて命を落とすか、内臓を破壊されて体内で血を垂れ流して死ぬか。個々に定義が曖昧過ぎて術者の間で共有できないのである。

 その意味で、音波魔法は実に厄介だ。音には高さがあり、どの高さの音を出すかは術者によって定められる。要はかなり曖昧な魔法なのである。面倒なので人間の魔法使いはほぼ使わない。

 しかしながら、詠唱を行わないのであればこの不便は克服される。溜めと魔力消費こそ大きいが、魔法の行使に概念の共有を必要としない魔物たちは、問題なく音波を武器として扱えるのだ。

 炎の幕がこじ開けられ、丸く穴が開く。咄嗟に俺たちが左右に分かれて避けると、その間を目視できるほどにひずんだ空気の塊が通り抜けていくのを確認した。楽器の弦を鉄の爪で乱暴に引き掻いたような音がはじける。音こそ大きいが、直撃しなければ被害はなさそうだ。

 炎の壁を解除して叫んだ。

「俺が遠距離で引きつける!」

 ミユゥは頷くと、魔物の側面へ回りこむように走り出した。四足の獣は後ずさって彼女を視界に捉えようとするが、背後の崖がある限り限界はある。

「〈ポルタ・インテリトゥス・トニトルム〉……!」

 静電気が杖の肌を走る。音の話ならばこの魔法も負けていない。刹那ののち、爆発するような轟音を伴って雷の衝角が放たれる。丸太のような太さの雷撃は魔物の左前足の付け根に突き刺さり、かたい毛ごとその肉を灼く。

「グゴォォォッ!!」

 大狸は唾を散らして悶絶する。ゴロゴロと地面を転がって崖にまでぶつかり火を消した。これで倒してしまえれば御の字だったが、そう上手くはいかないか。

「あ、ぐ……!」

 上半身が絞られるように痺れ、俺もまた苦悶の声が漏れる。反動の大きい魔法だ。細かな放電が雷の通り道から周囲へと拡散し、当然、術者の俺にも電気が伝わってくる。

 だが、この隙をミユゥが逃すはずもない。槍使いが崖に向かって駆け、なんと垂直な壁すら数歩踏んで勢いをつけると、高く宙返りをした。勢いをつけた槍が体ごと振り下ろされ、魔物の首を裂いた。緑の毛の下から鮮血が散る。

 狸は首を回して暴れ、その牙でミユゥに噛みつこうとする。彼女はくるりと回ってそれを躱すと、穂で文字でも描くかのように体の前で槍を振り回した。魔物の鼻先に無数の傷が走り、再び悲鳴が上がる。

 力強く槍を構え、とどめの一突きを放とうとしたミユゥは。

 ──魔物のに弾き飛ばされ、地面を転がった。

「え?」

 自分の認識を疑う。魔法を当てた場所を勘違いしていただろうか。

 ミユゥが離れた場所で脇腹を押さえて咳き込んでいる。血の混じった吐瀉物が岩肌を濡らす。

 間違いない。焼けて骨まで見えていたはずの魔物の傷が修復している。揺るぎなく全ての足を伸ばして立つ魔物から、みるみるうちに顔の傷が消えていく。体毛を逆立たせ、まさに反撃せんと怒りの形相をこちらに向けている。

「回復魔法……!」

 俺は驚くとともに歯噛みした。音波魔法を操る魔力量なら、回復魔法も持っていることは想定して然るべきだったのだ。

 大狸の口が開く。矛先はいまだ地に伏す槍使い。迂闊にも俺は敵向かって駆け出し、彼女を庇おうと杖を振る。

「トニト……!」

 そんな俺に魔物の鼻先が向けられた。陽動と気づいた時には遅く、叩きつけるような音波を正面から貰う。頭蓋が軋むような悲鳴を上げ、受け身すら取れず転倒した。

 痛い、痛い痛い痛い。肺が膨らんで破裂しそうだ。錯覚だろうが、それほどまでに強烈な空気の圧力だった。

 倒れ込んだのはミユゥのそばだった。彼女はといえばすでに杖を支えにして立ち上がり、俺を庇うように前に出て魔物を睨んでいる。闘志は少しも衰えてはいないだろうが、息は荒く、俺も音波による損傷で気分が悪い。

 杖の柄を知らず握りしめた。

 旅は命の危険と隣り合わせだ。そのことは重々わかっているはずなのに、傲慢にも正しくあろうとする自分自身が、俺に魔法の使い方を抑制させてきた。卑近な言い方をすれば、倫理観のようなものか。

 だが故郷を出てここまで一人で旅を続けて、死の可能性がにじり寄ってくる度に思った。手段を選んでいる余裕などあるのだろうか。魔物とて生きるためにこちらを殺そうとしているのだ。生存競争に卑怯どうこう言っている場合なのか。

 そして、ミユゥを死なせてしまってから、その疑念はさらに強まった。

 一人で生きるのなら、どのように死ぬかも好きに選べばいい。

 でも、誰かを死なせてしまうような生き方をしてしまうのは、死よりも恐ろしい。

「……ミユゥ、離れてて」

 ふらつく足で進み出る。どうして、と言いかけた彼女は俺の顔を見て口をつぐむ。俺がをしようとしていて、それが危険なものであろうことを察したのだろう。戸惑うような気配を背後に感じながら、杖を突き出す。

「〈サジタ・ヴルカノ────」

 剣呑な魔力を察知して、威嚇する獣。そして、その背後。

 夕闇に滲む崖際に、一つの影が現れた。

「ようやく間に合った」

「ウソつけ、どー見ても遅刻って感じだろ」

 状況に似合わぬ落ち着き払った男の声と、呆れたような少年の声。影から発せられたそれらに驚いて、俺は詠唱を中断する。その人は躊躇いもなく崖を飛び、空中に躍り出た。

 影が鋭いものを獣の背中に突き立てる。敵が身をよじるより先に影は跳躍し、その落下地点を迎え撃つ爪と接触し──それを砕いて前足を叩き斬った。

「ギギャァッ!」

 体から血を噴きながら獣は吠える。崖の上から跳んできた男はその顔を見据え、両手剣を握り直した。

「あ」

 武具屋で見た骨の剣の人。今になって思い出したが、大狸を探していたのは彼が先である。助っ人というより、正当に獲物を狙いに来たということだろうか。

 すると、剣士はこちらに顔を向けた。

「俺はラウツ・ヴィリータ」

「はい。……はい?」

 名乗られた。咄嗟のことに同じ言葉をただ繰り返してしまう。続けて彼は低い声で息継ぎもせず、

「あの魔物を追っていたのにはわけがあって、まず俺の故郷を魔物が襲ったんだが、その魔物というのはあれとは違うのだが、ともかく、その時に手に取ったこの剣がアーチという名前で」

「え、あの」

「アーチが言うには、知能が高い魔物は人間に与える悪影響も大きいらしく、それを倒すために……この言葉は村の魔物を倒した後に聞いたのだが……まず村を襲った魔物を倒し、」

 な……。

「そのあとにこの言葉を聞いて、そういった魔物を追って俺は旅を」

 長い──!

「敵! 敵来てます!」

 ずっと後ろを向いたまま喋り続けるヴィリータ氏に必死に呼びかける。

 息を吸う動作のあと、魔物から音波攻撃が射出される。俺は横に腕を引っ張られたかと思うと、ミユゥによって地面に伏せさせられていた。回避するというよりちょっと浮いた気がする。

 剣士は一歩も退かぬまま、顔の前に剣を掲げた。

 風を切るような音がして、実際に空気が頬を撫でていく。音波魔法が直撃したはずのラウツさんは、何事もなかったかのように手首を下ろして剣を正中に構えると、再び振り向いた。

「今のは……」

 不思議な現象への疑問を俺は口にする。それに対して彼は、

「そういった魔物を追って俺は旅をしていて」

「続けるんですか……?」

 彼はぴくりとも笑わない。ふざけているわけではないらしい。俺の頭を守るようにして這いつくばっていたミユゥも、これには言葉を失っている。

 そこに、甲高い少年の笑い声が響き渡った。

「ハハハ! おい、もうバカがバレてるぞ、ラウツ!」

「む。まだ俺は話し終わっていないのだが……この短い話だけでも気づく賢い人たちということだな」

「いやそうじゃねーよ。そういうとこだけどそうじゃねえよ」

 彼のほうから、明らかに二人の声による「会話」が聞こえる。低いほうは彼で間違いないとして、子どもの声は、まさか。

 俺とミユゥの驚嘆が合唱した。

「「剣が喋ってる……?」」

 ラウツの握っているあたりの柄が、答えを示すようにぐいぐいと揺れた。

「あ? なんだよ、キモいくらい察しのいいヤツらだな。ボクのことにもう気づいたぜ」

「いつもはなかなか信じてもらえないからな。その時は俺の腹話術ということにしているのに……ボ、ボクガアーチダヨ、ヨロシクネッ!」

「やんなくていーんだよ! 似てねえよオマエの物真似!」

「あとにしてもらっていい?」

 顔色すら変えないまま裏声を出すラウツさんと呆れる剣に対して、さらに冷ややかな顔でミユゥが言い放つ。

「すまない」

「命令すんな、ザコ! ザコ人間!」

「こらアーチ」

 剣士は淡々と謝罪し、剣はこの調子である。反抗的な少年(?)の言葉に掴みかかりかねないミユゥをまあまあと押さえて、俺も言う。

「その剣への興味は尽きないところですが……まずは目の前の敵をどうにかしましょうか」

 二人が頷く。魔物はというと、魔法が打ち消されたことに警戒してか、こちらを窺うように距離を取って歩いている。

 それを観察したミユゥが、おもむろにこうつぶやいた。

「傷が治ってない……?」

 俺も頷く。

 魔物の背中と右前足からは、今なお流血が見られる。魔力が余っているのなら、音波魔法での攻撃をせず治療魔法に回すはずだ。つまり、やらないのではなくできない。

 そして、かき消えたようにすら見えた敵の攻撃。

「──その剣。治療魔法を阻害するだけでなく、『魔法を無効化する』ことができるんですね」

「そうだ。だからあれは俺が斬ろう」

 ラウツさんは首肯する。

 俺はひと時、魔物の存在さえ忘れて、肌が粟立つような昂奮が全身を駆け巡るのを感じた。

 一方ミユゥは、

「でも、さっき音波魔法を防ぐ手段はないって」

「そのはずなんだけどね。アーチくんに秘密がありそうだなあ?」

 にやりと笑って見せると、剣は心底不愉快そうに吐き捨てる。

「ハ、略奪者め。ボクの魔法だけは盗めないぞ」

「そうかもね。だから、俺は俺なりに持てる知識で挑むだけさ」

 横に払うように杖を振る。

「〈ムルス・グラシズ〉」

 冷気の弾が獣の鼻先へ飛び、弾ける。俺たちと分断する氷の壁が一瞬で出来上がった。コイツ、と剣が低く呟くのが聞こえる。厚みは一般的な家屋の壁程度のものだが、その範囲は術者の視界に入る限りどこまでも横に広がり続ける。こちらへ攻撃を加えるには破壊するか、さもなくば。

「上だ!」

 ラウツさんが叫ぶ。そう、跳び越えてくるのが手っ取り早いのだ。人が登るには高いが、あの巨躯にとってはそれほどでもない。大狸は凶悪な牙を光らせながら跳躍し、軽々と壁を越えてこちらに向かってきた。

 ミユゥが動く。敵の着地点へ滑るように走り、

「ふうっ!!」

 気炎を吐き出す。魔物の前足がまさに接地した瞬間に、槍をその左前足へ振り下ろし突き立てた。

 他ならぬ彼女に聞いた話だった。陸上を歩行する動物は、行く先に怪しいものがあっても迂回せず跳び越えることが多い、と。果たして魔物にも通じるものかと思ったが、一瞬を争う殺し合いの中でそのような手間を取るほどの冷静さはなかったようだ。

 魔物が叫び、暴れる。足場は硬い岩盤で、槍が刺さろうはずもないのだが、しかし縫い付けられたようにその足は動かない。槍を押さえ続ける彼女の腕がミキミキと軋んでいる。

 ラウツさんが前進する。この場で治療不可能な攻撃を加えられるのは彼と、その手に握られた剣だけだ。それを察してか、魔物の口腔から彼に向けて音波が放たれる。

「効っかねーんだよ、オラァ!」

 無邪気に剣が叫ぶ。合わせるかのように剣士が斬り上げ、不可視の音弾は彼の左右を吹き抜ける風となって霧散する。

 そのまま魔物の顔まで迫り、左上方からの斜め切り。頸部へと刃が振り下ろされたかに見えたが、

「……む」

 血が飛び散ったのは首からではなく、既に爪も砕けたはずの魔物の右前足だった。敵は縫い留められ動かない左手をあえて支えに活かし、もう一方で防御したのである。

 拮抗する剣と爪。ミユゥも左の固定に精いっぱいで動けない。押し切ろうとするラウツに、アーチが警告する。

「ラウツ、退け! 来るぞ!」

 獣が口を開く。両手を痛めつける敵を、至近距離の超音波でまとめて吹き飛ばそうと魔力を込める。

 ──その額に、隕鉄の刃が突き刺さった。

「……忘れないでほしいな」

 魔法使いの本領は遠距離だが、後ろで見ているだけというのも面目が立たない。時間があるのならそれに見合った強力な魔法を使わせて貰うだけだ。

 獣と剣士の目が驚きに見開かれる。先に動きを取り戻したのはラウツだった。のけぞり、緩んだ魔物の前足を弾き、左下段から骨の大剣を振りかぶる。

「その首、その災い。俺が絶ち斬る」

 今度こそ、致命的な場所へと振るわれた。




 集落を騒がせた魔物の亡骸を、住民たちが囲んで見上げている。彼らは運よく攻撃することはなく被害を免れたようだが、立ち向かってみると恐ろしい凶暴さだった。

「よかった」

「ん?」

 頭の上で聞こえたミユゥの呟きに反応する。彼女は穏やかな声で、

「あれだけの大きさなら、毛皮にも困らない」

 確かに。狸としては派手な色合いだけど、資源としては十分すぎるものだ。

「そうだね。畑を荒らされることもなくなるだろうし」

「ん。……っ」

 彼女はこらえるような呻きを上げた。

「痛むかい?」

「少し」

「内臓の出血があるかも。念のため魔法で治しておこう」

 俺たちは喧騒を遠く眺めるような位置で腰掛け、傷の治療をしていた。ミユゥは魔物の一撃を右脇腹に受けていたので、俺が触診して傷の程度を確かめた。赤黒く広がる傷は痛々しいが、熊すら見下ろすほどのあの巨体の前腕を叩きつけられておいて、内出血くらいで済んでいるのが驚異的にも思える。

 ラウツさんは集落の人とよく交流していたようで、功労者として労われつつ、子どもたちに囲まれて動けなくなったりしている。どこかでみた光景である。

 魔力による修復が進む間、ミユゥは黙って服を捲っていた。俺の手の甲より少し日に焼けた肌が元の健やかさを取り戻していく。

 それにしても。

「鎧みたいだな……」

「え?」

「いや、あはは」

 つい漏れた独り言を笑って誤魔化す。知られると怒られそうな感想を抱いているのだが、治療を終えてすぐ見納めというのも惜しい。むくむくと好奇心がうずく。

 治療魔法の光が消えるや否や、俺は提案してみる。

「ねえミユゥ。まだ痛むところがあるかもしれないし、もう少し診てもいいかな」

「ん? うん」

 特に疑う様子もなく彼女は頷く。痛んだのは俺の良心だったが、しかし人差し指はミユゥのへその上あたりへ吸い寄せられていく。

 縦に割れた腹筋の谷間を押す。左右の山で爪はほとんど隠れてしまいそうだ。次にその膨らんだ部分に触れると、肌は僅かに沈むばかりであとは確かな硬さが押し返してくる。六つの峰が連なる山脈、その頂を余すところなく指で押して回る。

「ふぅむ……」

 今度は大胆に左の脇腹を掴むように握ってみる。手のひらが冷たかったのか、ミユゥは小さく息を漏らした。外腹斜筋はつきにくく防御が薄いはずだが、この安心感はどうだ。内側へ反るようにへこんでいるのに、斜めに彫られた段差からは内臓を守るという生物としての力強さが伝わる。思わずその溝をなぞるように親指を滑らせる。

「ふ……く」

「これはまた……」

「ん……あの、リキナ」

「なんだい」

 探索に集中している俺は顔を上げないまま聞き返す。くすぐったさに耐えるような、もしくは羞恥の混じったような声でミユゥが言う。

「この人が用事があるみたいで、ずっと待ってる」

 のめりこむように下げていた頭を思わず振り向く。

 座った俺たちを見下ろすようにラウツさんが直立していた。彼は天下無双の真顔で、

「終わるまで待っているから、続けてくれて構わない」

 彼は間違いなく善意で言っており、俺がやめると口にしなければ、本当にそのままこの知的探求を眺めて待つ人であろうことは、既に感じ始めていた。この場においておかしいのは彼だが、悪いのは俺である。

「いいや全然。とっくに終わってるのでお構いなく」

「えっ?」

「そうか。では話をしよう」

 ミユゥの疑惑の目から逃れるように彼へと向き直る。剣士はその場で腰を下ろして胡座をつくった。

「先ほどの助力、感謝する。君があの魔物を見つけたのか、魔法使い殿」

「助けられたのはこちらの気がしますが、ええ、そうです。結界で」

「けっかい? そんなものがあるのか」

「簡易的に集落を囲っただけですよ。侵入者を見つけるには十分です」

 彼は籠手を鳴らして腕を組んだ。

「俺は間が悪いのか、どうも探しものが苦手でな。ともかく助かった」

 ラウツさんは魔物を退治するためにここに滞在しているようだったから、これまでは本当に遭遇しなかっただけだろう。あの強さなら接敵さえすれば難なく倒していたはずである。

「魔物がどうとかって言ってたけど」

 戦闘の最中に言いかけていたことだった。ミユゥの問いに、

「ああ。魔物を倒すために俺は旅をしている。アーチ」

 彼の呼びかけに、その背に負われた剣はカタカタと柄を鳴らした。

「なんだよラウツ。そっちで勝手に話してろよ」

 改めて目にするとやはり奇怪である。口も顔もないのに喋る剣は、どうやら機嫌が悪そうだった。

「む、なぜだ。お前が指示を出したことについてだぞ」

「ドロボーに教えることなんざねえっつうの」

 首があればそっぽを向いたであろう口調である。

「彼らは盗賊ではないぞ」

 ラウツさんはそう言ってから、

「む。盗賊ではないのだろうか」

 婉曲さという言葉からほど遠い問いが本人に飛んでくる。なぜ言い切ってから疑問に戻るのか。苦笑いしながら、

「冒険者です。俺はリキナ」

「ミユゥ」

 順に名乗る。

「そうか。盗賊ではないか。聞きたいのだが、言葉を話す魔物を見かけなかっただろうか」

 ミユゥと顔を見合わせる。

「人語を操る魔物ですか。そう珍しい生態でもないですが、この辺りでは別に……」

 人間の言葉を話す魔物はいるにはいる。それは人間を撹乱したり、精神攻撃に使ったりするためであって、彼らにとって学習そのものは意義のあることではないとされている。種ごとの知能の差にもよるが、積極的に獲得する魔物は、まあいない。

「俺たちはそうした魔物を追っている。人々を脅かす、災いの芽を摘むために」

 流浪の魔物狩り、ということか。なかなか格好いい。しかし俺はふと違和感を覚えて口を挟んだ。

「言葉を話す魔物は確かに多くないし、魔法も強力な傾向にありますが、それだけですよ。人間に擬態して社会に紛れ込むにしても、声帯が異なる魔物の発声は音波魔法によるものです。魔法使いがいればすぐに気づきます」

「俺の村にはいなかった。だから騙され、全員殺された」

「っ……すみません」

 迂闊な発言を恥じる。たいていの旅人がその路銀集めの合理性から生業に選ぶ冒険者ではなく、わざわざ『魔物狩り』を名乗っていたのだから、それなりの理由があると推測して然るべきだった。

「いい、事実だ。それよりも。前回の魔王のが何年前かは知っているか?」

「15年前、北グブルフ山脈近辺だとされていますが」

 俺は四歳くらいだったから、詳しく記憶しているわけではない。戦史の講義で覚えなおした程度だ。俺より一つ上のミユゥも同じだろう。

「討伐までの期間にもよるが、およそ百年ほどの周期で魔王は生まれている」

 魔王とは、周期的な災害である。

 魔物を統べる者。溢れる魔力、突出した技術、恐ろしい狡知を備えた異形。初代魔王を皮切りに、そうした魔物の特異個体が世界に現れるようになった。

 魔王は魔物同様、人間への害意を行動理由とし、軍勢を率いて侵略する。その度に人類も力を結集して、魔王の討伐に臨むのである。

「だがアーチが言うには、その周期が早まっているらしい」

 災害の頻度が増えている。彼はそう言った。

「はあ。……つまり、魔王になり得る強い魔物を、倒してまわっているというわけですね」





「それはアーチが特別な魔物だからだそうだ」

「おまっ……ペラペラ喋るな⁉」

「だって彼は詳しそうだぞ、アーチ。お前はいつも魔法については教えてくれないから、彼に訊くしかないじゃないか」

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