第4話 ならず者とぶどう酒
釣りの楽しみとはただ釣ることのみにあらず、待てども待てども震えぬ竿と水面を眺め、当てどなく思索に耽ることもまた醍醐味であるという。俺は釣り人ではないけれども、そういう時間も人生には欠かせないものだと思う。
ただ、居て困るというから駆除しに来たというのに、一向に魚影すら見えないのは話が違う。
「ほんとにいるの? 漁場を荒らす魔物ってのが」
すっかり待ち疲れてしまった俺は意味もなく櫂をひと漕ぎしてみる。底まで見通せそうな澄み切った池の水をかき分け、小舟が水上を滑っていく。
「そういう依頼なんだから、いるはず。たぶんどこかの岩陰に隠れてる」
ミユゥは舟の
「おおい、兄ちゃんたちぃ」
正面から別の小舟が近づいてくる。すれ違うような格好で進んで来た彼らは、器用に櫂の操作で速度を緩めて横付けした。壮年の男性二人組は、わかりきったことを訊いてくる。
「見えたかい?」
「影も形も」
「だよなぁ。小魚一匹いやしねえ」
ヨンドさんは、白い髭の薄く混じる頬を掻いて言った。
「俺たちはよくここに釣りにも来てるし、楽な依頼だと思ったんだがな」
「情報は確かなんですか?」
俺が訊くと、その舟に乗ったもう一人の冒険者、グタラさんは日に焼けた額に皺を寄せて唸った。
「その魔物が棲み着いてから、魚は逃げるわ舟も罠も壊されるわで、漁なんかできやしねえって話だ。ただ、こんだけ探しても出て来ねえってことは、俺たちを見て隠れてるんじゃねえか?」
「用心深い魔物ですね。まあ……」
そこで俺は、離れた位置にいるもう一艘をちらりと見た。
「これだけ『上』が騒がしいとなると、隠れたくなる気持ちも分かりますが」
これには二人だけでなく、ミユゥでさえため息で同意した。
「おら、出て来いや!」
「ほ~らほらほら、餌でちゅよ~」
「めんどくせえな、さっさと殺されに来いよ」
乱暴な文句は水中に向けられていた。その舟に乗った三人組は、櫂でかき回すように波を立てるだけでなく、剣を突っ込んだり水面を切りつけてみたり、およそ魚を待つとは思えない振る舞いである。正確には魚型の水棲魔物らしいが、どちらにせよあれでは寄りつくまい。
ヨンドさんの言う通り、厄介な依頼に手を出してしまったかもしれない。
「受注者数問わず?」
依頼書に記載された一文が気にかかったのか、ミユゥがそれを読み上げた。
「そう。依頼の規模が大きかったり、依頼者が要望を出せば、複数の組が同じ依頼を受けられる」
ソノトフ中心部から目的の場所までの道すがら、今回のような依頼の事例についてミユゥに説明する。
「普通は一つの依頼が受注されたら、その集団が依頼を達成するか失敗、辞退するまで掲示はされない。『こっちが先に倒した』とか『あっちが邪魔をした』とか、揉め事になるからね」
魔物を倒しに行ったのに、その獲物を取り合って人間同士で争っては本末転倒である。
「じゃあ今回の報酬はどうなるの?」
「達成した組……標的を倒した組の総取りかな。全員に分配しちゃうと分け前がほとんど残らないからね」
するとミユゥは自信ありげに笑みを浮かべた。
「じゃあ、競争だね」
そうかもしれないけど……。ま、いいか。彼女の実力なら、競い合いにかまけて戦いに精彩を欠くようなことは無かろうし。
「そういうこった。手加減はしねえぞ、嬢ちゃんがた」
威勢のいい声がしたほうを見ると、先に着いていたらしい二人の冒険者が小舟の準備をしていた。今回の依頼場所はソノトフ北方、山からの雪解け水が溜まって形成された大きな池である。名をブニン池といったか。
「こんにちは。ここの漁場の船を使っていいんですよね」
「ああ、依頼人はここいらの漁師だからな」
縄を繰りながら、熟練らしい褐色の冒険者は白い歯を見せる。
池の外縁に建てられた桟橋には、普段は漁師さんたちが使っているであろう何艘もの舟と、仕掛けに使う網などが並んでいた。漁場もこれだけの広さだと、池というより湖のような規模だ。
しかしながら、浜に上げられた舟のいくつかには部品の欠けたものがあった。中には、もう航行が不可能なほどに破損しているものもある。
「ひどいもんだろう。魔物に壊されたんだと。漁師たちも全員避難してる」
もう一人の男性が苦笑して言った。
「これは確かに、『受注者数問わず』だね」
「……うん。生活が脅かされたんじゃ、たまらない」
ミユゥの声音は少し暗かった。思うところがあるようだ。
「さて、俺たちも準備しようか」
池の中に潜む魔物というのだから、舟を出して探しておびき出す必要があるだろう。先行組の隣の小舟に足をかけたところで、
「おいおいおいおい、二組もいんのかよ! やりにくくなんじゃねえか!」
嫌悪感を隠さない大声が耳を突いた。やたら刺々しい揃いの装備を着込んだ男が三人、大股で桟橋を歩いてくる。
「こんにちは、あなたたちも……」
「邪魔だけはすんなよ? お前たちにゃどうせ獲れねえんだからよ」
顎を突き出して睨まれる。挨拶が遮られてしまった。どかどかと向こうの舟に乗り込む彼らからミユゥに視線を移すと、瞼に半ば隠れた眼がわかりやすく軽蔑を示していた。年長者の二人組は、「ま、お互い頑張ろうな」と呆れたふうに笑って舟を漕ぎ出した。
おっしゃる通り。何につけても頑張って成果を上げればよろしい。
くたびれてきた。
舟というのは乗っているだけで意外に体力を使う。海と違って波はないが、揺れないわけではない。疲労からか頭の芯がぐらついてきた気がする。
三艘の舟は、それぞれにぐるぐると回って標的を探している。トゲトゲ三人衆(と勝手に命名した)は置いておくとして、水場に慣れているらしいヨンドさんとグタラさんの二人も苦戦しているようだ。
ミユゥが水面を覗いていた体を戻し、ふ、と一つ息を吐いた。そして、
「仕方ない。潜って探す」
そう言うと皮鎧を外して、上半身の服も一枚脱いだ。迷いのない動作に俺はつい目を逸らす。肌着の上にさらに一枚、肩回りから先の袖の無い衣類を着ているようだったが、それでも見てはいけないもののような気がした。
「見、つけたらどうするの」
「なるべく上に追い立てる。逃げるなら槍で刺す」
銛よろしく突くとでもいうのだろうか。ミユゥならやれそうな気はするが、
「ああ、ちょっと待って」
俺は荷物から小瓶を手渡した。
「これは?」
「魔法で作った薬だよ。『空気薬』と呼ばれるものだ」
依頼内容から、水に入ることもあるかと思って持ってきておいた。
「これを飲めば、体の中で空気が作られる。呼吸をしに水面に上がって来なくてもよくなるんだ。あ、吸わなくてよくなるってだけだから、吐くようにはしてね」
「便利だね、ありがとう」
ミユゥはひと息に瓶をあおると、苦い、と呟いて足から潜水していった。それは申し訳ない。
しぶきの跡を覗き見る。春先の雪解け水はまだ冷たかろうが、ものともせずにミユゥは深く潜っていく。太陽光と水質のなせる業か、底へ行くほど深い蒼色になる不思議な池の色が彼女の身体に乱反射して、見惚れるのと同時にその青の黒さに不安を覚えた。澄んでいるとはいえさすがに水底は暗い。蘇生魔法への不安を依然抱える俺の胸中に、なるべく早く戻って来てほしいという思いが募る。
「……ん?」
岩影だと思っていたものが、のそりと動いた気がした。ミユゥが潜ったのとは離れた位置だ。見間違いかと目を凝らす。先は丸く後ろは細く、まるで一匹の魚のような。それが、
「上がってくる……!」
勢いは止まらず、影はみるみる大きくなって水面を破った。
ちょうど三艘の舟から等しい距離にそれは跳び上がる。背は鮮やかな青色、腹は場違いな赤。ずんぐりと横に広がる口は鯰を思わせる。飛んだと錯覚するほど高く高く舞った魔物は、首を回して俺たちを見た後、池へと落ちて潜っていった。
「でかい! 人間ぐらいあるぞ!」
「こいつがそうか!」
向こうで二人が叫ぶ。俺は水面下のミユゥに、こっちへ来るよう手招きした。
彼女も気づいていたようで、すぐに泳いできて顔を出した。
「底を槍で突いたら出てきた。振動に反応したんだ」
「やっぱり隠れてたね。どうやって倒そうか?」
「まずは出方を窺う」
手を掴んでミユゥを船上に引き上げる。その間に怪魚は他の舟へ狙いを定めていた。
「おい、こっち来るぜ!」
トゲトゲ三人衆である。魔物は目から上を水面に出して、その背で池を割るようにして彼らに近づいていく。
「来いよ! ぶっ刺してやん、よ……」
剣を構えた彼らが迎え撃とうとしたその時だった。
舟に体当たりするかに思えた魔物は再び高く跳び上がり、勢い良く何かを吐き出した。人の顔ほどの大きさの火球が 、彼らの舟の横腹に着弾する。
「あっつぁ⁉」
「燃え、燃えてんぞ!」
「消せ消せ!」
慌てふためく三人衆の下をすり抜け、またも魚は飛び跳ねる。今度は二人の舟に向け、大きな口が開かれた。
「あっ……ぶねえ!」
立ち上がっていたグタラさんは身をよじって火を避けた。彼の背後の水面に、蒸発した音が立つ。
「あの見た目で火ぃ吹くのかよ!」
もっともな指摘である。あんな骨の髄から魚ですよみたいな顔をしておいて、こちらが冒険者と見るや遠隔攻撃とは。魔物はしばしば不可解な生態を持つが、火を吐く魚となれば、
「あれはたぶん『フーバル』ですね。水中から飛び出して炎魔法を使ってきます」
「厄介だな。こっちは近づけねえぞ」
壮年の二人は素早く舟を俺たちに近づけた。
「的は絞らせたほうがいい。分散してると届く攻撃も届かん」
「おおい、あんたら! なるべく固まれ! 離れてると狙われるぞ!」
グタラさんが呼びかける。しかし、
「はぁ? そう言って俺らの横取りしようってんだろ!」
三人衆は聞く耳を持たなかった。フーバルは彼らの一人の髪に火を吐きかけ、慌てた後の二人がその頭を池に突っ込ませた。大騒ぎだ。
怪魚は池を周回するように泳いで、俺たちへ平等に攻撃を仕掛けてくる腹づもりのようだった。青い背が水面から出て、距離を縮めてくる。次なる跳躍と火球が飛び出す前に、ヨンドさんが手を突き出し、呪文を編み上げた。
「〈コーティス・プルヴィア〉!」
彼の掌の先の虚空から、筒状の水流が勢いよく放出され始める。水流は弧を描き、フーバルの手前の水面に落ちた。だが意にも介していない。魔物を怯ませるには至らなかったが、
「そ、らよ!」
炎魔法が迫る。それに合わせてヨンドさんは腕を大きく振って水流の軌道を変え、敵の攻撃を打ち消した。巧い。
「あの人、魔法を……」
ミユゥが呟く。舟のすぐ手前で打ち消し合った火と水が、ぬるい霧雨となって俺たちに降り注ぐ。
「昔知り合った魔法使いに聞いた呪文だ。この一つしか知らんが、まさかここで役立つとは!」
口ぶりからして、彼自身は魔法使いではないらしい。手庇で雨を除けながらミユゥが俺に訊いてきた。
「魔法使いじゃなくても、魔法が使えるの?」
「ああ。呪文を発音すれば誰にでも。魔法はある意味では、平等な知識であり道具だよ」
古代の人類が火を手に取り、今では誰もがその扱いを心得ているように。魔法も等しく文明であるはずだが、それがあまり『開かれていない』というだけの話なのである。
「だが、どうする? 奴さんの火の玉も軌道は単純だし、凌ぐことはできるが……」
「あんなに離れて撃たれちゃ、剣も槍も届かねえな」
グタラさんが弓を射かける。それを見てか、フーバルは右に左に泳いで矢を躱した。魚型なだけあって速い。
背びれが水面に煌めき、魔物が来襲する。俺も負けじと杖を出し、甲板に立ちあがる。
「〈サジタ・グラシズ・デセム〉ッ!」
十の氷弾が斉射される。数で攻撃の『面』を広げた作戦だったが、魔物が潜水したことであっけなく潰えた。氷たちは虚しく水面を叩く。
深く沈みこんだ勢いを殺さず、フーバルはまた空中に躍り出た。それを狙ってまた単発で氷魔法を撃つも、着弾より前に水中に落ちて逃げられてしまう。
「兄ちゃん、魔法使いか!」
グタラさんが声を上げる。行使した規模を見たからか、俺が魔法使いだと察しての驚きの色が含まれていたが、今はただ歯噛みする。
「呪文を唱える間に潜られる! そんなわけで特にお役に立てないのでよろしくお願いします!」
「えぇ⁉ いやに後ろ向きだな! 諦めんなよっ!」
そう言われても、この水上という足場の悪さも、距離を取って攻撃するという敵の作戦も、絶妙ないやらしさで噛み合って付け入る隙がない。
落ち着け。冷静に案を練ろう。
まずその一。池の水を丸ごと凍らせる。可能だが魚たちも死なせてしまう。では水面だけならどうか。駄目だな、閉じ込めたところで何になる。潜られてしまっては手が届かない。水中戦では勝ち目はないし。
その二。凍らせた水面に穴を空けておいて、飛び出してくるところを待ち構える。……これも無理か。氷上釣りならともかく、相手は魔物である。警戒して寄ってこないだろう。
「頑張れ! 頑張れ!」
その三。水面に雷魔法の網を張っておく。これも駄目だ、近づけば気づかれる。雷は水の表面を伝って拡散してしまうから、池の奥へも届かせられない。
「できるぞ、ほら!」
……その四。ええと、ああ、なんだろう、その、
「やれるって、いける!」
「──あの! いま考えてるので、ちょっと!」
さすがに気になってきたので制した。おじさん二人は両手で口を塞ぐ。悪気のない応援だったっぽいのがなおさら困る。
俺は眉根を揉んだ。
「雷魔法さえ届けば……」
敵は本当に絶妙な距離を保って魔法を放ってくる。水面から飛び出し、炎魔法を放ち、再び潜っていく概算二秒ほどの間に攻撃を当てなければならない。到達速度を考えれば雷に掛けるしかないが……。
「氷みたいに遠くに飛ばせないの?」
「雷は速いけど、命中させるのが難しいんだ。空気中に留まることができないから、近くの物に向かって飛んでいってしまう。特にここみたいな水場だと、水面に流れて広がっちゃうんだよ……」
そして俺たちは揃って黙り込んだ。
向こうでトゲトゲたちの悲鳴が上がっている。今度は櫂に火が付いたらしい。
先に口を開いたのはミユゥだった。
「リキナ」
「なんだい」
「呪文さえわかれば、私にも魔法が使えるんだよね」
「そうとも」
「さっきの水の魔法を使えば──」
「ああ、届かせられる。そっちは俺が引き受けるよ、魔力量があるほうがいい。ミユゥには『釣り針』のほうを頼みたい」
頭に浮かんだ作戦は同じだったらしい。余分なやり取りもなく、俺たちは役割を決め終える。彼女に一つの呪文を耳打ちすると、反芻するように深く頷いた。
「お、なんか思いついたのか?」
やり取りを見ていたグタラさんが問うてくる。
「上手くやれば釣り上げられます」
「そりゃいい。見学するとしよう」
二人は悠々と舟に腰を下ろした。手を出さないでいてくれるのはありがたい。なにせこの釣りは、どこに『竿』を放るかの繊細な制御が必要になってくるのだ。
「来る」
ミユゥが報せる。
フーバルは水面に顔を出し、俺たちの舟に狙いを定めて一直線に泳いでくる。ここが正念場と不安定な甲板で踏ん張って、俺は杖を魔物に向けた。
「〈コーティス・プルヴィア〉」
先ほどヨンドさんが使った魔法。水の魔法と勘違いされることも多いが、魔法言語においては雨を意味する呪文に属するものである。吹き出した太い一束の雨の帯は、池の上に橋を描いて落ちる。橋の終着点は、魔物の進行方向だ。
フーバルは避ける素振りもせず向かってくる。思った通りだ。水の中を泳ぐあれは、水流を当てようが少しも気に留めることはない。
その油断こそが俺たちの狙いだった。俺は間断なく水を出し続け、横ではミユゥの深呼吸が続いている。
そして怪魚は一層高く跳び上がる。俺は杖を持ち上げて、雨魔法の軌道をそれに合わせた。俺たちの頭よりずっと高く、火の玉をこちらに降り注がせてやろうと狙いを定めるために。
だが。狙っていたのはこちらが先だ。
「今!」
合図を叫ぶ。息を溜めていたミユゥが呪文を吐き出す。雷の単級魔法。手元から小さな電撃を放つ、地味ながら威力の高い必勝の一節。
「〈トニトルム〉!」
彼女の指は、俺の放つ水流の根元に向けられていた。青い光が瞬いたと思うと、それは水の束に纏わりついた。螺旋を描くように周囲を伝って、水の進行方向、今まさに怪魚が火を吐かんとする空中の一点へ雷は奔ってゆく。
魔法を使いこなす者は、自然現象を理解することが必要不可欠だ。雷は水の上を通っていく。そして、近くの物体へ飛んでいく!
水の釣り竿から飛び出した針が、怪魚の腹に突き刺さった。痙攣するように身をくねらせたフーバルは、不格好に横腹から着水した。
「よしっ!」
水流を解除した杖を高く突き上げる。しかし、魔物のヒレはまだ動こうとしていた。
「いや、まだ生きて……!」
軽率にも喜びの声を上げる俺をヨンドさんが諫めようとしたその瞬間、舟が右に激しく傾いた。転がりそうになって尻もちをついたその先では、右肩の後ろに槍を大きく振りかぶったミユゥがいた。
露わになった肩と腕の筋肉が蠢動する。疾駆する肉食獣のようなたくましさとしなやかさ。ボッ、と空気を叩いたような衝撃音を残して槍が投擲され、水面に浮かぶ怪魚の胴を貫いた。今度こそ痙攣すら残さず魔物が絶命する。
ふう、と手を払いながらミユゥが何気なさそうに呟いた。
「動いてないなら当てやすいね」
「…………」
そんなことは、ないと思う。
「あぁらら、あいつらの舟、ひでえ有様だな」
使い終えた舟に覆いを被せながらグタラさんが苦笑する。視線の先には、トゲトゲ三人衆が使っていた焦げ跡だらけの小舟があった。なるほど、陸に揚げてあった壊れた舟たちはああしてできたのか。消火しやすい環境だったのが幸いである。本人たちもボロボロのようだったが、俺たちを見ると「ケッ」と元気に唾を吐いて池から去っていってしまった。
「嫌われちゃいましたね……」
「兄ちゃんたちの腕の良さをひがんでんのさ。実際すごかったぜ!」
浜辺では焚火でミユゥが体を温めていて、その火にかけた鍋でヨンドさんが具材を煮ていた。「せっかく魚なんだから食ってみようや。分けてくれたら調理はするからよ」という二人の提案を受けさせていただいたのである。そう言われると俄然味が気になってくる。やはり淡水魚に近い味なのだろうか。いやいや、あれだけ泳ぎ続ける
体力があるなら大型の海の魚に似ているかもしれないぞ。
「お二人はずっとソノトフで冒険者をしてるんですね」
「旅をするのもいいが、歩き慣れた土地で仕事をするのもやりやすいからな。何度も依頼を受けると地元の人間とも顔見知りになるし、この辺りは飯も美味い」
ミユゥたちは火を囲んでそんな話をしていた。打ち解けられたのだろうか。俺たちが戻ってきたのを見ると、ヨンドさんはフーバル鍋を木皿によそって配ってくれた。
日が傾いて、気温も下がってきている。ずっと水の上にいた体には温かい汁物がありがたかった。
鮮やかな体表とは打って変わって、白身の肉質である。味付けの他に臭み取りにも岩塩を贅沢に使っていたようで、一緒に煮てある山菜と茸の優しい香りがする。口に含んで噛むと、歯の間でほどけるように崩れた。
「美味しい……!」
つい声が漏れる。疲れて空腹になっているのを差し引いてもこれは最高だ。ミユゥも小さく頷きながら、半ば皿に顔を埋めるようにして熱心に啜っている。
「キモもいい。どんだけここの魚を食って栄養にしやがったんだか」
「そのおかげで美味い魔物になってくれたんだ。悪いことばかりじゃないな」
「まったくだ! こいつは酒を開けるしかないな!」
グタラさんたちは豪快に笑って、どこからか酒瓶を取り出した。この人たち、初めから酒のあてにつもりでこの依頼を受けたんじゃなかろうか。
お酒はソノトフ名産のぶどう酒だった。これも有難くご相伴に預かりつつ、若い頃から組んで冒険者をやって来たらしい二人のお話を聞いたりする。
「魔物も食ってみりゃ美味いのはいるしな。時々市場にも出回ってるが、『俺たちのほうが先に味を知ってるんだぜ!』って得意になるもんさ」
「冒険者の特権ってやつだな」
「とりあえず口に入れてみる時ってありますよね。ポロムは流石にやめておけばよかった味でしたが」
「……え。リキナ、ポロム食べたことあるの?」
「え。気にならない? なんか甘そうだなって……」
「いや……」
「べちゃべちゃしそうじゃないか?」
「はっは! 兄ちゃん、冒険家、いや冒険者だなあ!」
いまいち賛同が得られなかったりしつつも、こうして日は沈んでいく。依頼は無事達成、満足のいく一日だった。
はずなのだが。
「その依頼は、先ほど報酬をお渡ししてますね……」
「……はい?」
組合の窓口でそう告げられて、しばらく目が点になった。
依頼を終えた冒険者は、組合の受付で手続きをし、その日のうちに報酬金を受け取ることができるようになっている。
はずなのである。俺はもう一度聞き返した。
「手違いではないですか? ブニン池での魔物討伐の依頼なんですが……」
受付の薄幸そうな女性は手元の書類に目を走らせながら、不安げに言う。
「ええ、と、ですね……。確かにこちらのご依頼、先ほど確認の手続きが取られているようでして────あっ!」
こちらも不安になってくるような悲痛な声が上がった。それでも他に手段がないので、顔の血の気が引いていくお姉さんに問うてみる。
「あの……どうかしましたか?」
「もっ、もしかしてこちらの『受注者数問わず』のご依頼ですか……?」
震える手で書面がこちらに向けられる。俺とミユゥが覗き込むと、間違いなく同じ依頼書の写しだった。二人で頷く。
すると彼女はもう一段階青ざめた。卒倒するんじゃないかと心配になる。
「もうっ……申し訳ございません! 受注者名に間違いはないと思って、別の方々に報酬を渡してしまいました……!」
「え、えぇっ……?」
そうなるともう戸惑うしかなかった。いったいどうしてそんな。
「どうした、兄ちゃんら」
一緒に町まで戻ってきていたグタラさんとヨンドさんが騒ぎを聞きつけて寄ってきた。
「フーバル討伐の報酬を別の人たちに渡してしまったらしくて……」
俺が説明すると、二人の表情が曇る。
「ああ、そりゃまさか……」
「やられたな」
ミユゥもはっとしたような動きをして、しかしあくまで冷静に窓口に問いかける。
「あの。その人たちって、どんな格好をしてましたか」
ほとんど泣き出しそうな声で女性は答える。
「装備に、棘の装飾が付いた三人組です……」
とっ、トゲトゲ三人衆! 俺の脳裏に柄の悪い三人組が駆け抜けていった。
依頼に失敗した腹いせに、報酬を掠め取ろうとは。こすい。こすすぎる。見た目を裏切らなすぎる振る舞いに、俺にはもう力の抜けた失笑しかできなかった。
「あ~……悪いな。俺たちが引き留めたりしたから……」
グタラさんたちはばつが悪そうにしていた。おそらく、池のほとりで俺たちがフーバル鍋に舌鼓を打っている間に三人衆は虚偽の達成報告をして、報酬を受け取ったのだろう。受注者数に制限のない依頼の弊害である。それでも、
「いえそんな、横取りする人たちが悪いんですから」
二人が罪悪感を抱くのはすじが違う。また一方で、受付の女性も平謝りの様子だった。
「本当に、本当に申し訳ありません! 調査が追いつき次第、必ずまた正式な手続きをいたしますので……!」
その謝罪は、これ以上この場ではどうしようもない、という意味でもあった。当然あたりに三人衆の姿はない。犯人たちとともに、銀貨53枚は行方をくらませてしまった。
夜も深まり、酒場はすっかり盛況の趣だが、窓際の一席はひどく陰気だった。
それもそのはずで、目の据わったとある冒険者が味も分からないような勢いで杯を干しているからである。だがわかってほしい。最もいたたまれないのはその射殺さんばかりの視線を一身に浴びている俺なのだという事を。
「ミユゥ~……。あんまり飲むと体に悪いよ~?」
機嫌を損ねないように柔らかい口調で言ってみたが、意味をなさなかったようである。こん、と音を立てて容器を卓に置いて、むすっとした顔で見られる。
「悪くない。のみたくて飲んでるから、いい。ちゃんとあじわってるし」
まったく道理が通っていない。でも味はわかっているようでなにより。いやそうじゃなくて。
たぶん七杯目くらいだったと思うが、顔は赤いもののミユゥの体幹はほとんどぶれていない。なぜか背筋をまっすぐ伸ばして、恨めしそうに目を細めた。
「わるいのはあいつらでしょ。うそついてまで報酬盗むとか」
「そうだねぇ」
「どうしてそんなことがまかりとおるの」
彼女らしくない表現を聞くに、ちゃんと酔ってはいるらしい。この状態でどう説明したものか。
「ミユゥ、どうして冒険者の自己申告でも報酬が支払われるかは知ってる?」
「組合がちゃんと調査してるからでしょ」
ばかにしてるの? と目が訊いてくる。滅相もない、と笑顔で答える。
「そうだね。本来、依頼が完遂されたかどうかはその日の内にはわからない。組合の担当者が現地に行って、魔物がちゃんと倒されてるかどうかを調べるのにも時間がかかる。でも、冒険者はその日暮らしの人が多いからね。そんなの待ってられない、となるわけだ」
いつも以上に眠たげな半目でも、ミユゥは俺の講釈を聞いてくれていた。安心して続ける。
「だから、組合は正確な調査と、違反者への厳しい罰則を設ける代わりに、冒険者にも迅速な報酬の支払いを約束してるんだ。双方の信頼関係で成り立つ契約だね」
この罰則というのがかなり強烈で、たった一度の虚偽申告が認められた場合には即、冒険者登録を抹消されるのだそうだ。しかし確かに、そこまでしなければ嘘をついて報酬を掠め取る手口が横行してしまう。
いつの間にか大瓶から八杯目を注いでいて、一息に飲み干したミユゥは机に突っ伏した。
「くみあいの登録のときにきいたよ……」
そのゆるみきった様子と、戦いの時の鋭利さとの差になぜだか微笑ましさを感じた。歯を見せて笑ってみせる。
「そういうことだからまあ、調査結果を待てばいいさ。組合の調査部は恐ろしく細かくて正確だって噂で聞くし、きっと俺たちの仕事だって証明してくれるよ」
「うん…………」
額を机に付けたまましばらく動かないミユゥ。寝たのかな?
「でも、わるいものはわるい!」
がばりと起き上がる。おでこに木目の跡がついている。二つの杯にこぼれんばかりに勢いよくぶどう酒を注ぐと、一つを俺の前に突き出した。
「つきあって」
「はいはい」
悔しいと思う気持ちはわかる。一人だけ酔わせてしまうのも悪いし、今日はそういう日だと思って気の済むまでご要望を聞くとしよう。
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