第3話
「運転手?あれで?」
言ってから、しまった、と口を覆ったが遅かった。おばさんはクスクスと笑ってうなずく。
「十数年前しごとを辞めて、すっかり当時の面影はなくなってしまったけれど、きちんとした、感じのいい兄でした」
「どうして辞めちゃったんです」
「うん、まあ色々あって」
おばさんは言いよどむ。
「こどもにはわからないことですか」
「こどもにも、大人にも、本人にもわからないことかもしれないわね」
ちょっと座りましょう、とおばさんはベンチに腰掛ける。ぼくのコーギーは不服そうに仕方なくベンチの脇にうずくまる。
「兄には婚約者がいたの。とっても素敵なひと。長い付き合いだった。結婚式が翌月に迫ったある日、彼女はいなくなった。出張で東京へ出たきり、戻らなかったの。特に事件性がないということで行方不明者として扱われた。以来兄は彼女をずっと探しているの。ずっとね」
犬の散歩の合間に聞くには劇的な話だった。
「最後に見た彼女、ともみさんは、兄の運転する電車でここから出て新幹線に乗ったの。戻る予定時刻の電車を以前は駅で待っていた。けれど今はその電車に乗ってそのまま次の日の朝まで帰ってこないこともあるの。一体何をしているのか」
「何をしているんでしょうねえ」
それはぼくも聞きたい。
「あのリュックサック、大きいでしょう。兄は登山が趣味だったの。ともみさんともしょっちゅう出かけていてね。ともみさん、出張先の空き時間で山に行ったらしいのよ。それで以前は関東の山へ捜索に行くこともあった。今はでも、その気力はないと思うわ。もう年よ。習慣にしたことを惰性ですることでさえ大変。それに『世間』も兄の老いを加速させた気がする。以前は色々に言う人もいたの。そもそも彼女は結婚が嫌になって、姿をくらませたんじゃないか、とっくに海外に出て、暮らしているんじゃないか、とね。でもむしろその方が兄は嬉しいかもしれない。自分からいなくなったなら今もどこかで元気にしているかもしれないから」
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