月が綺麗ですね

K.night

第1話 月が綺麗ですね

「月に帰りたい。」

 そう彼女は月を見ていった。月の光そのままのような無表情で。出会った時から彼女はここにいることにひどく困惑があった。どこかに行きたい、ここじゃないどこかに、と。そのくせ私のところに必ず帰ってくるのだ。どこにも行かず、私の前であえてどこかに行こうとする彼女は、父親の気を引くためにひどいことをいう幼女のような、ひどく甘酸っぱいものだった。

「月見酒。」

 グラスの中で光る月をみて、彼女は笑う。秋の夜風に柔らかくなびく黒髪は、確かに、輝夜姫が存在するならこのような美しさかもしれないと思えるほどだった。私の部屋に訪れた彼女が、お酒をベランダで飲みたいと言ったのはつい先ほどのこと。まだグラスは空いていない。

「ねぇ、どちらが本物だと思う?あの空に浮いてる月と、このグラスに映っている月。」

「どうして? 少なくともグラスに映っている月は本物じゃないよね?」

「答えはどちらも嘘。だって、どちらも触れられないもの。掴めない。光だけだもの。それって全部嘘ってことじゃない。」

「難しいことをいうね。」

「その顔。」

「ん?」

「私のこと、きれいだなって思っている顔。好きだなって思っている顔。」

「だって、好きだもの。」

 私は鼻の先を少し掻いた。下半身からむずがゆくなるような恥ずかしさはあるものの、本心だ。月に照らされた彼女の白い肌、大きく美しい黒い目、赤く小さな唇、絹のように光を柔らかく反射する黒い髪。彼女が自分の彼女でいてくれることが誇らしい。愛しいその形の良い唇が美しい弧を描いたまま彼女は言った。

「なのに、浮気できるんだ。」

 危うく自分のグラスを落としそうになった。動揺が悟られただろうか。彼女の目は揺らがない。

「いや、私の方が後だから、今、この瞬間が浮気かしら。」

「何を言ってるんだ。」

「嘘。やめてね。そんなことはないなんて言うのは。どちらも嘘なら、隠す意味なんてどこにもないんだから。」

「君を失いたくない。」

「本心なのに、嘘。だって、失いたくないなら、どうして失わない行動をしないの?」

「すまない。」

「でも、私も嘘。どこかに行きたいのに、いけないの。離れたいのに、まるで貴方を連れていきたがっているみたい。」

「とにかく中に入ろう。夜風が冷たくなってきた。ちゃんと話すから。」

 私は窓に手をかける。何としてでも説得しなければ。強く惹かれているのは彼女なのだから。必死に思考を巡らせている私の後ろから、声が聞こえた。

「ねえ、嘘が本当、本当が嘘。全部逆さになるのなら、貴方が好きなほど、離れることが本当で、上に行きたいなら下に行くのが本当なのかしら。」

「何を言って…。」

 そこからはスローモーションだった。美しい笑顔のまま、彼女はゆっくり後ろに落ちていき、持っていたグラスが月を反射しながら反対になり、水滴が玉から飛沫になる様まではっきり見えた。


ドサッ。


 人が落ちる音とはこういう音か。誰かの悲鳴が聞こえる。下は見なかった。ぐちゃぐちゃの彼女なんて見たくない。ここは、バベルの塔のように高い。私は捕まったりするのだろうか。やだなぁ。

 君、そんなに思い詰めてても、私のことを愛してもいなかっただろう? そうだろう? 


ああ、月が綺麗ですね。

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月が綺麗ですね K.night @hayashi-satoru

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