【冷たい家の主】




 まさかこんなに喜んでくれるとは。と璃子は目を白黒しながら隣で歓声をあげる部長の姿を見遣る。

 自分の高校を応援しているというよりは、展開に一喜一憂しているらしく、チーム関係なく点数が入る度にそのうちひっくり返ってしまうのではと思えてくるぐらい前のめりになって喜ぶ。

やがて、試合終了とともに興奮も落ち着いたらしく、部長は頬を微かに赤らめながら観客席に座り直した。

「スポーツ中継に映ってる応援してる人達の気持ちが初めて分かった。次はどこの試合だっけ」

「次はうちの学校の決勝ですね」

「ふーん。じゃあ、ちょっとジュースでも買ってこよっと。璃子ちゃん、なにか飲みたいのある?」

「あ、なら私が買いに」

「ダメ。璃子ちゃんは私の席を守ってて」

 優しく肩を押されたことで、立ち上がろうとした璃子の体は簡素なプラスチックの椅子へと逆戻りした。

 その間に部長は踵を返し、長い髪を一纏めにしている簪に飾られた橙色の蜻蛉玉を揺らしながら、会場外のホールに設置してある自動販売機へと向かっていく。

 エスコートをする相手なのに気を遣わせてしまったと溜息を吐いた璃子は、先ほど時間の確認をしたまま持ちっぱなしになっていたスマホをぼんやりと眺める。

 それを見計らったかのように、唐突にスマホが震えた。ぱっと目覚めた液晶画面が表示した通知は、この前敵前逃亡して返信していない相手から。

 折角の楽しい気分が、何気ない近況報告によって一瞬にして灰色になってしまった璃子はすぐさまにスマホをバッグの中に放り込み、見なかったことにした。

 最悪。と、誰に向けたのか分からない悪態を吐いた璃子は、視界の端にチョコレート色が見えたことで慌てて歪んでいた口元を無理矢理直す。しかし、その取り繕った表情を向けた先には、部長はいなかった。

 観客席の中でも端の方に座っている璃子の隣にある階段。それを登ろうとしていた人物は、璃子が一瞬部長と勘違いするぐらいに瞳と髪の色がそっくりだった。だが、服装に年齢、何より性別さえ違う。なので、人違いだとすぐ理解した璃子は視界から彼を外そうとした。……しかし。

「もしかして、璃子ちゃん?」

えっ。と、璃子の口から呆けた声が零れ落ちる。その間にも、部長とそっくりな彼は璃子の顔をじっと見つめてくる。

 まさか話しかけられると思ってもみなかった璃子が戸惑っていると、相手も焦りながら目を泳がせた。

「あっ私は、その、君が所属しているクラブの部長の、父親だ。怪しい人ではないから……あー、名刺が確か入れっぱなしだったはず……」

 なるほど。と部長とそっくりな理由を察した璃子は、こういう者ですと差し出された名刺を頂戴いたしますと生齧りのマナーで受け取った。

横書きのそれには連絡先と、部活関係の書類の署名の際に部長が筆記体で記しているファーストネームと同じ名前が記載されている。

「えっと、どうして此処に、部長のお父さんが……?」

璃子の疑問に、名刺入れを片付けようとした彼の手がピタリと止まった。百貨店で必ず見かけるロゴマークが刻印されている金属製の名刺入れは、空中で止まったまま淡く光を反射しており、シンプルなデザインながらも高級感を漂わせている。

「それは──」

「ちょっと‼」

 鋭く差込まれた声が聞こえた直後、璃子達の間に割り込むようにして部長が戻って来る。その手には、スポーツドリンクのペットボトルが二本と……。

「こうなるだろうと思ったよ」

 これまた部長にそっくりな小学生ぐらいの少年と手を繋いでいた。




「ほんと信じられねぇ。なんでいるの。さいっっあく」

「取引先の人のお子さんが、大会に出場しているから、会議が終わった後見に行かないかって誘われたんだよ……」

「違うね。計画的犯行ってやつだよ。この前、デートの予定決めで長電話してるの立ち聞きしてたからどこ行くかは大体知ってたから、もしかしたらすれ違うかもって考えて見に行くの決めたんだろ。俺バスケのルールなんて知らねぇのに、やけに一緒に見に行かないかってしつこく誘ってくるから、んなこったろうと思ったよ」

「きっしょ! ほんとサイッテー‼ そんなんだからバツ二になるしお姉ちゃん勝手に一人暮らし決めちまったんだよヘタレ! 甲斐性なし! さっき初めて会った子をいきなり璃子ちゃん呼びするなアラフォー‼」

「いやまだバツ一」

「バツにまだもへったくれもねぇよ!」

 自分が通う高校が無事優勝したのを見届けたところで、もう夕方になるから送っていくよ、という部長の父親の誘いに甘えたはいいが、英国製の車の中で繰り広げられる舌戦に、璃子の視線は前と隣へと行ったり来たりする。

 粗野な口調で言葉の矢を運転席へと放つ隣の部長を見遣り、少年が平坦な声色で口論の燃料投下をしたことで目の前にある助手席へ視線を変え、そして二人から集中砲火を受ける度に背負っている暗いオーラが濃くなっていく運転席の彼という順番で様子を窺いながら、璃子は初めて乗る外国車の座席の座り心地の良さに戦々恐々としていた。

「あの、部長、落ち着いて下さい」

「えっ? いつもこうじゃない」

 わざわざ振り返って問いかけてくる少年に、璃子もえっ? と声を零した。

すると、部長が焦った声で遮ろうとするのも気にせず、やはり平坦な声で彼は納得いったとばかりにあぁと呟く。

「そういうキャラ? 頼りになる先輩キャラ壊してごめんね」

「ちょっと、バカ、そんなんじゃ」

「えぇっ! ちゃんと部長しているのか⁉ てっきり、璃子ちゃんに迷惑をかけているのかとばかり」

「父さん‼」

 頬を赤くしながら、これ以上なにも言わないでくれと念を込めて前方の二人を睨みつける部長。しかし、それも聞かない少年はさらに言葉を続けた。

「姉ちゃん、家じゃヤンキーなのに」

「や、ヤンキー?」

「母さんのご飯食べようとしないし、家帰って来るの深夜だし、不良まっしぐらだよ。あぁ、近所の同級生の人によると学校ではちゃんと優等生してるらしいじゃん。ヘタレの父さんがとうとうキレて叱ったら、ビビッて一週間に三日ぐらいはちゃんと八時までには帰ってくるようになるし。反抗しようとして出来てないのウケるからやめてほしいんだけど」

「てっきり、璃子ちゃんに全部押しつけているのかと思ってたから、感動してしまったよ……。妹だからって甘えてばかりだったのに、成長したんだな!」

 仕返しとばかりに集中砲火の矛先を向けられ、もういや……とか細い声を絞り出した部長は手で顔を覆う。その肌は外の夕焼けのように真っ赤になっていた。

「部長、無理してたんですか?」

「そんなわけじゃ、ないけど、……けど、お姉ちゃんが」

「お姉さん? 私と入れ違いで卒業したんでしたっけ」

「姉ちゃんシスコンだから、姉さんの代で部員いなくなっちゃう文芸部の廃部回避したら姉さん喜んでくれると思ったんじゃない? 姉さん割と淡白だから卒業した学校のことなんてどうなっても気にしないだろうけどね」

「そんなことないよ、あの子は優しい子だから」

「父さんだから皆に鈍感だって言われてバツつけられるんだよ」

「そんな理由でバツついてないよ」

「ウソ」

 顔を覆ったまま、ぽつりと呟かれた部長の言葉に、車内がしんと静まり返る。それを嫌がるかのように、部長はもう一度ウソだと呟いた。

「なにが、嘘?」

 問いかけてくる父親の優しい声色に肩を震わせるものの、俯いたまま彼女は言葉を紡いだ。

「母さんがなんでいなくなったのか、なにも知らないじゃん、ママだって散々泣かせてたじゃん。なにも知らなかったから、鈍感だったからこうなったんじゃん」

「……違うよ。知って、ちゃんと話し合った結果だ」

「ウソ。父さんが、お母さんのことがまだ好きだから、こんなぐちゃぐちゃな家族になった」

「それこそ違う。私は君のママのことを好きだし、信頼しているし、何より愛しているよ」

 はっと息を飲んだ璃子は、運転席の彼の横顔を見つめる。

 その表情は、既読をつけただけの写真の中で笑い合う人達と何故だか重なった。

「君こそ、もう少し素直になるべきだね」

「素直? 誰に」

「母親に対してに決まっているじゃないか。今日の夕飯は、君の好きな物だって。いい加減、一緒に食べよう? 甘い味付けの料理なんて、もうずっと前にやめたよ。彼女自身も、本当は甘いのは好きなわけじゃないってさ」

「じゃあ、なんであんなずっと甘いものばっか……」

「家族に馴染もうと必死だったんだよ。子ども達が喜んでくれたから、それが好物なんだと思ってたんだって」

「……バカみたい。みんな気遣い屋の、勘違いばっかり。ママのお菓子は美味しいけど、お姉ちゃんも私も、そんなに甘いの好きじゃないのに。みんな、バカ」



「本当にいいのかい? 全然家まで送っても大丈夫だよ?」

「いえ。あと少し歩けばいいだけですし。先輩も寝ちゃったから、早くで休ませてあげて下さい」

 俯いたまま力なく座席に座り込んで眠る部長を窓越しに見つつ、丁重にこれ以上の送迎を辞退した璃子は、ふと前方にある家に注目する。

 無機質なコンクリートの外壁が近代的な印象を与える家は、その無機質さゆえに冷たさを感じた。しかし、窓から零れる明かりは、家の主の瞳のように優しい色をしていた。

「今度はうち来てよ。ご飯、一緒に食べよ」

「うん。またね」

 小さく手を振るという、控えめながらも年相応な姿を漸く見せてくれた少年に手を振り返した璃子は、微笑む家の主に深く辞儀をしてから帰路についた。

 素直にか。と小さく呟いた璃子の声は、街路灯で淡く照らされる住宅街に溶けていく。けれども彼女の心にはずっと何度でも転がり続け、やがてそれは手に伝わり、バッグの奥底にあったスマホを引っ張り出した。

 一瞬、指が躊躇いを示したものの、すぐに心が軌道修正を図り、十数件メッセージが溜まっていた相手のトークルームを開いた。

 どう返事しようかと悩んだ璃子だが、いや、こうやって悩んで後回しにしてしまうのがいけないのだなと首を振る。

 自分も、こういう自分のダメなところを母親に似たせいだと責任を押しつけて、素直になれずにいたんだろうなと自嘲しつつ、彼女がタップしたのは、受話器のマークだった。

 一コール、二コール、三コール、四コール。夜だから出ないかもしれないという不安とは裏腹に、相手は応答してくれた。



 そして璃子は、

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