【心臓のソの音】




「璃子ちゃんは、憂鬱なんだね」

「えっ?」

 ピアノの前でぼおっと座り込んでいた璃子は、部長によって埃っぽい鍵盤の上に置かれた部誌の、鮮やかな色合いで我に返った。

「わ、今月も綺麗な表紙絵ですね。流石です先輩」

「こら、話を逸らさない。そんなに憂鬱なのは、やっぱり彼氏くんとの破局?」

「えっ⁉ 破局って」

「学校なんて狭い場所で、バスケ部の大型新人の恋愛事情なんてあっという間に上から下まで出回るものなの」

「……先輩、そういう話題気になるんですね」

「そりゃ、知り合いの女の子の話題だからね。もしも相手がロクでもない理由で璃子ちゃんを手酷く振ったのなら、それ相応の報復をしないと」

 発行したばかりの部誌を丸めながら眉間にシワを寄せる部長に、璃子は慌てて首を振った。

「違うんです、私が悪いんです。なのに、彼は怒らずに、円満に別れてくれました」

「そう? 当人同士が納得いってるんなら、私の出る幕はなさそうかな」

「心配してくれて、ありがとう、ございます」

「……感謝の言葉とは裏腹に、不満そう。まさか、私のことで憂鬱?」

「それは……」

「あと数ヶ月で私は引退しちゃうけど、後味悪いのは嫌よ? さぁ、不満を言いなさい」

 鼻同士がくっつきそうなぐらい近づいた、フランス人形のように端正な顔立ちによってタジタジになった璃子は目を泳がせながら口を引き結ぶ。

 しかし、じっと凝視し続ける蜂蜜色の瞳にすぐに観念した璃子はモゴモゴと口を動かす。

「先輩って、背の高い人が、好きなんですか」

「え、なによいきなり」

「ハリウッドスターみたいな人が好きなんですか。まぁ、分かりますよ、私も、かっこいいと思いますよ、ウィリアム・フランクリン・ミラーとか」

「ちょっとちょっと、待ってって。なに? 金髪碧眼高身長って、そんな存在なかなか現実にはいな、……いや、知り合いに一人いるな」

「やっぱり、いるんじゃないですか。彼氏さん」

「違うよ。そいつは、……あー、従兄みたいなヤツ。彼氏じゃないよ」

「仲良さそうに、カメラ時計のところで待ち合わせしてましたよね」

「やだ、見られてた? 父さんが過保護なの。ちょっと前まで私が夕飯すっぽかしても、なんにも言わなかったのに、最近は『用事がないのならまっすぐ帰って来い』って煩くて。とうとうあいつに送り迎え頼んじゃって、ほんとやになる」

「仲良いのは事実じゃないですか」

「まぁ話はそこそこ合うから。……あの人と私の関係が憂鬱なの? もしかして、あいつに一目惚れしちゃった? まぁミラーに負けず劣らずの面ではあるからねぇ」

「先輩が好きです」

 昇降口で融けた言葉をもう一度形作り、勢いのままに璃子は口から零した。

 それによって、微笑みを浮かべていたはずの部長の表情から生気が失われ、磁器製人形の顔立ちとなった。

「……いつから?」

「入学したての頃から。先輩が、新入部員勧誘のためにチラシを配っていたのを見かけて」

「一目惚れなのはあってたんだ。あの時、卒業した人達に文芸部押しつけられたからかなり不機嫌な様子だったと思うんだけどね」

「それでも、先輩は綺麗でした。……きっかけは、その姿に見惚れたからですけど、でも、先輩の人柄も、好きなんです。なのに私は、最低だから。保身に走って、彼の告白に応じて、結局、自分のこと嫌って、耐えられなくなって」

「いざ好きになると、怖くなったり逃げたくなったりするなんて、そんなに珍しいことじゃないよ。頑張って告白した璃子ちゃんは偉いね。私は、そんなことできないから、尊敬しちゃった」

「先輩、付き合って下さい」

 なんの前触れもなく、その言葉とともに一筋の涙を流した璃子は、目の前にある鍵盤に指を置く。

 響いた『ソ』の音は錆びついていて、今の璃子の鼓動のように不自然に、そして複雑に震えていた。

「ごめん」

 丁寧に調律されたグランドピアノを彷彿とさせる声に、璃子は絶望した。ただただ、なにも言わずに瞳から涙を零す。

「私、誰とも付き合わないって、決めてるから」

「そう、なんですね。馬鹿なこと言って、ごめんなさ──」

「だからさ、璃子ちゃん。デートしようか」

「……え?」

 部長が涙で濡れた目元にハンカチを当ててくれたことで漂ってきた甘い香りが、大切に心にしまっていた感情を叩き割ろうとした璃子を思い留まらせた。

 それによって煮えた心が落ち着いた璃子は、部長の思いがけない言葉によって涙をピタリと止める。

「私の考えなんかひっくり返すぐらい、素敵なデートをさせてよ」


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