青息ト息

【ラプソティ・イン・ブルー】




 璃子は悩んでいた。

 それは、膝の上にある閉じられたノートに、新たな言葉を書けていない──……からではない。手に持っているお気に入りのシャープペンシルの中の芯が切れてしまったから、という訳でもない。

 ただ、目の前にいる人物への対応に困っていた。

「……先輩、あんまり見ないでください」

「見てない」

「私が椅子に座ってから、その、ずっと見てますよ。そんなに見られたら、今月の部誌に出す小説書けないんですけど……」

 書けない、という璃子の言葉に一瞬だけ眉根を寄せた文芸部部長は、古ぼけたピアノ椅子の上でくるりと体の向きを変えた。そして、向き合う対象を璃子から使われなくなったピアノにする。

「私はただ夏期講習で疲れて座ってただけ」

「ふつーに、元気そうです」

「私の擬態が完璧ってこと。全く、璃子ちゃんは自意識過剰さんなんだから」

「す、すみません」

 璃子の小さな謝罪は、調律されていないピアノが奏でる『ラプソディ・イン・ブルー』に掻き消された。

 調子外れなその音を、ほぼ物置部屋扱いされている小さな部室に響き渡らせることに集中している目の前の彼女から、視線をそっとノートに移した璃子は、部誌に寄稿する小説を書き始めるのだった。




「もう下校時刻だよ」

 蜂蜜のような甘さを感じる声とともに、白く細い指が開かれたノートの上をコツコツと叩く。

 それによって我に返った璃子は、手からシャーペンを落とした。

 ライムグリーンのペンは天板を転がって、床の上で乾いた音を立てる。

「ほんとドジっ子さんだね」

「すみ」

 ません。と璃子が言葉を続ける前に、シャーペンを拾った部長は璃子の手を取って掌にそれを置いた。

 璃子の熱い手とは違う、ひんやりした手でレザー調のスクバを持った部長は、早く帰るように告げる。けれども、その忠言に璃子はふるふると首を振った。

「先輩は先に帰って下さい」

「ムリ。言ったでしょ、部室の戸締りは部長がしないとダメなの。だから、璃子ちゃんが帰らないと私も帰れないの」

「じゃあ、鍵を貰うので──」

「強情だね、ダメだって。職員室に鍵返さないといけないから、大倉にぐちぐち言われる。璃子ちゃん、大倉先生嫌いでしょ?」

 嫌い。その言葉がどうも好きになれない璃子は、モゴモゴと否定の言葉を呟きながらもバックパックに荷物を放り込む。

「はいはい、閉めるよー。いーち、にー」

「待って下さ、あ、閉めないで……!」

 どうにか璃子が部室を飛び出したと同時に、鍵をかけた部長はくるりと踵を返し、『じゃ、お疲れ様』と簡素な挨拶をして立ち去ろうとする。

「せ、先輩! 明日も、部室来ますか?」

 璃子の問いかけに、部長は背を向けたまま、ひらひらと手を振るだけだった。

 そんな曖昧な返答に璃子は肩を落としつつ、部長が向かった職員室とは逆方向にある昇降口へ行く。

(五分だけ。昇降口で先輩を待とう)

 靴箱の蓋を開けず、三年生の靴箱がある場所をチラチラと様子を窺う璃子は、部長に告げたいたった一言を、閉じた口の中で何度も転がした。

飽きるぐらいに転がして、慣れてしまって、緊張せずに、後悔せずにその言葉を告げようと思った。

「あれ、りーちゃん」

 しかし、璃子の目の前に現れた男子生徒によって、言葉は音にすらならずに喉の奥で融けた。

「こんな時間まで学校にいるの珍しいな」

「……うん。部誌の原稿、夢中になって、遅くなっちゃった」

「そうなん? あ、そうだ。駅前行かない? お腹すいちゃってさ」

「いいね。サイゼ? それともマック?」

「マック!」

 やめておけ、と心の中では警告を出すのに、現実ではスラスラと同意の言葉が出る自分に、璃子はうんざりする。

 けれども、それでいいのだと璃子は無理やり納得した。だって彼は、自分の彼氏なのだからと。

 融けてしまった言葉が胃の腑の辺りにズンと圧迫してくる錯覚を無視しながら、璃子は顔に当たり障りのない微笑みを貼りつけ、隣にいる彼と手を繋いだ。


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