名無しは非日常に気付けない 後編
「ハナに嫌われたかもしれない」
「なんだって?」
ある日の放課後。深刻な顔で部室に来たケンは、そろそろ梅雨を迎えそうな最近の気候と同じぐらい、湿っぽい雰囲気と成り果てていた。
んなアホな。半月かけて、最近は弁当一緒に食べる仲にまで発展していたのに。そんないきなり嫌われるか?
女心と秋の空とは言うが、ハナちゃんはそんな子じゃない。しかし、紛れもない事実らしい突然の発言は、私に眩暈を覚えさせるのには十分だった。
「何で嫌われたと思ったの」
「彼女がいるのに、どうして一緒にいようとするのか、と、聞かれて。これは、遠回しの拒絶なのかと……」
「一応聞くけど、彼女はいるの?」
「いるわけないだろ……! そもそも、これまでの人生でいた事がない」
その事実は別に知りたくはなかったな。と思いつつ、シャーペンを一旦置いた私は、心なしか栗色の髪がヘタっている気がするケンにコーヒーを淹れた。
「ハナが、俺と同学年の女子が一緒にいるところを何度も見たって……」
「それって、どんな子?」
「え? ハナより小柄で、オレンジの目と長い髪が綺麗な女子だって……そうだ君みたいな……ん?」
あぁ、全くもう。ケンのせいで頻発している気がする偏頭痛を、顳顬を押さえて誤魔化す。
コイツは友人が少ないから、交友関係は限られている。私が知る限りでは、ハナちゃんと私ぐらいしか女子の知り合いはいないのに。気が動転して、同学年女子(もとい私)の特徴を考える暇もなかったんだろう。
「ハナちゃんと直接会ったのは、もう何年も前なんだよ。だから、向こうも私と気付かなかったんだろうね」
まぁ、予想していた『最悪の事態』じゃなくて良かった。
ほら、コーヒー飲んでいる場合じゃないぞ。早くハナちゃんの誤解を解いてきなさいとケンの背を押すが、ハナちゃんの事となるとどうも優柔不断な彼は不安げに此方を振り返る。
「どうすれば弁解の声が届く?」
「普通に事実を伝えればいいよ。クラスメイトにハナちゃんとどうすれば仲良くなるのか相談していたってね。大丈夫だよ、ちょっとの誤解で関係が崩れるほど、貴方の人徳は低くない」
私の言葉に、小さく頷いた彼は、今度こそ振り返る事なく廊下を駆けて行った。
当たり前だが、後で廊下を全速力で走るなと生活指導に怒られていた。しかし、その表情は初夏の如く晴れやかな顔だった。
「……書けた」
何時もより時間はかかったし、結局ひと月分の部誌は発行できなかったが、ルーズリーフにはしっかりと完結した話があった。
ケンをキャラクターに当てはめた話なので、利用したみたいで少し罪悪感はあるが、まぁ大分ぼかしたので余程しっかり読み込まなければ誰なのかは分かるまい。後は自宅のパソコンで校正したものを打ち込めば完成だ。
軽やかな気持ちを味わいつつ、私しかいない部室で安堵の息を吐く。
ふと、窓を見ると、濁った空からパラパラと雨が降っている。バッグの中を確認するが、こういう時に限って折り畳み傘が無い。しまったな。
いや、確か共用傘が置いてある筈と、灰色のロッカーを開けるが、空っぽだった。ケンのヤツ、都合のいい時に副部長権限を使いやがって。
まぁ、早い者勝ちなので仕方あるまい。近場のコンビニまで走って傘を買うとしよう。
部室の戸締りをし、昇降口に向かうと、一際高い後ろ姿が見えた。
「ケン。傘を借りる時は、一言ぐらいは声をかけてほしいな」
「あ。いや、執筆に集中していたから、あとで連絡しようとしたんだ」
「それは有り難いけど、部長として色々と――」
「先輩!」
見覚えのある傘を持つ女子生徒がケンに駆け寄った事で、ケンが少し焦った顔をする。……そういやコイツ、傘持ってないな。
「やっぱり傘持ってないじゃないですか!」
「すぐそこだから、走って帰れば大丈夫だ」
「風邪ひいちゃいますよ!」
伸ばしっぱなしの私とは違う、さっぱりとしたショートカットの髪を眺めていると、女子生徒とパチリと目が合った。
「……あれ? お姉ちゃん?」
「久しぶり、ハナちゃん」
「えっ、髪と目の色が……」
「成長していくうちに落ち着いた色になったの。妹と全然違う色になっちゃった」
「じゃ、この前の遠目に見た人って、」
「私。……なんだ、共通の話題なのに言っていなかったの?」
「妹に関する事は、君が気にするかと思って……」
全く、その妹関連でハナちゃんの紹介頼んできたくせに。今更そんな事を気にしなくてもいいのに。変なところで気遣い屋なんだから。
「……サキちゃん、なんで彼女いるなんて言ったんだろ」
ぽつりと呟いたハナちゃんの言葉。それによって、顔が歪みそうになったのを、どうにか堪えた。
……あぁ、よりにもよって『最悪の事態』が的中するとは思わなかった。
「あの子、早とちりなところがあるから」
「あぁ、確かにそうですね」
「ほらほら。雨足強くなる前に、早く帰りなよ」
「ハナの傘がない」
「そんなの二人で使えばいいじゃない」
「えっ」
私の提案に狼狽える二人。ちょっとあからさまだったかな。
「傘は結構大きいし、ケンが入っても余裕があるよ。濡れて帰るよりは良いんじゃないの」
「……それもそうだな」
「えぇっ⁉」
耳たぶが赤くなっているハナちゃんに構わず、灰色の傘をぱっと広げたケンは、ハナちゃんに入らないのかと声をかけた。
「いや、だって、お姉ちゃんも傘持ってないのに」
「私の事は気にしなくていいよ。もう少し待っていたら、父さんが来るから。優雅に車で帰るよ」
「やっぱり俺と一緒だと、狭いから嫌か?」
「い、嫌とは、言ってないです!」
ええいという感じで傘に入ったハナちゃんと、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩くケンに手を振って見送った。
そして優しい彼らが一緒に帰ろうと提案しなかったのを安堵し、重い溜息を一つ吐く。……さてと、急遽用事が出来たし、帰るのは後にしよう。そう思って、校内に戻ろうとした体は、ふと香った甘い香りで停止した。
「昨日から出張でいない父さんにどうやって迎えに来てもらう気?」
「咲弥……」
いつの間にか、すぐ側にいた妹。私とは違う、父とそっくりで綺麗な蜂蜜色の瞳で、此方を無感情に見下ろしてくる。いや、瞳だけじゃない。平均身長にギリギリ届いていない私と、モデルのような体型の妹。真っ黒になってしまった私の髪と、チョコレート色の柔らかで艶やかな妹の髪。比べれば比べるほど、私と妹は似ていない。
「ハナちゃんに、嘘をついたね?」
探しに行こうと思った本人が直接来てくれたのだ。先手必勝だと核心を突いてみる。
雨によってほとんどの人が帰ってしまったので、昇降口には私と妹しかいない。だからか、彼女は取り繕うこともなく、嫌悪感を露わにした。
「今さっき、嘘をついた人に言われたくない」
「貴女は、度を越えているよ。ハナちゃんの人間関係を壊すところだった」
「それが?」
「それがって……」
「アイツとハナが少しでも関わるなんて、反吐が出る。あんなヤツなんかと喧嘩しても、ハナには私がいる」
ケンは、まだ人の意見を聞き入れるから、困ったヤツで済んでいる。けど、咲弥は違う。この子は問題児だ。人前では人当たりが良さそうに取り繕って、その実ハナちゃん以外の周囲の人間を貶している。
私は特に馬鹿にされているみたいで、周りに人がいないと態度を取り繕う事もない。
「あの人、中学の時は大分素行悪かったらしいじゃない。今だって、学校サボるような不良だし。ほんと、アンタの友達ロクなのが――」
「ハナちゃんにとっての貴女がロクでもない友達だって何で分からないんだ‼」
何時もの頭痛とは違う、ふつふつと湧き上がる痛みによって、衝動的に声が出ていた。きっと、今の私の顔は酷く歪んで真っ赤だ。顔色一つ変えない咲弥に、猿みたいな顔だと、馬鹿にされるんだろう。
しかし、予想とは裏腹に、彼女は酷く狼狽えていた。
「下らない嘘をつかれたハナちゃんは、傷ついた。私はそんな嘘を言う友達、ごめんだね。咲弥、これまで貴女がいくら人を馬鹿にしても、私以外にはそれを絶対に出さなかった。だけど今回は違う。私じゃなくて友達を馬鹿にしたんだ。見逃すわけにはいかない」
この子とこんなに喋るのは何時ぶりだろう。嫌味を聞くのも疲れてしまって、最近はなるべく会わないようにしていたから、顔を合わせること自体も久しぶりだ。
「なによ」
小さな声。五月病なんてものになってしまう弱い私とは違って、自信に満ちている咲弥の口から出たとは思えない言葉に、私が目を見開いた直後。彼女の、傘を持つ右手が――っ⁉
「もう無理だよ」
身の危険を感じ、身構えようとしたが、その前にこの状況を融かすような穏やかな声が聞こえた。
「……龍之進、先輩」
「君、恐らくお姉さんに暴力振るった事あるだろう。もう、無理だよ。何したって、お姉さんは君に必ず不信感を抱いてしまう。お姉さんの優しさに甘え過ぎたね」
いつもと変わらぬ、先輩の不思議な安心感。お陰でさっきから煩かった心臓が少し落ち着いた気がした。
それは咲弥も同じらしく、傘を取り落としたまま固まっていた。そんな彼女の顔は、毒気を抜かれたような表情をしている。
「そんなこと、私、」
「『ちょっとだけ』つねった。『ほんのすこし』叩いた。君にとってはその程度だろうね。残念ながら、お姉さんは違うよ」
揺らぐ蜂蜜色が此方を見る。その色を、前に見たのは、どれぐらい前だったか。ずいぶん昔の、本当に短い期間。その時だけは、ちゃんと、姉妹だった。
「お友達も、お姉さんも、ケン君にとられた事が、そんなに嫌かい?」
え? という私の声は、雨音に掻き消される。
そして、揺らいでいた蜂蜜色は、とうとう蕩けて零れ落ちてしまった。
「……嫌い。あんなヤツ、大嫌い。私の方が、ずっと一緒にいるのに。私が苦労しなきゃ得られないもの、アイツは簡単に手に入れる。お姉ちゃんと、映画観に行った事なんてない。ハナの手作りのお弁当なんて、貰った事なかったのに。私には、お姉ちゃんとハナしかいないのに」
ぽろぽろ、ぽろぽろ。涙と共に吐露されるのは、ハナちゃんとやりたかった事、私にしてもらいたかった事。
咲弥は、我儘な子だ。だけど、悪い子じゃない。さっきの右手は、ただ傘を差し出そうとしただけ。それは理解していた筈なのに。私がこの子を甘やかして、そうしているうちに悪化していく我儘に嫌気がさした。そうして妹の何もかもを避けてしまったのだ。
ありがとう、一緒に帰ろう。それさえ言えず、妹の何気ない行動に怯える私は、家族として最悪だ。
「言っておくけど、ケン君は嘘をつかなくても他人から興味を持たれるんだよ。それが君との違い。人徳の差ってヤツ」
「先輩、もうやめてくださ――」
とめどなく涙を流す咲弥の姿が耐えられなかった。だから、私が先輩を止めさせようとした。けどその前に、傘を置いたまま咲弥は踵を返して行ってしまった。
「咲弥!」
「行かなくていい」
「けど、こんな酷い雨の中で、泣いてるあの子を放っておくなんて!」
「君は、酷く優しいね。それと共に、酷く鈍い。だから、妹ちゃんが期待してしまうんだよ。我を通しても、優しいから許してくれる。少し困ってみせたら、心配してくれる。そのせいで、あの子の世界は酷く狭い」
偶には井戸から出て大海を見ないとね。と微笑んだ先輩によって、緊張がやっと解れた私は、へたり込むようにその場に蹲った。
「どこから、見てたんですか?」
「君がケン君達を見送った辺りかな」
「ほぼ最初から……」
「大丈夫? まだ保健室開いてると思うけど」
「いえ、あんなに怒鳴ったのが初めてで、体も心もまだ現実に追いついていないだけなので」
「やっぱり優しいねぇ、君は」
そう言いながら、龍之進先輩は隣に座る。放っておくのは寝覚めが悪いかららしい。先輩も先輩で、優しすぎると思うよ。
「ガロア君から聞いたよ。周りの人で話を書いているんだって?」
「はい。さっき書き終わりました」
「そっか。じゃあ次の部誌に掲載するのかい?」
「いえ。やっぱり、あれは捨てます」
「えぇ? 出来、良くなかったの?」
「今のでよく分かりました。私は、自分の作品に現実を入れたくない」
書き上げた時に感じたのは、モデルにした申し訳なさじゃない。自分の作品に現実が混入した気持ち悪さだ。ただでさえ、現実は疲れる事ばかりなのに、自分の作るものにストレスを感じるものなんて入れたくない。
「そうか。ちょっと興味あったんだけどね。作者が納得いかないなら、仕方ないよ。……僕も、そんなに現実は好きじゃないけれど、現実ほどのエンターテイメントはこれ以上ないと思うけどね」
「エンターテイメント?」
不思議な言葉に私は首を傾げたが、先輩はそれ以上の言及をする事は無かった。
「顔色、大分よくなったね。さて、僕はもう帰ろうかな」
「あの、さっきはありがとうございました」
「僕も、ケン君と君を貶された事を見逃せなかっただけだよ。さっきも言ったけど、人徳ってヤツのお陰」
藍色の傘を差し、じゃあねと呟いた先輩は帰っていく。
それを見届けた私は、しばらくぼんやりしていたが、やがて立ち上がった。そして、バッグの中に入れていた原稿を全て細かく引き裂き、掃除用に置いてあるゴミ箱に捨てる。
咲弥が置いていった傘を拾って、広げる。ぱっと咲いた色は、あの子の好みらしい橙色で、灰色の空が少しだけ明るくなった気がした。
帰ったら、咲弥に感謝の言葉を贈ろう。
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